光輝なる王子
目の前を……ほんの20m程向こうをクライスが通り過ぎていく。
「……ジェイド?」
動かなくなってしまったジェイドをイクサリアが不思議そうに見ている。
しかしその彼女の呼びかけも耳には入っても脳には届いていない。
それほど今のジェイドは目の前の集団に集中していた。
王子の周囲を囲んでいる者たちは全員が彼の直属の部下だ。
一等星か二等星の階級の者たち。
中でもジェイドがクライスに次いで凝視しているのは王子の斜め後ろに控えている茶色い髪の若い男だ。
王宮の騎士や衛士たちの軍服の色は基本は白。
その男の着ている軍服は濃い灰色であり、これは彼が高い階級の士官である事を表している。
アルバート・ハーディング。
クライス王子の側近の一人で最も重用されているとされている若手。
十二煌星、「天車星」ハーディング家の直系である。
二十代前半だが若干幼く見える容姿に人懐っこい明るい笑顔がトレードマークの青年だ。
茶色い巻き毛の髪は自分の記憶の中の彼と比べれば少し伸びている。
……当時から、アルバートはクライスのお付きだった。
自分の、アムリタの屋敷へもよく主に伴われてやってきていた。
デートの時は何処かへ姿を消しているがお開きになる頃になればまたやってくる。
そういう印象の男だった。
そして……。
そしてあの日。あの裏切りの惨劇の日に……。
死にゆく自分をすぐ側で見ていたのもこの男だった。
……………。
痛みよりも絶望感が胸を満たしていく。
流れ出る血に薄れていく意識。
草原に倒れた自分の耳に聞こえてくる近付いてくる馬の蹄の音。
『お疲れ様でございました、クライス様』
停めた馬から誰かが下りる音。
この声は……アルバートだ。
『王子御自ら手を汚さなくとも、お命じ下されば私がやりましたものを』
『いいや。星の巡りが悪く彼女にはこのような最期を迎えてもらったが、私自ら手を下すことがせめてもの誠意というものだろう』
穏やかな物言いだ。
自分の知らないことを色々と教えてくれた、いつもの彼の声音だ。
その普段となんら変わらぬ口調で王子は自分の手で葬り去った婚約者の事を語っている。
たった今殺めたばかりの自分のことなど、僅かに心を乱す要素にもならないのだろうか。
深淵に沈みゆく意識の中、二人の男の密談の声は徐々に遠ざかっていく。
……………。
「ジェイド」
「! ああ、すまない。……圧倒されていた、流石のオーラだな」
ハッと我に返ったジェイド。
そんな彼の視線の先をイクサリアも追いかける。
通り過ぎる王子一行は建物の中に消えていくところだ。
「初めて近くでお姿を拝見した」
奇異なる縁で王宮勤めとなった平民が王族を見て感動している……そういった体で振舞うことにする。
「クライス義兄様だね。今日は確か……午後から王立アカデミーで講演だったかな?」
形の良い自らの顎に指先を当てて王女は記憶を反芻している。
彼女……イクサリアと兄クライスは異母兄妹である。
彼女たちだけではない。
大王の方針なのか、一人の王妃からは一人の子しか王は手元に残さないのだ。
兄弟がいると全員養子や結婚で王宮からは出されてしまう。男女の関係なしにだ。
なので今王位を争っている三子も全員母親が異なっている。
(アルバート・ハーディング……クライスの前にまずお前から死んでもらうことにしよう)
死にゆくアムリタを前に、自分に殺させればよかったと冷たく嘲笑った男。
その後のことは知らないが間違いなくアムリタの死の真相を隠蔽する工作にも関わっているはず。
……有罪だ。
その処刑を躊躇する理由はない。
「笑ってる?」
「……思いがけず王子のご尊顔を拝する機会に恵まれたからな」
口元を押さえて笑みを消すジェイド。
気付かないうちに口角が上がっていたようだ。
「う~ん、でも何だか怖い感じがしたよ。私はいつものキミのちょっとムスっとした顔の方が好きかな」
相変わらず王女は妙に鋭いところを見せてドキリとさせられる。
彼女の空色の瞳が自分の深い部分まで見抜く気がして、このまま交流を継続してよいものか悩むジェイドであった。
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凡そ、一年半前のこと。
その日アムリタは突然目覚めた。
……ああ、よかった。
目覚めてすぐに彼女は安堵する。
酷い夢を見た。
濃縮した絶望そのもののような悪夢だった。
「………………」
おかしい。
違和感に気が付く。
身体が動かない。身を起こす事ができない。
声を出そうと口を開いたが、出てきたのはひゅうひゅうという苦し気な吐息だけだ。
今見上げているベッドの天蓋も見慣れた自分の屋敷の自室のものではない。
どこか見知らぬ場所に自分は寝かされている。
呼吸が乱れる。心音はどんどん早くなる。
ここはまだ悪夢の世界の続きなのだろうか……。
「おめでとう!! おめでとう……少女よ!!」
不意に響き渡った明るい男の声に心底驚かされる。
続いて聞こえるパチパチという拍手の音。
眼球だけを辛うじて動かしてそちらを窺えば白いスーツの若い男がそこに立っていた。
ニヤけた美形だ。オレンジ色の髪の毛の。
「いやいやいや、素晴らしいね。ボクは今長年の夢だった自力蘇生の瞬間を目の当たりにしているのだ。これこそが魔力と人体の神秘の織り成す奇跡!! ……さながら歴史の証人だ」
何を……言っているのだろう、この男は。
自力、蘇生……?
不意にズキンと胸が激しく痛んだ。
「……う、うぅ……ッ!!」
呻き声をあげて苦痛に見悶える。
痛みとともにあの瞬間の記憶がまざまざと蘇ってくる。
自らの胸板から覗くあの銀色の切っ先の記憶が……。
苦痛と蘇った鮮烈な記憶に涙が零れ落ちていく。
「失礼。ついはしゃいでしまった。君がここへ来ることになった経緯を忘れていたよ」
男は胸のポケットから白いハンカチを取り出すとアムリタの涙を拭った。
「今はまだ身体を休めることだけに集中したまえ。落ち着いてから色々と話をする事にしよう」
そう言って男はそっとアムリタの瞼に手を置いてその瞳を閉じさせた。
すると不思議なことに一瞬で全身を強い眠気が満たす。
アムリタはその睡魔に抗わず……それだけの体力も気力もなく、ただ泥のような眠りにつくのだった。
…………………。
つまるところ、アムリタ・カトラーシャという娘は魔術の世界においては落ちこぼれに分類される存在であった。
カトラーシャ家に伝わる魔術は他者の肉体に干渉する魔術。
傷を癒したり一時的に身体能力を強化したりする事ができる。
ただ、その魔術は己の肉体には効果がない。
そのはずだった。
アムリタは異端で突然変異だった。
一族に伝わる魔術をほとんど満足に使うことができなかった。
しかし両親はその事をまったく気にせず、使えないのなら使おうとすることはないと彼女を魔術からは遠ざけて愛情を注いで育てた。
その為アムリタ自身もいつしか魔術のことを考えることはやめてただの貴族の娘として毎日を過ごしていたのだが……。
異端の力は死の淵で一気に……爆発的に開花した。
一度仮死状態に陥ってから彼女は己の魔力で肉体を修復し始めたのである。
そうして惨劇の日よりおよそ八か月の歳月を費やし……この日、彼女は意識を取り戻したのだ。
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王子クライスの側近の一人、アルバート・ハーディングを殺害する。
この世から……消す。
それが当面のアムリタの、ジェイドの目標となった。
とはいえそれは困難極まる望みである。
どこで、どうやって殺すのか。
まず現場は王宮内のどこかでなければならない。
今の自分で標的が王宮外に出るスケジュールを把握できるかわからないし、仮にわかった所で同じタイミングで自分が仕事を抜けてそこまで行けるとも思えない。
そして殺害現場を決定したら、どうやって彼をそこに一人にさせるのか。
殺害が成功した暁にはどうやって犯人が自分だとばれないように処理するか。
考えることは山積みだ。
……だけど、こうやって悩むのは楽しい。
改めて今自分が彼らを殺す為だけに生きているのだと実感する。
もしも全てが望んだ通りになって、憎んだ者たちが全員いなくなったとしても……自分には何一つ返ってくるものはない。
でも、それでいい。
全部終わったらその時は望むと望まざるとにかかわらず自分も消えることになるだろう。
(どうなったっていい。奴らをこの世から消してやれるのなら)
この先に待っているものが破滅でも構わない。
自分自身の全てをくべて奴らを焼き尽くす業火になろう。
……………。
「お前は何も教えていないのに随分と上手にお茶を淹れるのね」
手渡されたティーカップを口に運び、王妃が意外そうに言う。
本来ならば毒見役を挟む決まりなのだがこの王妃はそういった面倒を嫌がる。
(まずい……)
ジェイドの背にじわりと汗が滲む。
クライスと手下たちを暗殺する妄想に耽りながら命じられた紅茶を淹れていたのだが……。
元々紅茶を上手く淹れるのはアムリタの特技の一つであった。
高級茶葉なら品種ごとに最も適した淹れ方を心得ている。
両親も彼女の淹れたお茶を好んで愛していた。
数年ぶりだが、手順は指と手が覚えていたらしい。
「お前は……本当に平民の出なの? ちょっとした所作にも品の良さが出ているようだけど」
アカン。ヤバい……まずい。
思った以上に自分は見られていたようだ。
とはいっても平民っぽい振る舞いというものがよくわかっていないのでどうすればいいのかもわからない。
訝しむようにジェイドを見ていたアルディオラだが、やがてフッと笑う。
「フフ……まあ詮索はしないわ。シャルウォートと交流があるのだからお前も色々とワケ有りなのでしょう」
悠然と構えている王妃。
なかなかに酷い言いざまのように聞こえるが、それはそれだけ二人の間が気安いという事でもある。
共に国の中枢という場から身体半分ズレている者同士気が合うのだ。
月に1,2度、シャルウォートは王妃を訪問し酒を酌み交わしたりカードや盤物などの遊戯に興じたりしている。
ジェイドは何度かそこに同行し、王妃に気に入られて召し抱えてもらえることになった。
「……例の大王様の悪趣味から始まった勝負のせいで王宮内もあちこちギスギスしているし、その内本当に人死にでも出るかもしれないわ。楽しみね」
それこそ悪趣味なことを言って王妃は笑っている。
そして彼女の発した「人死に」の一言に密かに冷や汗を流すジェイドであった。