『薔薇が薔薇であるために』
静かだった。秒針の音以外、何も聞こえなかった。
百年が過ぎ去ったような、一秒しか経っていないような、そんな感覚だった。室内に眩しい夕陽が差し込んでくる。その光は、世界が、まだ滅んでいないと証明しているようだった。
「これでお話はおしまい」
先輩は、物語の終わりのようにそう言った。
本の最終ページをそっと閉じた時のような、現実に引き戻される悲しみ。いや、それ以上の心を引き裂かれる痛みがわたしを襲った。
「本当はね、一人で抱えてるのは、ちょっとだけ辛かったの。だからね、最後に……今日だけでも一緒に落ち込んでくれる人がいるのは、なんだか嬉しいな」
先輩は夕暮れの空よりも遠く儚い瞳をしていた。
その顔は逆光でよく見えないけれど、うっすらと目が潤んでいるように見えた。
「それでね――もう、ここには……来ないで欲しい」
先輩は静かにわたしを見つめ、はっきりと告げた。
世界から音が消えた。
「私のせいで、もかちゃんのこと何度も傷つけちゃった」
「私はもう……誰も傷つけたくない……」
わたしは、ラブレターに反射した淡い光を思い出した。あの時の、困ったような泣き笑いを思い出していた。
先輩のせいじゃないのに、わたしこそ『好奇心、猫を殺す』だったのに。
雪乃先輩が、皆から好かれるのは……そんな事じゃないのに。そう言いたいのに、声が出せなかった。考えがまとまらない。
言葉が出ない。
先輩は囁いた。
その声には、終わりの予感が確かに満ちていた。
「もかちゃんは、本当に本が、読書が好きでしょ?入学してすぐ、何回か図書室に来てたよね?私のせいで、大切な場所が……本当にごめんなさい」
「きっと、もかちゃんだけじゃない」
先輩は、今にも泣き出しそうだった。
「他にも私のせいで……大切な場所を奪われた子がいる。私も、図書室が本当に好きだから……」
先輩は冷めきった紅茶を、いつまでも見つめている。風が薔薇の花びらを運び、その中の一枚が夕陽にきらめいた。
わたしはその輝きの中に、小さな勇気を見つけた。
「どう……ですかね」
ゆっくりと言い聞かせるように、言葉を重ねる。幼子に語りかけるように、怯えを溶かすように。
「本を読んでる自分が好きなだけな、気もします。だから、先輩が謝る必要、ないです」
わたしは、はっきりとそう言い切った。
「もかちゃんは、やっぱり優しいね。私が、図書委員長なんかやらずに……ううん、本当は……学校にも来ない方がいいって」
「何度もね、言われたの」
先輩は、心に刺さった棘を見つめているような眼差しでそう言った。
「もちろん、自分でもそう思ってるのよ?ちゃんとわかってる。だからね、教室にもあまり、行かないの……行くと迷惑になるでしょ?」
先輩は薄く笑った
「私がいるだけで……私の存在が誰かを傷つけてる……わかってるのよ……」
「でもね……それでも私は……」
先輩は自らの思いを断ち切るように、わたしの目を見据えて告げた。
「だからね、きっと、こんな私とは、もう関わらない方がいいと思う」
消え入りそうな、それでいて、別れの決意を秘めた声。
「推理ゲームね、すっごく楽しかった」
先輩の天使のような微笑みの意味を、ようやく理解した。
それは、幼い日、泣くのを必死でこらえながら笑っていた、あの笑顔だった。
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