初心者にはお薦めできないパン
街を歩くアムリタとシオン。
二人とも紙袋を抱いて手提げ袋を腕から提げている。
食材や日用品の買い物の帰りであった。
「はい、知ってますよ。『蒼竜会』ですよね? 私もお誘いは受けました」
「そんなご大層な名前が付いているの?」
思わず軽く笑ってしまったアムリタ。
従兄アークライトが主催しているらしい勉強会のことだ。
てっきり貴族の子女を集めてそれらしい話をしながらお茶でも飲むサロンのようなものを想像していたのだが……。
自分が作った特殊部隊の名前は『サモエド隊』だというのに……思わず比較してしまう。
あっちの方が名前の響きは強そうだ。
「私は一応お断りしました。そういう時間があるのなら……その、師匠と一緒にいたいので」
照れて笑っているシオン。
それを見るアムリタもなんとも面映い心地である。
「師匠」などと呼ばれて慕われてはいるものの、自分と一緒にいてもあまり得るものはないんじゃないのかと思う所があって悩ましくもあるが……。
「でもかなり勢いがあるみたいですよ。最初は一等星二等星の若者中心の集まりだったんですけど。段々年上の人も参加を希望してきて今だと四十代くらいのメンバーもいるらしいです」
「皆真面目なのね……」
女学院に通っていた頃は成績優秀だったアムリタであるが勉強が好きというわけではなかった。
社会に出て仕事を始めてからも業務以外で勉強の集まりに参加するのは自分にはハードルが高い。
感心したように呆れているようにも取れる吐息を出すアムリタであった。
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王宮の一角で二人の長身の若者が顔を合わせている。
一人は『紅獅子星』のレオルリッド・エールヴェルツ。
もう一人は『白狼星』のミハイル・ブリッツフォーン。
共にこの王国の次代を担うであろう若き英傑たちだ。
「……で、お前は件の集まりに顔は出したのか」
「一度な」
ミハイルの問いに肯いて返答するレオルリッド。
彼らの話題は『蒼竜会』に付いてだ。
「理想論がまだまだ多いが、そう鼻で笑ったものでもない。中々に鋭い視点を持つ者もいる。俺がいたので過激な意見は控えた者もいたかもしれんがな」
「そうか……」
何かを考え込んでいる様子のミハイルだ。
「お前も呼ばれているだろう」
「私は参加する気はない。若手が諸手を挙げて賛同しているという空気は作りたくないのでな」
何か思う所があるのかアークライトの集まりとは距離を置こうとしているミハイルだ。
「まあ『白狼星』は王国の免疫だ。何か悪さする気ならお前が顔を出したら警戒して動きを控えるかもしれんな」
黙って目を閉じるミハイル。それは事実上の肯定である。
最近視力を落としたか、ミハイルは前は書類仕事の時だけ掛けるようにしていた眼鏡を最近はいつも掛けているようになった。
「特定の思想や運動に誘導しようというような空気は感じなかったがな」
自分が参加した時の議論の様子を思い出しているレオルリッド。
「……父が、特に警戒していてな」
「うん? あの集まりをアレクサンドル様が?」
いや、とミハイルは首を横に振る。
「アークライト・カトラーシャ個人をだ」
そして白狼星の若者は眼鏡の位置を直す。
レンズの向こう側の瞳は僅かに憂いの光を湛えていた。
「……彼は、皇国で過ごした六年間である危険な男と接触しているかもしれない」
「………………」
眉を顰めて黙りこむレオルリッド。
広大な東の大陸には二百を超える国々があるが、その七割近くが実質的には皇国の属国であるという。
そしてそこには外から様々な人や物が流れ込む。
そんな二人の間を季節にしては酷く冷えた風が吹きぬけていった。
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今日は週に二回のウォルガ族の半獣人の若者、ハザンがアムリタ・ベーカリーにヘルプに来る日である。
つまり店先に胡桃パンとチーズパンが売りに出て開店前から行列ができる。
日の昇りきる前から焼かれた数百個のパンは午前中の内に全て売切れてしまう。
(……最近、師匠はやっとこの週に二回の胡桃パンとチーズパンの日の接客を笑顔で乗り切れるようになった。少し前までは蝋人形のような無表情でレジを打っていたというのに)
レジ業務をしているアムリタを見ているシオン。
アムリタは笑顔だ。
しかし午後になるまで一切変化しないまるで仮面を貼り付けているかのような笑顔であり、それはそれで怖い。
「……さあ今日も残らずはけたわね。飲んでいい?」
「ダメです師匠。お酒に逃げないで下さい!」
ドン! とカウンターに一升瓶を出したアムリタを皆で止める。
そこへカランカランとドアベルが軽快な音を立てた。
新しい客が入ってきたのだ。
「あ、ごめんなさい。本日の胡桃パンとチーズパンはもう売り切れてしまって……」
入ってきた客に申し訳無さそうに頭を下げるシオン。
「他のパンならありますよ。まあお客様が平穏無事に人生を歩んで行きたいのでしたらまったく用のないパンでしょうけど、うふふふふふふふ」
虚ろな目をして笑っているアムリタ。
「…………………………]
入ってきたのは青黒いマントを羽織った若い男の客だった。
ストレートの黒髪で長い前髪が顔の右半分を覆い隠している。
生気がなく冷めた目をした青白い顔の男だ。
顔立ちはやや女性的でまあまあ整っていると言えるだろう。
やや猫背で目付きは良いとはいえず、上目遣いである。
どことなく警戒している動物を思わせる挙動の小柄な男だ。
「……別に何でもいい」
男は抑揚のない声でそう言うと棚のアムリタが焼いたパンを一つ手に取り、小銭をレジに向けて放った。
チャリンと音を立ててコインがカウンターで跳ねる。
「あっ! それは……ちょっと初心者の方にはあまりお薦めできないパンなんです……!!」
慌てて客を止めようとするシオン。
自分でも何を言っているのかよくわからない。
「それどういう意味よ!」
アムリタが膨れている。
そんなシオンの内心の祈りも虚しく男はガブッとパンに齧りついてしまった。
「あわわわ、大変な事になっちゃいましたよ!! もう治療院に連絡を入れておいた方がいいんじゃないでしょうか!! 担架はこの前私が持ってきたのがありますから運び込む準備は大丈夫です!!」
「……シオン?」
ゆらゆらと揺れる赤いオーラを背負って笑顔のアムリタがシオンを見ている。
「……美味い」
『は?』
男の言葉に、店内からバックヤードまで彼以外の全員が出した一言が唱和していた。
呆然と一同が見守る中、男はムシャムシャと一個目のパンを食べきり、そして二個目を手に取ると再び小銭をレジへ向けて放った。
「もう一つもらう」
「…………………………」
無言のアムリタ。
その頬をつーっと涙が伝っていく。
(泣いたッッ!!)
静かに涙する彼女を見てシオンが驚愕している。
「……私、生きてて本当によかった」
泣き崩れるアムリタを優しく抱きしめてエスメレーが涙を拭いてやっている。
パン屋の店先でパンが売れてお客がそれを食べた、というだけでこの有様。
アムリタには今天から舞い降りてきてラッパを吹きならしている無数の天使たちが見えていた。
踊るような足取りでカウンターを出ていくアムリタ。
そして彼女は男の右手を両手で取って包み込む。
「ありがとうございます。貴方はきっと女神さまの使いですね」
「……なッ!? なな、な、なんだ……お前……」
急に手を握られた男は赤くなって狼狽している。
(ああ、またも師匠が魔性のスキルを発動している……)
軽い頭痛を感じて頭を押さえるシオンであった。
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王宮、玉座の間。
明かりは全て落とされ広い空間を月の光が青白く照らし出している。
大王はただ一人。
近衛兵も侍従たちも全て退出させ、玉座に一人だ。
月を見ながらグラスを傾けている大王ヴォードラン。
最近彼はこうして時折独りで飲むようになった。
そうして飲む酒を美味いと感じるようになった。
(これが老いか。……思っていたほど悪いものでもない)
喉に酒を落とし込み、口の端を上げる大王。
そして……彼は気付いた。
いつの間にか目の前に誰かがいる。
「……ぬぅ」
思わず低い声が出ていた。
誰かがいる、どころではない。
巨大な何者かが立っている。
身長は最低でも2m50以上はあるだろう。
頭に伸びた巨大な二本の角は被っている鋼鉄の兜から生えているものらしい。
革製のマントで全身を覆った巨漢だ。
暗い室内でその巨大な男の両眼だけが爛々と光を放っている。
「何奴だ……いや」
問いかけて打ち消す。
会った事はないがこの男の話は聞いたことがあったはず。
寓話として聞いていた話に姿が合致している。
「お前が『鬼哭星』のヴァルオールか」
『その通りだ、王よ』
その低い声は痺れる様に耳に染み込んでくる。
『戻って来たからには挨拶はしておかんとな。お前は十二の星を統べる者なのだから』
「当主に戻るつもりなのか?」
今から八十年近く前に国を出ていったらしいと聞いている当時の十二星『鬼哭星』グレアガルド家の当主ヴァルオール。
大王が生まれる十年以上も前の話である。
聞いている話が全て事実であればこの男はもう百歳を超えているはずだ。
現在のグレアガルド家はこの男の兄の曾孫に当たる男が当主を務めている。
『興味はない』
巨大な男……ヴァルオールはそう言ってゆっくりと大王に背を向けた。
『だが、『鬼哭星』とはわしの事だ』
地響きを伴った足音をさせて去っていくヴァルオール。
そして現れた時同様にいつの間にかその姿は幻のように消え失せている。
「……………」
その男が去った後、大王は自分の頬を伝う汗に気付いた。
誰かと顔を合わせて汗をかくなど果たして何十年ぶりの経験であろうか。
「ふはは、老いも悪くはないと思った矢先にこれか……」
苦笑してぐいっとグラスを呷る。
「折角面白くなってきたというのにな。わしも20年……いや、せめて10年若ければな」
ふーっと長い息を吐き出して大王は玉座で天井を見上げた。
「まあよいわ。わしの分まで存分に楽しめ、ロードフェルドよ」
そしてヴォードランはニヤリと笑って目を閉じるのであった。




