『再開、それは、さよならの』
一週間ぶりの図書室は、あの日と変わらぬ静けさに包まれていた。
放課後のやわらかな光が廊下を照らす中、わたしは、もう一度だけ先輩に会いに行こうと決めていた。どうしても雪乃先輩に確かめたいことがあった。
下校時間近く。夕暮れ時。淡く、たゆたうような時間。
司書室の扉を開けると、先輩はわずかに驚いた顔をする。それから軽く微笑んで、わたしを迎え入れてくれた。
いつもよりも丁寧に、完璧な味を求めるようにお茶を淹れてくれる。
「もかちゃん、やっぱり来てくれたのね」
「先輩、わたしに隠していることがありますよね?」
わたしが問いかけた瞬間、部屋に深い沈黙が落ちた。先輩は制服のボタンに指先で触れる。初めて見る先輩の動揺だった。わたしにはそう見えた。
先輩がゆっくり顔を上げる。その瞳に、強い決意と隠しきれない悲しみが揺れていた。
「ごめんなさい」
「私の嘘が下手だったから……もかちゃんにバレちゃった。嘘だけじゃないか。人と関わること……全部だよね。全部下手……」
いつもより弱々しい笑顔を見せる先輩に、わたしの胸は痛んだ。
「教えてください、本当のことを」
「先輩が抱えているものを、わたしにも背負わせてください……」
先輩の瞳が大きく揺れた。
「知らない方が、きっと幸せよ?」
わたしは静かに首を振った。もう後戻りはできない。
「別れ際の先輩の顔、すごく悲しそうだったから……一人で抱えるの……。そういうの、よくないと……思うから」
真相が知りたいのか、先輩と痛みを共有したいのか、自分でも分からなかった。
そんな今にも泣き出しそうな、わたしに向かって
「もかちゃん、ありがとうね」
そういうと、あのはにかんだ笑顔を向けてくれた。柔かくて……心に染み入るような暖かさを感じる。この笑顔が見れるなら、後悔なんてきっとない。
意を決して、わたしは覚悟を胸に先輩の言葉を待った。
「結論から言うわ……」
「お屋敷に住んでいたのは、二人……双子の姉妹だったの」
その言葉にわたしは、呼吸すら忘れそうになった。
「……双子って……どういうことですか?」
「萌花ちゃん、あなたが知っている優しいおばあちゃん――彼女は妹の方よ」
「そして、二階から怒鳴ったり、ものを投げてきたのが……姉」
「でも……あのお屋敷に二人で住んでいるなんて話、聞いたことがないです。言いましたよね?わたしのお母さんも、近所の人もそんな話、一度も……」
わたしは必死で伝えた。だってそんな事あるわけが。
じゃああの火事は。
口を開こうとしたが、言葉が喉元で止まり、胸が苦しくなった。
「だからこそ、よ」
先輩はやわらかな口調で続ける。
「萌花ちゃんは純粋だから……信じたくないのはわかるわ。そうね、じゃあ、試してみて」
「ちょうど司書室の窓は南側よ。そこから西、右に向かって投げる」
「その時に使える手はどちら?」
わたしは開け放たれた窓を見ながら考える。そして言葉を失った。
「左……手……」
「そうね、南の窓から西は右側よ。右手だと窓枠が邪魔をする。外へ自然に投げることが出来るのは、左手」
だから先輩は、おばあちゃんの利き腕やお屋敷の位置を、あんなにも気にしていたのだ。
わたしは今更ながらに気づかされた。
「おばあちゃん怪我をしてて利き腕は使えなかった。そんな……ずっと、優しくてお茶や、お花を……」
また言葉を詰まらせるわたしに、先輩は優しく声をかけてくれた。
「目の前でおばあちゃんを見ていた萌花ちゃんなら、わかるわよね?」
わたしは黙って頷いた。
「双子って……時にとても残酷なのよ」
「もし誰にも知られずに生きたければ、二人で一人を演じる事もできる。それがあまりに長く続いたら、いつしか嘘が真実になってしまうかもしれない……」
つまり……あの屋敷には二人の人間がいた。一人は二階に引きこもっていて、もう一人が家のことを全て行う。そして周囲には孤独なおばあちゃんだと見せかける――
わたしは先輩の言葉を頭で整理した。
静かに告げられた真実に、わたしは息を飲んだ。窓からの光が銀の髪を揺らした。先輩の姿はやっぱりシダネルの絵みたいだ。暖かくて柔らかくて、どこか寂しい。
「おばあちゃんがティーカップを売った理由も……?」
先輩は頷いた。
「もう限界だったのよ。経済的にも、精神的にも。二人で生きていくには。あの火災は、おばあちゃんが自分自身に贈る、悲しいアンコールだったのかもしれない。一番輝いていた時間に――」
「あの日の午後二時に戻るために……」
雪乃先輩は目を伏せて小さく息を吐いた。
浅い呼吸は、澄んだ心の苦しみを物語っているようだった。
「舞台に戻りたかった妹と、家に留まった姉――そんな関係だったのかもしれない」
「玄関のトランクにはお屋敷の火災保険や生命保険の証書、それと女優時代の写真や切り抜きが入っていたそうよ」
「それだけを持ち出すつもりだったのかしら?」
「そして“午後二時”――初演の時刻」
「家の花瓶は空、でも庭は満開。室内に薔薇を置きたくない理由があった」
「やけどに雑誌の焦げ跡は、ローズオイルなら放火だと気づかれないから……」
「『一人暮らしの老女の家が燃えた』ように見せたかった、そう考えると、広められていた噂も意味が分かってくる」
わたしは息を飲み込んだ。喉が鳴る音が普段の何倍も大きく聞こえた。
先輩は柔らかな口調で続ける。
「子供っぽい計画よね……でも案外、発覚しないかもしれない。それくらい、今は他人に興味がないでしょう?」
その言葉は誰が誰に言ったものだったのだろうか?
先輩は両手を強く握りしめていた。白い肌が透き通って消えてしまいそうなくらい。
「でもね、これだけは忘れないで」
「おばあちゃんが萌花ちゃんに渡した薔薇は、間違いなく優しい心からだったわ。それを萌花ちゃんは受け取ってあげた……彼女の優しさを、最後の心を」
「そしてね、きっと、おばあちゃんも萌花ちゃんの心を受け取ってくれたのよ」
雪乃先輩の瞳に浮かぶ深い悲しみを見て、わたしは胸が締め付けられた。
鳥のさえずりが聞こえた。
雲雀だろうか?
その声を追って先輩は窓の外を見る。
「羽をもがれた小鳥……鳥籠の中でどんな気持ちだったのかな」
それは先輩自身への問いかけのようだった。沢山の本に囲まれて……沢山の人々の想いに囲まれる先輩自身の――
先輩は話し続ける。
わたしには最後まで聞く義務がある。
ううん、そうじゃない。
わたしが聞きたいんだ。その想いを、心を。
話続ける先輩は、視線を窓の外に向けたまま、浅く呼吸を繰り返していた。ひとことひとこと区切られる言葉が、硝子細工のような彼女自身を静かに抱きしめているようだった。
「肉親を殺したいほどに追い詰められても。美しい薔薇のことは心から愛していた……我が子のように」
先輩は優しく花びらを撫でる。今までで一番優しく。
気づけば頬を涙が伝っていた。
この熱い滴はあの日、大切な場所を追われたわたしの心が流しているのだろうか?違うと信じたかった。
先輩はわたしに、そっとハンカチを差し出してくれた。
頬に触れた指先は震えていた。
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