エピローグ『夕暮れは薔薇の香り』
わたしたちは静かな川沿いの道を、ゆっくりと歩いていた。
先輩にとって、最後の一幕なのかもしれない。
薔薇の香りが、遠くから漂ってくるような――
台詞一つない、そんな別れのエンドロール。
わたしは思った。これが最後なんていやだ。
だってわたしたちは生きている人間なのだから。
こんな綺麗な最終回なんて、そんなのは嫌だ。
静寂の中、遠くで鉄橋をわたる、電車の音だけが聞こえる。沈みゆく夕陽は、その最後の輝きを水面に映していた。
昼でもなく、夜でもない。この時間帯は、どっちつかずのわたしたちのようだ。
わたしの前を歩く先輩は物思いに耽っているようだった。
「薔薇の木に、薔薇の花咲く」
歌うように先輩が呟いた。
「何事の、不思議なけれど」
わたしはそっと声を重ねる。
先輩はゆっくりと振り返った。その表情は、夕暮れ以上に朱く染まっていて、頬には一粒の涙。
一番星のような涙。
「この詩だけが……ずっと救いだったの」
その時、心と心が通じ合うような、永遠の一瞬があった。二人だけの世界で、わたしは呟いた。
「薔薇の花はいつの日も、なんの不思議もなく咲き誇るけれど……」
「本当は、それが奇跡……」
「……そうですよね?」
「北原白秋……薔薇二曲……わたしも大好きなんです」
わたしは、最後の一歩を踏み出すように言った。
「先輩は――そのままでいてください」
「薔薇が、ただそこに咲くように……」
「先輩が大好きな図書室にいてください」
「誰にも文句なんて……言わせません……から」
「もちろん、先輩が嫌がっても……」
「きっと遊びに行きますから」
この言葉が、先輩の孤独に届くかはわからない。
でも、わたしは――心からそう願った。
「毎日だって……通うから……」
これが本当に最後の勇気だ、震える声で口に出す。
「だって……友達でしょ?わたしたち……」
柔らかな風が、前髪をそっと撫でた。
その風は、わたしの中の何かをゆるやかに溶かしてゆく。確かにそう感じられた。
一瞬の勇気のあと、恥ずかしさで、どうしても先輩と目を合わせることができない。
自分の鼓動だけが聞こえてくる。早く何か言って欲しいのに、何も言ってほしくなかった。
長い沈黙に耐えきれず、おそるおそる顔を上げる。
先輩は大きく目を見開き、さっきよりも真っ赤な顔でわたしを見つめていた。
潤んだ瞳は、黄金色の輝きをたたえている。何もかもが柔らかく、優しかった、あの頃の黄金色の輝きを……
雪乃先輩は何度か深呼吸をしたあと、唇を微かに震わせながら、小さく声を紡いだ。
「どうぞ。よろしくね、萌花ちゃん」
「でも、ほんとはね」
「私から申し出をするはずだったのに」
わたしが見惚れてしまった、あのはにかんだ笑顔でそう付け足した。
わたしは、薔薇にはなれないかもしれないけれど――美しく咲く花を照らす、あたたかな光になれたら。
今は、心からそう思う。
そう、冬が春になって――雪が溶けて、花が萌え出づるように……
わたしは初めて、自分の名前が好きになった。
「わたしのことは、『もか』でいい……よ」
「ね?雪乃」
ふわりと薫った白薔薇の甘さの奥に、あの煤の名残はもう、なくなっていた。
夕空は淡く、どこまでも澄み渡っている。
薔薇と少女と、図書室の秘密 完
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薔薇二曲
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
北原白秋「薔薇二曲」(詩集『白金之独楽』より)
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