『中村詩――アネモネ・二つ目の嘘』
その翌日。
司書室の扉が開いた瞬間、空気が変わった。
入ってきたのはまるで舞台から客席へ降り立ったような人だった。
中村詩先輩が、奏先輩の予告通りに現れた。
詩先輩の手には一通の手紙。
昨日の奏先輩の表情を思い出して、わたしは声が出そうになる。
中には、ただ一行――
『嘘つきは誰?』
同じ言葉でそう書かれていた。
昨日の響宛のものとは異なり、細かな皺が走り、糊の跡が封筒の端から滲んでいた。
縁はもう乾き切って、紙だけがわずかに波打っていた。
一度開封され、再び貼り直された痕跡だとはっきりとわかる。
そんな封筒の上部を、ペーパーナイフで慎重に開いていた。それは想い人からの手紙を扱うような美しさで、詩先輩の人柄が滲んでいるようだった。
「これ、今朝ね、下駄箱に入ってたの。封は一度いじられてたから、上をナイフで切ったんだ」
昨日の帰り道、奏先輩は『出したのは私』と言った。
もし、それが本当なら、貼り直したのは奏先輩の仕業なのか。雪乃先輩は封筒の端をじっと見つめ、
「糊は最低でも一晩は置かれています。しっかり乾いています」
わたしの考えを裏付けるようにそう言った。
詩先輩は一瞬、貼り直したのは自分と思われたことに気づいたようだった。けれど、わずかに顔をしかめただけで、何も言わなかった。
でもどうして、封筒は貼りなおされたのだろうか?
皺だらけの封筒に、貼り直した縁。
使い古された紙肌と、二度目の封。
再利用の痕だけが残っている。
考えがまとまらなかった。
封筒の縁をなぞっていた指が、ふっと止まる。
手紙の他に、また押し花。
アネモネが一輪、静かにそこにあった。
花言葉は『儚い恋、見捨てられた、君を愛す……』だったろうか?
詩先輩が誰かを見捨てたのだろうか?それとも、誰かに恋していたということだろうか?
封筒のことも、アネモネも、単なる推測。証拠は何もない、わたしは自分に言い聞かせた。
でも、昨日のカスミソウよりは、嘘つきという言葉に相応しい、そんな気がした。
手紙から、視線をゆっくりと詩先輩に向けた。
事前に知らされてなければ、三つ子と見間違えたかもしれない。それくらいの完成度。一流の役者を目の前にした時の衝撃は、こういう物なのかもしれない。
「詩さんはどこでお二人と知り合ったんですか?」
雪乃先輩は柔らかい口調で聞いた。
「ダンス部の動画バズったやつ!特定されたっしょ?」
響の真似。
「それでね……?うちの学校だってなって、すぐ見に行ったんだ」
次に奏さんの真似。
「名前も似てるでしょ?初めて二人に会った時、三つ子みたいって感動しちゃって。特に奏のダンスがね。音楽が目から入ってきたみたいで。泣いたね」
最後は、詩先輩自身……だろうか?
一瞬で三人を切り替える。
唖然とするわたしは雪乃先輩と目を見合わせる。
昨日に続いて、先輩がここまで驚く姿を見れるなんて。
詩先輩の存在感は、双子とはまた違った種類だった。
わたしは何故かその姿から、目を逸らすことができなかった。一通りわたしたちの反応を楽しむと、詩先輩はふっと息を抜いた。
「私、一人っ子でさ。響と奏を見た時。こんな可愛い子が二人もいるんだって。気づいたら、交際申し込んでた」
「二人も驚いてたけど、自分が一番びっくりしちゃったよ。おかしいよね。私。こういうの一目惚れっていうのかなあ?」
やはり、これが素の話し方なのだろう。
「双子のダンスにシンクロするのが、最初は苦労して。人から見たら意味のない事が好きなんだよね。自分でもバカだなって、思うんだけど」
「告白もね」
わたしはなんとなく詩先輩に、共感をしてしまった。
無茶なことをしたのは、わたしも同じだったから。
「最初は……どんな感じだったんですか?」
そんな思いが、口から出てしまった。
詩先輩はわたしの方を見て、にっこりと微笑んだ。
「私がね、奏のダンスとメイクを完コピして会いに行ったんだ。そしたら、奏がすっごい喜んでくれて」
詩先輩の表情に愛情が滲んでいた。
「こんなに良くしてもらったのは初めて。なんて言うんだよ。それで響の事も説得してくれたんだ」
「大げさだよね」
詩さんは、何でもないように笑った。
「それで二人の側にいたら、双子って言ってもやっぱり全然違ってて。今はね、ダンスは奏、見た目は響って感じにしてるの」
「でも、奏が結構怒ってね。推し変なのか、だって」
また詩さんは笑った。今度は少し寂しそうに。
「お手紙の件、心当たりはありますか?」
雪乃先輩は言った。
「心当たり……ねえ」
「響はどうせ、あるっちゃあるけど、なんて言ったんじゃない?響らしいよね。まあその通りなんだけどね」
目を伏せる詩先輩の表情は読み取れなかった。
「心当たりってわけじゃないけど」
「私たちの関係を不快だって思ってる人は、やっぱり多くて。でもさ、今時の、多様性ってやつ?を考えてよ。好きな人が双子でさ、片方を選べない時って、そのまま諦めないといけないのかな?」
「まあ諦める――方がいいんだろうけど、ね」
「双子ならずっと一緒じゃない?私、二人が羨ましいのかも」
詩さんの本音が溢れたようだった。
自嘲気味に詩先輩は笑みを浮かべた。
「契約恋愛のことは聞いてる?」
「響は、言わないか。私たち三人は、それぞれを平等に扱うっていう、決まり事があってね」
雪乃先輩の目が光ったように見えた。
「確認ですが……、その『契約』例外は一つもない――そう理解してよろしいですか?」
「もし誰かを“一番”に選べば、契約はそこで終わる……」
雪乃先輩は囁くように付け足した。
「特に取り決めはないけど……今のところ、うまくやってるよ」
詩先輩は困ったように言った。
『契約恋愛』
もし、雪乃先輩がわたしにゲームとして、遊びとしてなら付き合ってあげる。そう言われたら。
詩先輩みたいに割り切れるだろうか?
それでも良いですって、
泣きながら懇願しているわたし?
そんなのは嫌だと反発する自分?
どちらの未来も、くっきりと目に浮かんでしまった。
窓の外、低く垂れた雲は、わたしの心を覆っているようだった。
「詩さんは、この件はどうしたいんですか?」
先輩の質問。
詩先輩は口元に手を当ててしばらく考えてから言った。
「私は――響と同じかな。時間に任せて忘れるでいいんだけれど。雪乃さんなら、簡単に犯人みつけちゃうのかもだけど」
真相がわからないほうが良い。そんな口ぶりだった。
「差し出し人に心当たりはありますか?」
「響にフラれた子なら、たくさん知ってるけど。だからって、こんな事までする子は、いないかな」
「カラッと無理って言うからね、響は」
「誰かにすごく恨まれてる。そんな話は聞いたことないかも。それに響にフラれた腹いせに、こんな手紙を出したのか?って」
「そんなこと、聞いて回るわけにも……ね」
「詩さんは、お二人を選べるとしたらどちらとお付き合いしたいですか?」
雪乃先輩は言った。
「あはは、それは言っちゃダメだよ」
急な問いに、わずかに本音が漏れ出たようだった。
詩さんは『二人を平等に愛している』『選べなかった』そう言った。
そんなことができるのだろうか?もしできるとしたら、どんな気持ちなんだろうか?
「失礼なことを聞いて、ごめんなさい」
「響さんのことはわかりました。奏さんと、詩さんに関してはどうですか?」
「ああ、私はこんなだから、誰も気にも留めないよ。認めてほしいって、思うことはあるけど」
詩さんはためらってから続けた。
「奏は、そうだね、響が好きだった子と付き合うことになったんだけど、結局うまくいかなくて。しかも、仲良し三人組だったって言うから……」
「それに、響とその子がホントは両想いでって」
「昔のことだけど、いまだに引きずってるみたい。いや、本人いないとこで言うこっちゃないね」
「忘れて」
「契約恋愛なんて言い出したのも、それがきっかけみたい」
「でも三人になってからは、生き生きしてて、ダンスもさらによくなってね、元気一杯だよ」
「私も楽しいしね。居場所があるって、良いよね」
「雪乃さんと……ええと如月さんだっけ。あなたたちならわかるんじゃない?」
そう締めくくった。
わたしは急に話題を振られたことに少し驚きながら
奏さんのことを思い出した。元気?なのだろうか?
あれが?
遠くで雷鳴が鳴った。
嵐はまだ来ない。それは三人の心を静かに待っていた。




