『薔薇と探偵』
その朝、世界は目覚めの中にあった。
澄み渡った空の薄青と、遠く広がる海の深緑が、夢の名残のように溶け合っていた。
朝色の銀の帯が謳うように流れ、どこか異世界へと誘う遠い色彩を描いていた。
わたしは薔薇の花束を胸に抱え、言葉もなく光の中を歩き続ける。
あたたかな光が、塗り直されたガードレールの角に反射し、小さなプリズムを生み出している。
その白い煌めきは、煙のようにゆるく弧を描きながら、わたしたちの学校――清心館女学院へと続いている。
わたしはまだ知らない。
午後の窓辺で、世界が一度だけ止まることも、
名前を呼ばれるたびに、胸が締め付けられることも。
『薔薇の木に、薔薇の花咲く、何事の不思議なけれど』
現実逃避に中学時代に暗記した詩を口ずさみながら、また歩く。
登校中の生徒の集団が、わたしを小走りで追い越してゆく。
全員が、好奇と噂が入り混じった視線を向けてくる。ざわめきの中に「幽霊屋敷」「叫び声が重なる……」「真夜中に窓が赤く脈打つ」そんな、不吉な言葉が混じっていた。
その言葉を聞き流して、視線を逸らす。
けれど、もしわたしが同じ立場なら、きっと振り返ってしまうだろう。学校中の花瓶を埋めても、まだ余りそうな、大きく重い、そんな薔薇の花束を抱えた生徒がいたら。
すでに一年分、あるいはそれ以上の注目を集めてしまった。これ以上、通学路で目立つのは避けたい。
無意識に前髪を引っ張って、片目を隠そうとする自分に気づく。
歩みを速めようとしたその時、後ろから軽やかに近づいてくる足音が聞こえた。
「その薔薇、三丁目のお屋敷でしょう?」
銀灰の髪が、静かに朝日をはじいていた。
薔薇に顔を近づけ、やわらかく香りを嗅いでいる。
「香油まで、ローズオイルかしら……?薔薇づくしね。それに混ざるのは……?」
「この匂い……灯った芯が消えたあとの、微かな焦げと甘さ――気のせいかしら」
相槌を打つ間もなく、それでいて、ゆったりとした口調で言った。
清心館の天使――日ノ宮雪乃先輩が微笑んでいた。
図書室の主。生徒会長の支倉七々瀬や美術部の百瀬千里と並ぶ、二年生の最高傑作。学校公認モデルであり、少女探偵として警察とも繋がりがあるという、そんな人物だ。
噂の真偽はともかく、わたしにとっては、この世で一番苦手な、銀髪の悪魔。
いや、その表現ではまだ足りない、そう――魔王雪乃に違いなかった。
不幸は重なるとは、よく言ったものだ。
朝から薔薇を持ち、登校することがすでに不幸なのに。
その薔薇を持ったまま学校一の美少女に話しかけられてしまう――
目立ちたくない、わたしの不幸もここに極まったと言える。
「どうして……三丁目って分かったんですか?」
黙ったままだと、わたしが『天使』を無視したと噂になりそうで、仕方なく口を開く。先輩は、楽しげな様子で半歩後ろを歩きながら話し続ける。
「その薔薇ね、とても珍しいの。この町で育てているのは三か所。その中で萌花ちゃんの通学路にあるのは二か所」
指折り数えながら推理を披露してゆく。二の数え方が親指と人差し指なんだ……そんな事を思う。
「でも、それだけじゃ決め手にならない」
決め手ってなんだろう……?
それに、どうしてわたしの名前を知っているんだろう?
それを聞くと、もっと面倒なことになりそうで、わたしなりに考えたことを言ってみる。
「もしかして……この包みですか?」
目を凝らしてみると、古い雑誌のページのようだ。
「そうなの!」
わたしのつぶやきに先輩は目を輝かせながら、いまにも飛び跳ねそうだ。
「あそこのおばあちゃん、昔は結構有名な女優だったの。その包み紙は、当時の雑誌でしょう。あら、四十年前の今日が初公演ですって。随分と粋な事するのね」
確かに今日の日付、午後二時公演。完売の文字が変色した紙に薄く読み取れた。
先輩は、ひとしきり言いたいことを言い終えると、話しすぎたと思ったのか黙り込む。
薔薇の花びらに指先が触れる。
薄くトップコートを塗られた、
よく手入れが行き届いた爪が目に入った。
距離感が掴めない人だな……心の中で呟いた。
でも、こんな風にまっすぐ踏み込まれたら、誰だって好きになってしまうのかもしれない。雪乃先輩の不思議な魅力とぎこちない距離感に、胸が微かにざわめいた。
薔薇を持ったわたしを、皆は遠巻きに見るだけなのに。それが普通なのに。
それなのに、この人は『好奇心、猫を殺す』という言葉を知らないのだろうか。もしそんな事を言おうものなら、目を輝かせながら
『あら私、猫じゃないわよ』
くらいのことは言い出しそうだった。
わたしたちの隣を「ごきげんよう」と挨拶しながら追い越す生徒たち。もちろん、その声や視線が雪乃先輩にだけ向けられていることはわかっていた。
走り去る足音と共に、繰り返し刺さる視線に、思わず顔を伏せた。むせかえる薔薇の香り。その甘い棘が肌に滲んだ。頬をさすって、血が出てないことを確かめた。また前髪に触れてしまう。
心を傷つける棘に比べたら、この痛みなんて、なんでもない事だと思う。
そっと隣を覗き見る。ふわりと、遠くを見るような眼差し。いつものアルカイックスマイル。その微笑みをわたしに向けたまま、ふいに目が合った。
「……朝から疲れちゃうね」
聞こえるか聞こえないかの、小さな呟きだった。
「薔薇の花束を抱えて登校する女子高生って」
「きっと事件の始まりね?」
前置きもなく先輩は言う。やっぱりちょっと変だ。
花束を抱く腕に力が入る。
「事件なんてありませんから」
わたしは、それだけを短く答えた。そんなわたしにかまわずに先輩は続けた。
「今日の放課後、――推理ゲームしましょう?司書室で。薔薇を持ってる理由……答えを聞いてなかったよね」
怪盗の予告状のような声と、誰もが惹かれる笑顔に、言葉を失った。
先輩みたいに生まれていたら、わたしも天真爛漫になれたかもしれない。恋に、学校に、まさに薔薇色の青春を楽しめたかもしれない。靴箱を開けると毎日ラブレターが入っていたり、沢山の友達と笑い合ったり――
そんな少女漫画のような妄想に耽るわたしの顔を、先輩はまた覗き込んだ。
「プロポーズでもされたみたいな、花束だよね、ふふふっ」
楽しそうに先輩は笑った。
わたしはその笑顔を正面から見れなくて、俯きながら
「今時、薔薇の花束でプロポーズなんて……」
言いかけたわたしに
「私はロマンチックなの、嫌いじゃないかな?」
先輩の歌うような声。
変な妄想が浮かびそうになり、胸の高鳴りを必死に押さえた。
その時、歴史ある学校にふさわしい、澄んだ鐘の音が響き渡った。胸の奥に、やっと解放される安心感と、寂しさが隣りあっていた。
先輩は予鈴に慌てたようで、ひと足先に校門へ向かった。その時わたしに、思いがけない言葉をかけてきた。
「放課後、図書室で――推理ゲーム。約束だからね」
「ね!約束だから」
「楽しみにしてるから、必ず来てね!逃げちゃダメよ」
先輩は振り返って、もう一度約束を念押しした。走り出そうとする直前で、また立ち止まった。今度は何を言うんだろうか。身構えるわたしに
「私、日ノ宮雪乃。よろしくね」
今度こそ、わたしの返答も待たずに駆けて行った。
天使と言うものは、最後に自己紹介するんだな。わたしは呆然とその背中を見送った。揺れる銀髪が羽根に見えた、そんな気がした。
図書室に用があるらしく、二年棟へは向かわずに走り去る。授業前に委員の仕事があるなら、もっと早く歩けばいいのに。
先輩を見送る余裕などないことに気づいたわたしも、足早に昇降口に向かった。
手早く上履きに履き替えながら、考える。変な話になっちゃったな……
『魔王からは逃げられない』
とは、このことだろうか……
今日は四限で終わり。昼食のあとで図書室に向かうことにした。確か図書室にも花瓶があったはずだ。こうなったら薔薇を少し持っていこう。
せっかくの午前授業がこんなに重い気持ちになるなんて。
エントランスのマリア像に一礼をして、わたしは教室へ向かった。
図書室……入学して以来、ほとんど足を踏み入れていないあの場所へ。今日の放課後、わたしはそこに行くことになる。約束したから――もう逃げられない。魔王からは、逃げられないのだ。
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