彼女の目覚め
自分の血を輸血した事による魔力による自己再生が始まっているのなら、もうシオンの身体は一番危ない所は脱したと言っていいのではないだろうか。
彼女の穏やかな寝息を確認してアムリタはそう思った。
自分たちが眠っている間に官舎の部屋に移動させたのはキリエだろう。
用事が済んだらもう自分の所に置いておく気はないという事か……。
(油断はできない女だし、味方だとも思っていないけど……。この件に関してだけは感謝しないとね)
最も礼を言う前にもう連絡は取れなくなってしまったが……。
嘆息するアムリタである。
時刻は深夜に差し掛かっていたが仲間たちを心配させているはずだ。
一先ずシオンを自室に残して自分は部隊の詰め所に向かう。
案の定、そこはまだ明かりが付いておりミハイルがいた。
顔を見せた自分に驚く彼に事情を説明する。
警備中に襲撃を受けてシオンが重傷を負ってしまった。
急を要したので自分の知人に治療を頼んだ。連絡を入れている余裕は無かった……と。
「どうにかして連絡を寄越さなかった事には言いたい事はあるが……。一先ずはよかった」
そう言ってミハイルは深く息を吐いた。
自分の内面を外には出さないこの男がその時ばかりは心底安堵している様子が伝わってくる。
ミハイルが仲間たちに連絡を取る為に人を派遣している姿を見ながら不意に意識が遠のいていくジェイド。
安心したら一気に疲労がきた。
視界が暗くなっていく。
抗えない睡魔に飲まれ眠りに落ちていくジェイドであった。
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王都の一角、柳生キリエの別邸。
滅多に主が姿を見せる事のないこの屋敷。
古めかしい大きな屋敷だが荒れた箇所や汚れた部分は敷地内にはまったくない。
日常、数人の使用人たちにより完璧に手入れがされているからである。
この日十数年ぶりにやってきた主の姿にも一切疑問を差しはさむことなくその使用人たちは常日頃そうしているように黙々と働いている。
少し高い位置に建つこの屋敷は二階の窓から都の美しい夜景を見渡すことができる。
彼女がずっと昔にここに屋敷を構えた理由だ。
美しい夜景を眺めながらグラスに注いだワインを嗜み、今夜のキリエは上機嫌であった。
(さて……戯曲が盛り上がるのはここから。危難を乗り越えた二人に新たな試練が襲い掛かる。だけどそれを乗り越えることができれば二人は今よりもずっとわかりあえることでしょう)
室内の明かりで窓ガラスに反射する彼女の口元が綻んでいる。
(楽しみね……アムリタ)
その時、彼女の部屋の戸をノックする者がいた。
入室を許すと飾り気のない灰色の服を着た一人の男が入ってくる。
余り裕福ではない下級の貴族のような格好だ。
「失礼します、キリエさん。屋敷だと聞いたので……」
低い落ち着いた声で話すその男は見た目は三十代の半ばくらいだろうか。
細面で顔立ちは整っているが、どこか疲れたような感じがあり陰のある男である。
オールバックにした黒髪は若干乱れていて、そこがまたくたびれた印象を与える。
「……あら、あなたも来ていたのね」
「ええ、他の三人が入国したので何かあった時の為に、念のため自分も……」
意外そうなキリエにうなずく男。
「今晩は泊めて貰ってよろしいですかね?」
「ご自由にどうぞ。……それにしても、あなたもう少し楽しそうにできないの? あなたは『楽』の担当でしょう」
キリエが苦笑すると男は軽く肩をすくめた。
「元々自分に楽の要素はまったくありませんし……。ただ他の三人があまりにも『喜』『怒』『哀』だったので四人の名称を貴女が喜怒哀楽に決めてしまって、それで余りの楽を回されたと言うだけで」
ふぅ、と疲れた感じで息を吐く男。
「楽をして生きていく方法ならずっと探してるんですけどね。残念ながら今の所そんなステキな魔法は見つかっていません」
そう言ってほろ苦く笑う灰色の服の男であった。
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詰所でそのまま寝かされていたジェイド。
翌日は朝から目が回るほどの忙しさであった。
仲間たちには怒られたり泣かれたり。
夜の内にミハイルが連絡は入れてくれていたものの、ロードフェルド王子を訪問して報告と謝罪。
その後で王子の部下たちによる事件の調査本部で事のあらましを説明。
早朝から忙しくしていたというのに、ようやく全ては終わって解放された時には既に辺りは宵闇に包まれようとしていた。
調査本部のある王宮内の建物を出たジェイドが疲れた表情で息を吐く。
「大丈夫か?」
珍しく気遣いの言葉を掛けてくるミハイルに肯き返す。
「ああ、大丈夫だ。別に僕は負傷をしているわけではないし……」
大変なのは、大きな仕事をしたのは……シオンである。
彼女がいてくれなければ自分は今ここにいる事もなかったかもしれないのだ。
大きな借りを作ってしまった。
何かで……報いてあげらればいいのだが。
朝方様子を見た時には彼女は穏やかに眠っていた。
自己再生が始まっているのならもう医師や治療術師に慌てて診せる必要もない。
彼女が起きてからそのあたりの事は考えようとジェイドは思っている。
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シオンが目を覚ましていたら何かを食べたいと思うかもしれない。
そう思って官舎の食堂に寄って簡単な食事を用意する。
トレイを持って片手で器用に鍵を開けて自分の部屋のドアを開けるジェイド。
「ただいま……」
小声で呟いて室内に入る。
当然ながら明かりが灯っていない室内は暗い。
「あ……」
思わず声が漏れていた。
シオンが立ち上がっている。
彼女は窓の側に立ってどこか心ここにあらずという感じで外の景色を見ていた。
(よかった!! 起きている!!)
思わず大きな声が出そうになり、慌てて我慢する。
それほど身体の内側から湧き上がってくる喜びの感情が大きい。
「シオン……」
声を掛けると彼女が弾かれるようにジェイドを見た。
……何故か、酷く怯えているような動作だった。
「………………」
言葉もなくジェイドを見ているシオン。
その表情は強張っており呼吸が僅かに乱れている。
……大きな負傷をした後だから気が昂っているのだろうか。そうジェイドは思った。
「よかった、シオン。身体は……」
「こないでッッ……!!」
一歩彼女に近付いたジェイドを悲鳴に近いシオンの声が留める。
睨んでいる。
下唇を噛んで……少し震えながら。
そこにははっきりとした自分への敵意があった。
「こないで……アムリタ・カトラーシャ……」
「……………」
足元の床が粘土のようにぐにゃりと歪んだ気がした。
……どうして、彼女がその名前を?
自分を、本当の名前で呼ぶのだろう。
「あっ、貴女……貴女だったのね……」
震えながらシオンが睨んでくる。
自分の知らなかった表情。
彼女が初めて見せた自分の「敵」に対する表情だ。
「アルバート兄様……殺して……」
心臓を氷の爪で鷲掴みにされたような心地になる。
もう疑いようがない。
彼女はどういう理由でか自分の正体としてきた事を知ってしまっている……!!
だがどうする? どうすればいい?
彼女がそれを知って自分を憎むのであればそれは正常な反応、正当な感情だ。
どんなに立派で、どれほど万人が理解を示す理由があったとしても……。
誰かの命を奪う事は許されない事だ。
良い国を作りたいと願って自分を殺したクライスを自分は許さなかった。
ならば報復として彼女が自分を許さないのだとしたら。
……それは正しい事で自分は報いを受け入れなければならない。
自分自身がそうしてきたのだから。
「くっ……!!」
走り出すシオン。
部屋の出口側にいた自分を押し退ける様にして彼女は部屋を飛び出していってしまった。
よろめいたジェイドが持っていたトレイを床に落とす。
持ってきた簡単な食事が撒き散らされる。
「……………」
だが、茫然としている彼はその場から動けない。
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王女イクサリア・ファム・フォルディノスにとって今日という日ほど感情が揺れ動いた日は他になかっただろう。
ジェイドがいない、見つからないと言う不安と恐怖から始まり彼が無事で見つかったと言う報に歓喜し……。
そして今現在、彼女は彼の官舎へ足早に向かっている。
仕事終わりに会おうとしていたのだが、彼は今日こちらが想像していた以上に忙しくすれ違いが続いてしまった。
ようやく詰所でミハイルを捕まえて聞いてみると,既に仕事を上がり官舎へ戻ったはずだという。
(疲れているだろうし、私が癒してあげないと……。あの人の望むことを何でもしてあげよう。好きに命令していいんだからね……アムリタ)
そのジェイドの部屋に現在シオンが寝かされているはず、とは聞かされていないイクサリアだ。
「……………」
その王女が足を止めた。
官舎をバックにして誰かが立っている。
……背の高い男だ。
月の光に照らし出されたどことなく陰気で疲れた感じの男である。
「ここより先は御遠慮ください……王女様」
「誰だい? キミは。……知らない顔だね」
見た目通りに男の声も低く静かでどことなく疲れたような響きがあった。
……しかし、只者じゃない。
イクサリアの鋭敏な感覚がそれを感じ取って、彼女は密かに魔術の行使の為に意識を集中させる。
自分の風をすぐに出せるように。
「戦闘は……無意味だと思いますが。お互いに静観すればいいだけです。今宵は彼らの為の舞台で……自分たちに出番はありません」
はぁ、と嘆息する灰色の服の男。
「自分は喜怒哀楽で『楽』の座を任されている者で……ジェレミー・ディーと言いまして。……まぁ、『楽して生きていきたい男』ジェレミーとでも言えばいいんでしょうかね」
「私の邪魔をする気なら、それは楽な生き方とは言えないんじゃないかな」
彼女は迷わない。
その瞬間に殺意は結実する。
……風が吹く。
音もなく静かに、音に似て早く……とても鋭い風が。
「!!」
『楽』の男……ジェレミーの目が僅かに見開かれた。
どことなく疲れた男の姿が消える。
そして一瞬の後に王女の前に現れる。
「参ったな……結局こうなってしまった。可憐な少女と思っていたが、中身は虎だな……」
ジェレミーの拳がイクサリアの腹にめり込んでいる。
「くは……ッ」
大きく息を吐いて意識を失うイクサリア。
地面に崩れ落ちないようにそれを支えるジェレミー。
「まあ、自分が来てよかったか……。他の三人の誰かなら本格的な戦闘になっていただろう……」
月光を背に王女を抱き留めながらはぁ、と嘆息するジェレミーであった。




