お風呂の至宝
洋館のホテル、アムリタたちの泊っている部屋。
ベッドで規則正しい寝息を立てているイクサリア。
「はぁ~……参ったわね。まさか追いかけて来るなんて……」
やれやれと言った表情でイクサリアが頭に乗せていた葉っぱを手にして眺めているアムリタ。
「イクサリア様の執念……というかこの場合は愛と言うべきでしょうか。そういうものを甘く見ていましたね」
はわわわ、と嘆息しているアムリタに苦笑するシオン。
力尽きて眠ってしまったイクサリアを背負ってホテルまで戻って来たアムリタ。
ベッドに彼女を寝かせた後で念のため宿のかかりつけ治癒術士に診察してもらった。
「一時的な魔力の欠乏と……後は肉体的な疲労によるものですな。しっかり休養を取ればご回復なされる事でしょう」
と、いうのが術士の見解であった。
つまり王女は短期間で体力と魔力をドカンと消費してガス欠になったのだ。
イクサリアはまず王都を奔走してアムリタたちが手配した馬車の会社を割り出し行き先を調べた。
この時点で街中を走り回っている。
そしてそこからは全力放出した風に乗って数時間飛翔を続けてやってきたのである。
「張り紙に行き先くらいは書いて出るべきだったかしら」
「でも、それだと好ましかざる人にも知られてしまう恐れがあるからね」
アムリタの言葉に、それはどうかなという表情をするアイラだ。
そもそも旅行の話をしてから出発すればいいのだが、それだと付いてくるという話にその場でなってしまっていただろう。
今回はお店のスタッフの慰安旅行であり王女を同行させるのは趣旨に反するのである。
「まったくもう……。イクサたちは改めて誘うつもりだったのに」
「その時は……その時で、また付いてくるのでは……ないかしら」
眠る王女を囲んであれやこれやとやり取りしているアムリタたちを少し離れた場所から眺めて穏やかに微笑んでいるエスメレーだ。
「アムリタ……」
眠るイクサリアに名前を呼ばれてアムリタがベッドの脇に座る。
うなされているという様子でもないようだが……。
「行かない……で……」
「バカね。ただの二泊三日の旅行じゃない。どこにも行きやしないわ」
王女の右手を優しく両手で包み込むように取ってアムリタが苦笑する。
別にアムリタとイクサリアは毎日一緒にいるというわけではない。
時には一週間程度顔を合わさずに過ごす事だってあるのだ。
今回はなんとも間が悪かったというべきか。
イクサリアの持つ運命的な嗅覚に脱帽するべきなのか……。
「前から思っていたんですけど、イクサリア様って師匠に対してはちょっとペットっぽいところがありますよね……」
懐いていて後を付いて回ろうとするところとか……と、ちょっとだけ困ったような表情のシオンである。
「さて、イクサは後は起きるまでは寝かせておくだけだから今度こそお風呂に入りましょう。お食事と順序が逆になってしまったけど」
むん、と楽しみだった風呂へ向けて鼻息を荒くするアムリタであった。
……………。
……ホテルの浴室はとても広かった。
湯気でやや霞む大きな石造りの浴室。
石像や石の壷などがそれとなく配置してあるのも趣と品がある、
「ふぁ~……」
目の前に広がった光景に思わず何とも言えない声を出してしまうアムリタ。
「ねえ、見て見てあの大きな浴槽! 水泳の競争ができそうよ!」
「おお、師匠が珍しくはしゃいでおられます……!」
あんまりないテンションのアムリタにシオンが驚いている。
「二人とも……足を、滑らせないようにね」
続いてやってきたエスメレーの完璧なプロポーションにアムリタとシオンは揃って頬を引き攣らせて同じ表情になった。
美術館にある女神の像のようなボディラインである。
ただでさえエスメレーは人並みはずれた美貌の持ち主であるというのに……。
「これは……クロスランドの至宝だわ」
「クロスランドの至宝ですよね……」
何故かちょっと疲れたように呆然と呟く二人。
「誰が……言い出したのでしょうね、それ。おこがましくて……あまり、好きでは……ないのだけどね」
掛け湯をしながら儚げに笑うエスメレーである。
絶世の美女と言う点でエスメレーとイクサリアは共通であるのだが、その美しさの方向性は二人で結構異なっている。
凛々しく颯爽としていて明るいイクサリア。
物静かで儚げなエスメレー。
草原を吹き抜ける春の風と、優しく照らす秋の月光。
「私はもう打ち止めっぽいけど、シオンはまだ望みはあるわよ。王国の至宝になれるかもしれないわ」
「と、言われましても私、師匠と一つしか違わないのですが……。今のこれからああいう風に変化したらそれはもう成長とは言わずに転生と言うのではないですかね」
ささやかな膨らみの自分の胸元を見下ろして嘆息するシオンであった。
「大体が私、湯船に浮べるアヒルさんを持ってきてしまっていますよ。あちらは二つの至宝を浮べてらっしゃるというのにですよ」
「アヒル、可愛くていいじゃない」
自分の近くまで流れてきたアヒルを指で軽く突いてアイラが笑っている。
(……むう、この方も何だかんだで100点に近いボディしてらっしゃるんですよね。すぐ隣に200点がいるから目立っていないというだけで……)
湯に浸かって寛いでいるアイラを半眼で見るシオンであった。
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お風呂から上がった後、各自は思い思いに時間を過ごしている。
シオンとエスメレーの二人は夜風に当たりながら宿の周囲を散策しにいった。
アイラは一足先に部屋に戻って一杯やっている。彼女はあれでかなりの酒豪である。
曰く「趣味もないからつい酒を飲んでしまう。良くない事だ」と彼女なりに自戒する部分もあるようだ。しかし見ている感じ酒量が減ったようには見えない。
ちなみに酔うと彼女はアムリタにやたらとジェイドに変身するようにせがんで来る。
たまに希望を聞いてやって変身すると鼻血を吹く。
……厄介な酔っ払いだ。
アムリタはみやげ物などを見て回った後でふと思い立ってロビーまでやってきた。
そしてそこで彼女は意外な人物を見つける。
ロビーのソファに身を沈め、所在なげに窓から月を見上げているクリストファーだ。
「クリス……? 意外な所で会うわね」
「アムリタ……!!」
声を掛けられて慌てて立ち上がるクリストファー。
どういうわけか彼は狼狽しているようだ。
「貴方もお風呂に? ご家族とかしら」
「い、いや……友だ……知人と、来ている」
友達だと言い掛けて訂正するクリストファー。
彼は友人などではない。自分にはそんなものはいない。
「お風呂はこれから? とてもいいお風呂だったわ。貴方もゆっくり温まってきてね」
咄嗟に気の利いた返答も出てこずに黙ってかくかく肯くクリストファー。
アムリタは長話をする気はないのか、それだけ言うと「またね」と手を振って去っていく。
「……お、お風呂……か」
そしてもう彼女の姿が見えなくなってしまってからもそっちの方を見つめたまま呟くクリストファーであった。
……………。
部屋に戻ってきたかと思えばクリストファーは無言で自分のカバンをがさごそと漁り始めた。
「……うん? どうしたんだ?」
やや緩慢な反応をするアークライト。
彼は窓辺の椅子に座ってグラスを手にほろ酔い加減である。
「風呂に入ってくる」
「なんだ、気が変わったのか。……そうそう、それがいい。ここまで来てあの風呂に入らないだなんて人生を損しているよ」
うんうん、と勝手に納得して肯いているアークライト。
「うるさい。お前に言われたからじゃない……」
苦々しくそう言い放つとクリストファーは部屋を出ていってしまった。
「……では、誰と話をしたんだ?」
一人残され、首を傾げるアークライトであった。
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……ふと、深夜に目を覚ましたアムリタ。
周囲を見回すと全員が気持ち良さそうに寝息を立てているようだ。
「………………」
何となく目が冴えてしまった。二度寝をする前に少し宿の周囲を歩いてみようか……?
そう思い立って物音を立てないように注意しながらベッドを抜け出すアムリタ。
………………。
パジャマの上に上着を羽織ってアムリタは庭園に出てきた。
青白い月光が照らし出すホテルの庭は物思いに耽るには丁度良いロケーションである。
少しの間、彼女は時の経つのも忘れて風景や月に見入っていた。
「……!」
庭草を踏む音に振り返る。
そこにはロングコートを着たブロンドの若い男がいた。
……アークライト・カトラーシャ。
自分のかつての従兄。
「君は……」
どうやら向こうにとっても想定外の遭遇であったらしく、アークライトは少し驚いている様子だ。
「アムリタ・アトカーシア……」
「……こんばんは」
頭を下げるアムリタ。
(名乗ってないのに私の名前を知っている。調べたのね。……まあ、当然か。あの状況で後で私の事を調べていないとしたら暢気すぎるというものだし)
……ともあれ、彼が来てしまった以上は月下の思索はお開きか。
静かに立ち去ろうとするアムリタ。
しかしそんな彼女にアークライトは声を掛けた。
「君は……何者なのだ?」
「………………」
からかっているような軽い調子もなく、詰問するような鋭い調子もない問いかけだった。
わずかに感じられた質問者の感情は……戸惑いか。
はぁ、と口の中だけでアムリタは嘆息した。
この相手にこれ以上白を切るのは無理がある。
「貴方も大体のところは予想しているからそれを聞いてきていると思うのだけど……」
彼の方を向き直ったアムリタが言う。
「そうよ。私は……あのアムリタよ。小さい頃に貴方に遊んでもらった事もある、あのアムリタ」
「……!!!」
目を見開くアークライト。
こうまであっさり自分が正体を明かすとは思っていなかったのだろう。
「私は死んだ事になっているけど、こうやって名前を変えて別の人間として暮らしているの。何故そうなったのかは言えないし、貴方も知るべきではないわ。私の事は王家や『三聖』の方々は知っているから、私の秘密を知った事は貴方の強みにはならないわよ」
……多少の虚勢が入っている台詞だ。
王家の人間でも自分の秘密を知るのは王子と姉妹の王女だけのはず。
『三聖』でそれを知るのは恐らく血の繋がった親であるキリエだけだ。
「私たちは今は他人なのだから、お互いに干渉せずに暮らしましょう。……それじゃ、おやすみなさい」
静かに歩いていくアムリタ。
それを呆然と見送るアークライトを冷たい月の光が照らしていた。




