お世話します
王宮の廊下を足早に進む翡翠の髪の少女、アムリタ。
「……ミハイル!!」
慌てた彼女がノックもせずにミハイル・ブリッツフォーンの執務室の扉を開けた。
「お前か。……騒がしいぞ」
息を切らせて駆け込んできたアムリタをチラリと一瞥するとすぐにミハイルは手にしていた書類に視線を戻した。
彼は添え木を当てた右手を首から吊り下げている。
「怪我をしたって聞いたから。……大丈夫なの? 辛くない?」
「薬が効いている。痛みは大したことはない」
そっけないミハイル。
ひとまず安堵の息を吐くアムリタ。
「それより、あまりその姿で王宮をうろつくな。お前は平民のパン屋だろう」
言われてアムリタがグッと言葉に詰まる。
慌てていてジェイドの姿になる事も忘れていた。
ミハイルが無言で椅子を見る。
立っていないで座れと視線で促しているのだ。
素直に従いアムリタは椅子に腰を下ろした。
「……すまなかったな。預かっていた腕を奪い返されてしまった」
流石にこの冷淡な男も声のトーンがやや落ちる。
昨夜の襲撃によりミハイルは右腕を折られ、怪人物の腕は持ち去られてしまっていた。
腕を取り戻すと手練れの黒装束の男はそれ以上ミハイルに攻撃を加えようとはせずに立ち去っている。
そして早朝に店に連絡が行き、アムリタはとるものもとりあえず駆けつけてきたというわけだ。
「そんな事はどうでもいいわ。お店に置いておけないから持って行ってもらっただけだし……」
店に置いたままなら店に奪還の襲撃があったという事である。
背筋の寒くなる話だ。
「午後には治癒術士を手配している。腕はそこで治るだろう。……要件がそれだけならもう帰れ。パン屋はそれほど暇なのか」
「……むかっ」
逆鱗に華麗なシュートを決められたアムリタ。
……彼女の目が据わった!
「そーゆー事をおっしゃるのね、ブリッツフォーンのお坊ちゃまは……。いいでしょう、決めました。今日は私は一日付きっきりで貴方のお世話をさせてもらいます」
「……なっ、何を馬鹿なことを言っている。帰れ……!」
珍しくやや狼狽している氷の男。
その反応に気を良くしてふふん、と笑ったアムリタ。
「そういえば貴方には以前私が大怪我をした時に随分お世話になったわね。それはそれはもう、色々とご親切にね……。いつかお礼がしたいとずーっと思っていたの。その機会が来たみたいで嬉しいわ」
「……!」
一瞬だけ氷の男の脳裏に蘇った彼女の白い裸身。
あの時は何とも思っていなかったというのに、今になると酷く心が乱れる記憶だ。
「……………」
無言で後ろに下がるミハイル。
笑顔で前に出るアムリタ。
「私が一度決めたら曲げない事は貴方も知っているわよね? 大人しく私にお世話されなさい」
「や、やめろ……来るな……」
さらに後ろに下がるミハイル。
……その背が壁にぶつかった。
絶望感を瞳に滲ませ奥歯を噛む白狼星の若旦那。
………………。
こんこん、とノックの音がする。
「誰にも会わん、帰ってもらおう」
やや疲れた声で反応するミハイル。
しかしそんな彼の声など聞こえてもいないかのように無情にもドアは開け放たれる。
「……やあ、イジワル眼鏡。何でも大怪我をしたそうじゃないか。お見舞いに来たよ」
「……………」
笑顔のイクサリアが花束と果物の入ったバスケットを手に入ってきた。
だが王女の上機嫌な顔はすぐさま冷めた目付きの真顔に変わった。
「……へぇ? 随分といいご身分だね」
椅子に座らされている上半身裸のミハイル。
その彼の身体をアムリタが丁寧に濡らしたタオルで拭っている。
「アムリタ一人にそんな事をやらせてはおけないな。私もお手伝いする事にしようかな?」
「おやめください!! そんな所を誰かに見られでもしたら何を言われることか……!!」
しかしそんな彼の慌てっぷりが王女の加虐心を刺激した……!!
獲物を見つけた猫のような笑みでイクサリアがミハイルに迫る。
「そんなに喜んでもらえるなんてご奉仕のし甲斐があるじゃないか。……アムリタ、余ってるタオルは?」
「これよ。はいどうぞ」
アムリタからタオルを受け取る王女。
ミハイルはこの世の終わりのような表情で天井を見上げた。
……………。
ノックもなしにドガンと扉が突然開け放たれる。
入ってきたのは巨大な白髭のオヤジである。
「何だお前!! 賊にやられてケガしたって!!? 鍛錬が足らんぞ鍛錬が!! 今度俺が直に鍛えてやるから週末の予定を空けて……………」
「……………」
固まるアレクサンドル。
目の前では息子が二人の女性……しかも片方は王女だ、に裸身を拭わせているではないか。
「……ごめェーん!!! 俺は場違いじゃったわァッッ!!!!」
「ああッ!!? 父上!!!?? ドアは閉めていってください!!!」
巨体からは想像もできない速度で走り去った父に向って叫んだミハイル。
そして入口では半分身を隠すようにしてペットのルクシェーンクラブ(デカいカニ)がじっと彼らを見つめていた。
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夕焼けが茜色に照らす茶室にアークライトの姿がある。
外からの光で赤みがさす彼の顔はひどく険しい表情である。
「……シラヌイ」
誰もいない空間に呼びかける男。
すると部屋の隅の暗がりにぼうっと翁の面が浮かび上がる。
「何用か」
「とぼけるな。昨夜ドウアンが腕を奪い返すのにあの男を使ったな」
鋭い視線を面に向けるアークライト。
「さて……何の話であるか」
「とぼけても無駄だ。お前が把握していないはずがあるまい! どういうつもりだ! 彼を味方に引き入れたのはそんな汚れ仕事をさせるためではないぞ!!」
畳にドンと拳を落とすアークライト。
「目的は達した。かの者は負傷もせずに帰還しておる」
「結果だけでものを言うな! 負傷せずとも正体が露見する可能性もあった。死なれても正体がバレたとしても、そこから私の計画は大きく崩れる」
アークライトは声を荒げると座布団の上に胡坐をかいたまま体ごとシラヌイの方を向いた。
「お前たちは何故派遣されてきた? 私の補佐をするためではなかったのか? ここの所の身勝手な振る舞いは明確に私にとってはマイナスになっているぞ。それがお前たちを遣わせたあの方のご意思であるというのか?」
「耳の痛いことだ。心するとしよう」
しわがれ声で神妙に言うシラヌイにようやくアークライトもややトーンダウンする。
「……頼りにしているのだ。くれぐれもよろしく頼む」
「………………」
沈黙で応え、仮面は暗がりに溶けていくように消えた。
……………。
屋敷の屋根の上に黒い小柄な姿が浮かび上がる。
たった今下で叱責を受けたシラヌイである。
「……は~っ、もう。どうして毎度毎度ドウアンが勝手やってあちきが怒られなきゃならないんスかねえ」
翁面を外す黒子。
すると……その下から出てきた素顔は若い女のものである。
淡い紫色のセミロングの髪の糸目の女だ。
「そもそも御屋形様がああいう言い方するから……」
声もしわがれた翁のものから女のものに変わっている。
出立前の主の言葉を思い出しているシラヌイ。
『異国か……うらやましいのう! 半分旅行のつもりでな。せいぜい楽しんでまいれ!』
そう言って主はかっかっか、と暢気に笑っていた。
「あの言い方じゃドウアンも好き勝手するっスよね。そもそも始めっから双方の認識にズレがあるんスよズレが……。間に入るあちきの身にもなってほしいっス」
はぁ、と暮れなずむ空に向かってため息を吐き出すシラヌイであった。
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ある日の昼下がり。
王都のメインストリートの途中にある噴水広場。
多くの観光客で賑わうこの場所は大道芸人などもおり、多少の珍奇な恰好でもあまり目立つことはない。
それ故の待ち合わせ場所なのか……。
「……キミかぁ」
「ほっほっほ、そのように嬉しそうなお顔をされては拙僧もわざわざ赴いた甲斐もあるというものでございますなぁ」
げんなりした様子を隠そうともしないイクサリアと満面の笑みの巨漢の法師。
柳生キリエに呼び出されてみれば現地で待っていたのは編み笠を背負い鉄の錫杖を持ったこの怪しい僧侶であった。
となればこの男が件の料理人という事なのだろうか?
「それで? キミは何を作れるというのかな?」
「いやいや、生憎と拙僧は食べる方の専門でございましてな。しかしながらそちらの方にはいささか自信があり申しますぞ?」
そう言うとテンガイは袈裟の内より分厚い和綴じの台帳を取り出した。
「美食とは喜び。喜びならばこのテンガイにございます。こちらに取り出したりまするは拙僧が長年この周辺の国々を渡り歩きましてしたためた東の国の食を楽しめる店の数々にて」
渡された台帳をぺらぺらとめくってみるイクサリア。
そこには几帳面な筆の字で店名とおおよその住所、そして店を利用した感想が事細かに記されている。
イクサリアは皇国の文字を読むことはできないがそれが可能な者がいればかなりのデータベースである。
「……凄いじゃないか。正直驚いたよ。是非写しを取らせてもらいたいんだけど」
「いえいえ、それが既に写しでございます。原本は拙僧が所持しておりますのでそちらはお持ちくだされ」
数珠を鳴らして拝み、テンガイがほっほっほと笑う。
イクサリアに譲渡するためにわざわざこの男は自慢の台帳の写しを作ってきたらしい。
「この前は拙僧、いささか悪ふざけが過ぎまして皆様にはご迷惑をお掛けしておりますからな。一つこれでご容赦いただくという事で……よしなにお願いしますぞ」
ご迷惑も何も多くの人間を怪物に変えて結構な死者を出しているテンガイ。
被害者がテロ組織だったのでお目こぼしされている部分はある。
あの事件でのほんの少数の生き残りは大体正気を失ってしまっている。
「拙僧の食べ歩きの趣味からこの都の名店が誕生するかと思いますと何とも喜ばしい事でございます。開店の暁には是非にお邪魔させていただきますぞ。では拙僧はこれにて……」
ほっほっほ、と高い奇妙な笑い声を残しゆったりとテンガイは立ち去って行った。
その後姿を手を振って見送るイクサリア。
(……でも、すごい破戒僧だよね)
……感謝はするがそうも思う王女であった。




