大王
十二煌星……エールヴェルツ家の嫡男レオルリッドは浮かない表情をしていた。
数日前まで彼の顎にあった大きな絆創膏は今はもう剝がされている。
元よりみっともないので貼りたくないとレオルリッドは主張していたのだが、何しろ顎が腫れあがって顔の輪郭が若干いつもと変わってしまっていたので、それを晒して歩くよりはと折れたのだ。
当然それはジェイドとの試合で打たれた時のものである。
気の強い彼はそれが原因で引きこもったと思われることが耐えられず公務は一切欠席していない。
周囲では今、自身の取り巻きである二等星の貴族の子弟たちが頻りにあの「生意気な平民」の悪口を言っている。
『家名をチラ付かせれば尻尾を振ってくる連中を……』
あの日のジェイドの言葉が耳の奥に蘇ってきてレオルリッドは閉口する。
忌々しいが……今自分の周囲で囀っているのは紛れもなくそう言った者たちである。
「……おい」
おもむろに口を開くと周囲の者たちが一瞬で静かになった。
「気分が優れん。一人にしろ」
低い声で告げる。
慌ただしく取り巻きたちは頭を下げてその場からいなくなった。
あっという間に望んだ通りに彼は一人になる。
「フン……」
誰もいなくなった室内で腕を組んで鼻で息を吐く金髪の若獅子であった。
─────────────────────────────
警邏をしながらアルバートの暗殺計画を練るか、と考えていたジェイド。
しかし宮殿内を巡り始めて早々に彼は捕まってしまった。
相手は先日の赤い髪の女騎士……マチルダである。
「それでさ。昨日治療院まで言ってきたんだよ『やり過ぎて悪かった』って言いにさ」
彼女は前の話の稽古で怪我をさせた相手を見舞ってきたらしい。
挨拶もそこそこに上機嫌でその話を始めた。
「それで? 相手の反応は?」
ジェイドが尋ねるとマチルダは苦笑しつつ肩をすくめる。
「ふざけるな! ってさ。追い返されちまったよ」
ふぅ、と鼻で息を吐いたジェイド。
なんともやるせない顛末である。
当事者でもなくその場にいたわけでもない自分では器が小さいと相手の男を断じることはできないが……。
「別にいいんだ。オレはケジメを付けにいっただけだからな」
マチルダはカラっと笑っている。
その様子を見るに本当に引きずってはいないようだ。
「あまり気にしないことだ。貴族には物分かりが悪い者も……」
ジェイドの言葉が途中で止まった。
前方からこっちへ向かって歩いてくる男の姿が目に入ったからだ。
その威風堂々とした姿は初対面の時以来だ。
「今度は僕が頭を下げる番になったか」
口の中だけで小さく呟く。
向かってくる男はレオルリッドだ。
目的は……まず間違いなく自分だろう。
こちらを見て真っすぐに向かってくる。
大貴族の雄々しき跡取りはジェイドの真ん前までやってきてそして足を止めた。
すぐにマチルダが脇に退いて直立の姿勢になる。
王宮勤めをしているのなら当然この男の事は知っているだろうし、仮に知らなかったとしても直系のものにしか許されない紅い獅子の紋章を見れば一等星の者である事は一目瞭然である。
大王と共にこの国を牛耳る者たち……十二煌星。
……遺恨を残せばそれは後々必ず自分にとっての災禍となる。
とにかく私心は滅して徹底的に謝罪して許してもらわなければ。
「先日は出過ぎた振る舞いをしました。どうか……」
「ジェイド」
頭を下げる自分の発言に堂々とかぶせてくる。
謝罪くらいすんなりさせてくれとジェイドは内心で渋面になった。
「前の一件だが、あれは俺が狭量だった」
(……んん?)
一瞬、耳を疑う。
意外なことを言ってきた。
「一等星の家の者の振る舞いではなかったな。お前は俺を打ち倒した側だ。この件はあれで水に流せ」
打ち解けた感じはまったくない一方的な口調ではあるものの、どうも和解する気はあるらしい。
「寛大なご配慮に感謝いたし……」
「それとだ」
またも被せられた。
(何なのよこのツンツン頭!! 喋らせなさいよ!!)
脳内のアムリタが荒ぶっている。
「仕事の事でもそうではない事でも、何か困ったことがあれば俺を訪ねろ。力になってやらんこともない」
何か言葉で反応するとまた被せてきそうなので頷くだけにするジェイド。
「言いたいことはそれだけだ。じゃあな」
背を向けて来た時同様のやや早足で歩み去っていくレオルリッド。
いい加減その後姿がこちらの声が届かないほど小さくなった所でマチルダが声をかけてくる。
「何だ? あれ」
「いや……」
軽く頭を横に振るジェイド。
彼自身今のが何だったのかと言われればまだよくわかっていない。
「貴族にも意外と物分かりのいい者がいるらしい」
(人の話は聞かないけどね)
脳内で付け足すアムリタであった。
──────────────────────────────
『大王』とは彼が王位に就いた後、いつの頃からか人々の口に上り始めた呼称である。
これまでの王国の歴史でそう呼ばれていた王は他に存在しない。
だが、いざ呼ばれ始めてみるとこれ以上に彼を表すのに相応しい呼び名もないと誰もが思った。
大王ヴォードラン・フォルディノス。
この国の支配者。
建国から600年以上が経過し、形骸化していた王家の権威を一代で絶対的な統治者として取り戻した英傑である。
権力の座を明け渡すのに消極的であった者は十二煌星であろうと容赦なく粛清した。
国境線で数十年燻り続けていた三つの紛争を自ら出陣し平定した武王。
その絶対者とジェイドは王宮の広い廊下で行き会った。
「………………」
すぐに廊下の端まで移動し深く頭を下げる。
十数人の武官、文官を伴って王は大股で歩いていく。
大王は大柄で筋肉質であり腕などは小さな子供の胴体ほどの太さがある。
オールバックで無造作に後ろに流されている肩まである黒髪。
厳つい面相は角があればまるで鬼神かと見紛うばかり。
太い眉の下に鋭い眼光を放つ目があり口の周辺を濃い髭で覆っている。
柔和な顔立ちのクライスやイクサリアの父親とはとても思えない。
威厳、威圧感というものを体現したかのような容姿であった。
頭を下げているジェイドは気付くことはなかったが、彼の前を通過していく時に一瞬だけチラリと大王はジェイドを一瞥していった。
「珍しくアルディオラがわしに頼み事をしに来たと思えば。あれがその小僧か」
地の底から響いてくるような低い声で王が言う。
平民を召し抱えるというのは王妃であろうと一存でできる事ではない。
アルディオラは大王にその許しを得てジェイドを王宮に雇い入れたのだ。
「早速エールヴェルツの倅めに痛い目を見せたらしいな。……フハハ、なるほどあれが我が儘を言ってまで呼び寄せるだけのことはある」
濃い髭の下の口の端を上げるヴォードラン。
珍しく彼は楽し気である。
「王妃様は……王子様方の継承のお話に介入されるおつもりなのでしょうか」
王の脇を歩く文官のローブ姿の痩せた初老の男が不安そうに口にする。
彼は王国の宰相だ。
「さてな。あれには子がおらぬ。三人誰と結びついてもおかしくはない」
次代の王位の継承問題は当事者3人だけの問題ではない。
誰に肩入れするかは当然王位が決まってからの自身の政治的な地位の浮沈に直結する。
冷や飯を食う日々を送るのがいやなら勝ち馬に乗るしかないのである。
十二星たちもその関係者たちも王宮内部の動静を注意深く見守っている。
「勝者にこそ価値がある。存分にやればよい」
眼光鋭く行く先を見据えながら低い声で告げる大王であった。
……………。
大王一行が通り過ぎ、その足音も聞こえなくなってからようやくジェイドは顔を上げた。
長く息を吐きながら額の汗を拭う。
永遠のように感じた数分間であった。
(私がクライスを殺したら、あの人も涙を流すのかしら)
既に大王の姿はない廊下を見てふとそんな事をアムリタは思った。
もしかしたら自分の義理の父になっていたかもしれない男。
だが今となっては全ては幻だ。
自分はクライス王子を殺す。
その事で誰かが喜ぶのかもしれないし悲しむのかもしれない。
だがそれを考えるのはもうやめた。
今はもう会う事の出来ない自分の父の事を思い出す。
父は家の復興は望んでいたもののそれとは別に娘の幸せも願ってくれていた。
王子の許嫁としたのも政略結婚でもあったが王子の妃となればそれが娘の幸せにもつながると考えての事だったのだ。
だからこそ父は娘を失ったと思った時全てを諦めて都を捨てた。
王子の巻き添えとなって死んだという王国の発表をおそらく信じたであろう父。
クライスの許嫁に娘を選ばなければ死なせることもなかったと思ったかもしれない。
(ごめんなさい。お父様、お母様……)
自分は生きている。
だけどそれを両親に告げることはもうできない。
今の自分は復讐者だから。
(誰がどう思おうが私は必ず彼を殺す。この手で地獄に落とす)
真摯で優しかった……。
今でも思い出せるのは彼の優しい笑顔と穏やかな声ばかりだ。
あれは全て演技だったのだろうか?
それとも何かがあって突然に豹変したのだろうか?
……今となってはどうでもいい事か。
どちらだろうとやるべき事は変わらない。
(まずは貴方にいつもくっ付いているアルバート……彼から始末する)
それを復讐の嚆矢とすることにしよう。
アルバート・ハーディングは十二煌星、「天車星」ハーディング家の現当主の弟である。
現在21歳。
実年齢よりは若干若く見える。瞳がやや大きい愛嬌のある美形の青年だ。
溌剌としていてよく喋る。
彼の口数の多さは時折クライスにたしなめられていたが、王子も本気で怒ったり嫌悪している様子はなかった。
上司や年長者に可愛がられるタイプなのだ。
自分がアムリタ・カトラーシャであった頃には彼も未来の主人の妃としてか、気さくではありながらも丁寧に接してきていた。
『王子御自ら手を汚さなくとも、お命じ下されば私がやりましたものを』
……そしてあの時のあの台詞も、普段の彼のそれと何も変わらない軽い調子の口調だった。
(……よかったわね、アルバート)
内心でアムリタが冷たく笑う。
(あの時に自分の手柄にし損なった私の命をもう一度奪えるかもしれないチャンスをあげる。……それができるのなら、だけど)