憤怒 VS 憤怒
エスメレー・ノアはかつて「クロスランドの至宝」と呼ばれていた美姫であった。
彼女は19歳で王国の大王ヴォードランへ嫁いだ。
解決までは百年単位で掛かるだろうと言われていた国内外の三つの紛争を即位後数年で全て平定した大王。
圧倒的なカリスマと容赦のない炎のような苛烈さで国内を一つにまとめ上げ十二星の家を従えた王を当時の周辺国家はとても恐れていた。
クロスランドは王国と直接国境線を接してはいない国であったが、両国の間にある小さな国は大王が望めば簡単に自国内を王国軍に素通りさせるであろう弱国であり、実質的には隣接しているようなものだったのだ。
エスメレーはそんなクロスランドが大王に差し出した人質であり生贄だったのである。
だが若く聡明なエスメレーは己の役割を自覚しており、望んで王国に赴き大王によく仕えた。
当時の大王には多くの妃と愛妾がいたがその寵愛の仕方は一貫したものであった。
子を一人産ませるまでは目をかけ、産めば興味は次の女に移り放置されるのだ。
なぜそのような接し方になるのか?
それは当時から大王が己の子らを将来王位を巡って争わせることを決めていたからである。
「母親が同じ者がおれば悲しむ母の顔を思い浮かべて手を緩めるかもしれぬ。そうならぬようにわしは母が同じ子は作らぬ」
大王は己の経験から「闘争と試練が強者を作る」という確固たる信念を持っており、自分の後継者にも自分と同じ生き方を課すつもりだったのである。
エスメレーはクライスを産み、そして大王の寵愛を失った。
王の子は母親によって育てられるわけではなく教育係によって育てられる。
クライスは物心つかない頃からエスメレーとは離されて育てられたが週に一度の対面を彼女は生きる糧としていた。
後にエスメレーは修道院に入るという事で大王との離縁を許されてクロスランドへ帰るのだが、10日に一度のクライスからの手紙を楽しみにしていた。
後に手紙の頻度は減るがそれでもクライスは死ぬまで3か月に1通は母に手紙を出していた。
クライスは……母に最期まで己の中の闇を知られることなく逝った。
エスメレーは息子の中に大王から受け継がれた容赦のなさが……己が不要、敵と断じたものに苛烈な処断を下す残酷さがある事を知らないのだ。
当然、その闇が最後に彼の死因となったことも。
……………。
二本の剣が舞い踊る。
「……くっ」
確実に傷を増やしていくジェイド。
想像していた通りになった。以前よりも遥かに動きに無駄がなく付け入る隙が見出せない。
素手よりも剣を持ったほうが強い。だから二本持てばもっと強い。
……素人の浅はかさから出たそのずれた勘違い。
その妄想を現実にしてしまっているのは彼女の強化された身体能力と未来視の魔眼。
今、実際に二本の剣を持った剣の素人が以前よりも遥かに強大な敵として自分の前に立ちはだかっている。
気合でどうにかする。
そう意気込んでこの場に来たが……。
既に両者の実力の開きはどうやっても埋められないレベルになってしまっているのではないか……?
じわりじわりと足元から水位が上がってくるかのように、己の中を嫌な予感が満たしていくのを感じるジェイドであった。
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地べたに倒れ伏していたイクサリアがゆっくりと立ち上がる。
「あれ……。何、立つの?」
それを見たエウロペアが大げさに肩をすくめた。
呆れたように半笑いで。
「そのまま寝ときゃいいのに~。そうすれば見逃してやるのにさ」
「……………」
その軽口は耳に届いていたのか、いなかったのか……。
イクサリアは自分の口の中に指を突っ込むと血に塗れた何かを摘み出す。
……それは奥歯である。
彼女の折れた歯だ。
それを丁寧にハンカチに包んでポケットにしまう。
一連の動作をしながらもエウロペアに向けて歩いている。近付いていく。
(……イクサリア様、キレてる)
それを見ているシオンは何となくそれを理解していた。
その理由もわかる。
顔を……殴られたからだ。
(この美貌はアムリタのものだからキミが触れて汚していいものじゃないんだってキレてる!!)
そう思った。
……大体正解だった。
そして王女は怪訝そうな顔のメイドの真正面に立った。
……ドガッッッッ!!!!
殴った。
数分前に自分がやられたようにエウロペアの頬を思いきり殴ったイクサリア。
「!!!!??」
血を吹きながらメイドが右を向かされる。
痛みよりも驚愕で一瞬彼女が固まった。
「……おまッッ!!!!」
しかしすぐに憤怒の形相で正面に向き直り……。
ボゴッッッ!!!!
今度は左を向かされることになる。
左の拳を顔に受けて。
「……ッッッ!!!!」
我に返ったエウロペアの、その血で汚れた口元の奥の歯がギリギリと鳴った。
「チョーシに乗らないでよッッッ!!! 雑魚のクセにッッッ!!!!」
激怒した彼女が再び正面を向いた時、そこには既に王女の姿はなく……。
「え?」
自分の首に巻き付いている何かに気が付くエウロペア。
それはイクサリアが外した彼女のベルトだ。
「……………」
彼女自体は……真後ろにいる。
互いに触れそうなほどの近距離で背中合わせに。
ベルトを相手の首に巻きながらそれを持って背後に回ったのだ。
ベルトが急に締まりエウロペアの足が地面を離れた。
「ぐッッ!!!? ……ギギ……ッッ!!!」
首を絞められながら背中合わせに担ぎ上げられたのだ。
仰け反る彼女が空を見る。
(まさか……まさか……!!!!)
視界は空で止まらず、そこを通過し再び地上へと。
高速で滑らかに移り変わっていく景色。
咄嗟に彼女は考える。
今自分は背負い投げを食らっていて、頭から地面に向かって……。
虚空に綺麗なアーチを描くエウロペア。
………。
そして突然の暗転。
何もかもはそこで途切れた。
「はぁ……やれやれ、これはお仕置きだよ。じゃあ戦いの続きを……」
海老反りにしたエウロペアを頭から地面に叩き付けたイクサリアが服に付いた土を払いながら立ち上がる。
返答はない。
エウロペアは白目を剥いて完全に意識を失っている。
「では私の不戦勝という事でいいかな」
そして殴られた頬に指先で触れて、王女はぐすっと涙ぐむ。
「酷いことをするなぁ。これでしばらくあの人と顔を合わせられなくなってしまった。あの人の前では私はいつも一番綺麗な私でいなければならないのに……」
涙声でぼやくイクサリア。
そんな彼女を呆然と見ているシオン。
(……か、勝っちゃった。明らかにこっちよりもかなーり強い相手に……キレた勢いだけで……)
そして狸寝入りで状況を窺う『喜』の法師。
(なんとなんと……まさかやられてしまうとは。油断が過ぎますぞ『怒』のお方。……はてさて拙僧はどうしたものやら。今起き上がれば二対一になってしまいますなぁ)
仰向けに倒れ意識を失っている風を装いながらテンガイは考えている。
「……ところで、シオンは何をしているんだい?」
「燃えやすいものを集めてるんです。なんだかテンガイ、前にレオルリッドに丸焼きにされてるはずなんですけどこうして元気そうなので。今回は念入りに焼いてちゃんと骨になったのを確認しようと思いまして」
なんだか恐ろしいことを言っているシオン。
(とはーーーーーーッッッッ!!!! なななな、なんですとォーッッ!!!??)
どばん!! と派手に土埃を巻き上げながら起き上がったテンガイが飛び上がる。
「あいやしばらく! そう毎度毎度かちかち山にされてはたまりませんぞ!! この場は失礼させていただくとしましょう!! 悪しからずさらばでございまする!!!」
そして脱兎のごとく走り去っていってしまった。
「ああ、やっぱりやられたふりでしたね」
見送るシオンが嘆息する。
「……いいよ、放っておこう。それよりもあの人の所に行きたい。手出しはするつもりはないけど、見届けたいんだ」
「わかりました。ご一緒します」
イクサリアの言葉にうなずくシオン。
二人は意識のないメイドを地面に転がしたまま旧砦の廃墟へ足を踏み入れるのだった。
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あの日……。
イクサリアがジェレミーに敗北し、彼によって柳生キリエの屋敷に連れ帰られた夜のこと。
「貴女の目的は何? アムリタをどうしたいのかな?」
「別にどうするつもりもないわよ? 基本的には私はただ見守るだけ。多少、状況を分かりやすくするために手を入れて整理する事はあるけどね」
問いかけるイクサリアに対してキリエはそう答えて優しく微笑んだ。
しかしそんな説明では納得できない王女。
「分かりやすくって……エスメレー様にあんな能力を与えて彼女にけしかけておいて?」
「エスメレー……。彼女はね、兄王子に見当違いの逆恨みをして修道院で泣き暮らしていたわ。それはおかしい事で、彼女が気の毒じゃない? 本当なら彼女の恨みはあの子が引き受けるべきものなんだから」
そう言ってキリエは優雅にグラスを傾ける。
真っ赤なワインが彼女の喉に落ちていく。
「私は彼女に私の能力の一部を分け与えて、それからクライスの残党たちに引き合わせたわ。私がした事はそこまでよ。あの子は自分から名乗り出てエスメレーの恨みを自分へと向けた。全てが本来そうあるべき形に収まったということ」
「でも……それでエスメレー様はアムリタも持っていない強力な能力に目覚めてしまっているじゃないか。彼女が殺されてしまうとは考えなかったのかい?」
ジロッとキリエを睨んだイクサリア。
エスメレーの2秒先の世界を見る魔眼の話はジェイドから聞かされている。
そして実際に彼はその力を使ったエスメレーに瀕死の重傷を負わされているのだ。
しかし、キリエはそんなイクサリアに対して楽し気にくすくすと笑った。
「殺されてって……あの子がエスメレーに? それはありえないわね」
何故そう断言できるのか。
怪訝そうに眉を顰めるイクサリア。
「エスメレーがいくら強力な能力を持っているからといっても……いいえ、強力な能力を持っているからこそ彼女は絶対にあの子には勝てないわ」
「……?」
悠然と笑うキリエに納得ができないままのイクサリアだ。
「……だってあの子はこの世で最も傲慢なお姫様ですからね」
モヤっとした表情の王女にそう言ってウィンクするキリエであった。




