蟹は見ている
湖の水に手を浸しているマチルダ。
透き通った清涼な水はピリッとした冷たさで肌に刺激を与えてくる。
「う~ん、一応水着は持ってきたけどやっぱり水遊びは無理そうだな」
「……もう秋だからね」
そういうアムリタも一枚長袖を余分に羽織っている。
元々が涼しい湖畔である。
「だけど景色を見ているだけでもいくらでも時間を潰せそう」
そして湖の方を見やって目を細めるアムリタ。
微笑んで相槌を打ったマチルダであるが……。
(いや~、オレはちょっと景色だけだと飽きちまうなあ)
と、内心では身体を動かしたい欲求に駆られているのであった。
「ちょっと! ちょっとこれを見るのですよ! カニです、カニがいるのです!!」
「ははっ、見た目だけじゃなくて中身まで子供みたいだなクレア……」
笑って騒いでいるクレアの方を見るマチルダ。
「……ってカニでっけえ!!!!」
……馬みたいなサイズのカニが自分たちのすぐ側にいるのを見て仰天するマチルダ。
青緑色の甲羅に覆われた巨大ガニ。ハサミなどは人の胴体でも両断してしまいそうだ。
「ああ、ルクシェーンクラブだ。心配するな。害はない。人がいるとすぐ側に来てただ黙ってじっと見つめてくるだけだ」
「いや、それが害だろ。怖えよ。なんで近くで黙って見てるんだよ」
……普通、野生の生き物とは逆ではないのか。
自分たちのすぐ側に馬みたいなサイズのカニがいるというのは単純にそれだけで怖い。
レオルリッドの説明にイヤそうな顔をするマチルダだ。
「わはは、見るのですよ。乗れるのです。乗りガニなのですよ」
そんな大蟹の背に乗ってクレアははしゃいでいる。
「お前はお前で物怖じしないな。そんな得体の知れないデカい生き物によく乗っかる気になれるよ……」
度胸があるのかバカなのか……。
カニの上で盛り上がっているクレアに引き攣り笑いを浮かべるマチルダ。
「……と、ところでだ」
いつの間にか、さりげなくレオルリッドがアムリタの隣に立っている。
「我がエールヴェルツ家が責任を持ってお前に湖畔での優雅な休暇を提供しようと思うのだが……」
「……?」
なんだか宿か旅行社の宣伝のような事を言い出した。
「つつ、つまりだな、ボートがあるのだが、それで湖に出てみないか……。その、お前がよければだが……いや、あの……お、俺とだな」
「なるほど、それを私とアムリタに提供してくれると……そういう訳なのだね」
そしてそのガチガチに緊張して固くなっているエールヴェルツの若獅子の肩をポンポンと叩くイクサリア。
一瞬でレオルリッドがエサを取り上げられた子犬のような表情になった。
「……ま、まあまあ、姫さん」
今度はそのイクサリアの肩をマチルダが叩く。
肩叩きが連鎖していく。
「オレたち今回、若旦那の好意で遊びに来てんだからさ、ここはちょっと大人になってさ……」
そしてイクサリアに顔を寄せると小声で囁く。
はぁ、とやや不満げにイクサリアは大きく息を吐き出すと肩をすくめた。
「仕方がないね。……今回だけだよ」
口を尖らせてそう言うと王女はフラッとどこかへ行ってしまった。
「でかした。いい仕事だったぞ……マチルダ・ルーク。これでステーキでも食べてくれ」
「うおッ! お前親父さんに似てきてるぞ!!」
小声で囁いて札束を渡してくるレオルリッドに頬を引き攣らせるマチルダだった。
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レオルリッドの漕ぐ白いボートで湖の中ほどまでやってきたアムリタ。
彼女は湖面に手を浸したり、ボートの縁から湖の中を覗き込んだりして少しはしゃいでいる様子だ。
「随分大きなボートね。皆も来ればよかったのに……」
「い、いや、奴らは……全員切れ痔なのだ。ボートに座っているのがキツいらしい」
いないと思って滅茶苦茶言っているレオルリッドである。
「それにしても……」
アムリタが苦笑している。
「一等星の貴方にこんな事までさせて申し訳ないわね。私はもう平民なのに」
「おいっ……!」
思わずレオルリッドの声が少し大きくなった。
驚いて目を丸くするアムリタ。
「つまらない事を言うな。……そんなものが些細な事だと俺に教えてくれたのはお前だろう」
驚いていたアムリタだがレオルリッドの言葉に微笑む。
……優しい目をして。
「初めて会った時の事を覚えている?」
「……あまり、思い出したくない」
脇を向いたレオルリッドが渋い表情になった。
王宮の廊下で二人は出会った。
レオルリッドは無数の取り巻きを引き連れていて……。
「あの時の人たちは? 今も仲良くしているの?」
「ああ、別に疎遠になったわけではない」
取り巻きの二等星や三等星の者たちとは今でも週に二、三度は食事を共にしている。
だがジェイドに負けてから色々思う所があって、普段彼らを引き連れて歩くのは止めた。
以前はそれがステータスだと思っていたが今はそのようには思えない。
「あの時の私たちに、今二人でこうしているって話しても信じては貰えないわね、きっと」
「そうだな……」
ほろ苦く笑ってから、レオルリッドは俯いた。
またも己の内部世界でもう一人の自分が必死に発破を掛けてくる。
(……言え、言ってしまえ! レオルリッド・エールヴェルツ!! 今以上の機会などあるものか!!! ここで言わずにいつ言うというのだ!!!)
意を決した表情で若者は顔を上げる。
「アムリタ……!」
「はい?」
急に呼ばれて彼女はキョトンとしている。
「お、俺は……俺は、お前が…………」
声が震えそうになる。
握った拳に汗が浮く。
口の中はカラカラに乾き、舌が顎に張り付いてしまったかのように上手く動いてくれない。
「………………………」
そんなボートの上の二人を釣り糸を垂らしたブリッツフォーンの親子が見ている。
……すぐ近くで。
「は、はわぁぁぁぁッッ!!??? み、ミハイルッ!! ととと、とんでもないシーンに居合わせてしもうたわ!!! 俺らは場違いじゃなかろうか!!!??」
「いいえ、父上。奴らが勝手に近寄って来たんです。気にしなくて結構」
何故か真っ赤になって固く目を閉じている父アレクサンドルと隣で冷めた目をして真顔でいる息子ミハイル。
……どうやらいつの間にかボートが風に流されて湖岸まで来てしまっていたようだ。
そんな彼らを近くのルクシェーンクラブ(デカい)がじっと見つめていた。
────────────────────────
こうして……。
アムリタたちは四泊五日で湖畔での休日を過ごした。
交代でボートに乗ったり、湖畔を散策したり。
マチルダの希望で少し身体を動かすゲームをしたり。
クレアが精製した亀型のゴーレムを湖に浮かべてみるもあっさり沈んだり。
夜にはアレクサンドルが手配していた大量の食材が届いてイクサリアやクローディアが料理を腕を振るった。
食事が終わるとシーザリッドがリュートを奏で、それが中々の腕前であったり、気を良くした酔っぱらったアレクサンドルが歌い出すもそれが中々イイ声だったり。
……………。
一瞬のように時は過ぎ去って湖畔での最後の夜になる。
湖面に映る月が静かに揺れている。
夜の散策を希望したアムリタにイクサリアが付き合って今二人は散歩中だ。
虫の声や鳥の声だけが響く静かな湖畔を二人の少女が歩いていく。
「ボートでレオルリッドは何か言っていた?」
「うん。二人でお互いに変わったねって話をしたわ」
そう言うとアムリタは少しだけ照れ臭そうに笑った。
若造が背伸びをした事を言ったものだと自分で気恥ずかしくなったのである。
「それにしても……凄いわね。圧倒されてしまうわ」
湖の方を向いたアムリタ。
ここからでは対岸は見えない。
どこまでもただ水が広がっている。
「海はもっと凄いのでしょう? 想像もできないわ」
「うん。世界中の陸地を全て足しても海の広さには敵わないからね。海には波があるからこことはまた違った趣があるよ。見てみたいかい? アムリタ」
イクサリアの言葉にアムリタが肯く。
「いつか……機会があったらね。イクサは海を見た事があるのよね?」
「以前、当時のフィアンセ殿の国に行った時は海路だったからね。……まあその海路を逆に通って帰ってくることになってしまったわけだが」
スッと指先で前髪を梳いて何故か自慢げなイクサリアだ。
「……レオとも同じような話をしたけど、今こうして貴女と一緒にいるのも不思議な気分になるわ」
独りの旅路のはずであった。
血と死と憎悪で舗装された復讐の旅路。
そこにこの王女様がとんでもなく強引な手段で割り込んできた。
「あの時は必死だったよ。何とかキミに振り向いてもらおうと思ってね」
当時を思い出し遠い目をする王女。
「修練場で死体を見た時……それがキミの手によるものだと知った時にチャンスが来たと思った。私がここにいるよ、と。こんなにもキミの事が大好きな私がすぐ側にいるんだ、と……そう心の中で叫びながらあの死体を吊るした」
好きな相手の気を引く為に落ちていた死体を吊るす女、イクサリア。
「それはまあ……あれを誰がやったのよ、って体調崩すくらい気にしたけど……」
窓に合図のハンカチを吊るすような感覚で大聖堂で死体を逆さ吊りにすんなとは思わなくもない。
少し先を歩いていたイクサリアがくるっと振り返る。
「あの時だって、今だって……私はキミの事しか見ていない。目に入っていないよ」
「イクサ……」
顎に指を添えられ、少しだけ上を向かされたアムリタが目を閉じる。
「………………」
そんな二人を、夜釣りをしていたアレクサンドルとその隣のルクシェーンクラブ(デカい)がすぐ近くで見ていた。
「……ほわぁぁぁぁッッッ!!! またも!!! またしてもッッ!!! ドえらいシーンに遭遇してしもうたわい!!! おいカニ!!! 俺らは場違いなんじゃなかろうかッッ!!!????」
またも真っ赤になって狼狽しているブリッツフォーンのデカ親父。
呼びかけられても当然隣のカニ(デカい)は応えない。
だが、イクサリアも大概無敵の王女なのでそんなデッカいオッサンの事などまったく意にも介さず彼が目を瞑っている隙に堂々とアムリタと唇を重ねるのであった。
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