凶刃
クライス派残党を実質的に動かしている男バルバロッサ・ドイル。
彼が自らジェイドの暗殺に出向く事になった。
(フッ、まさかこの俺が今になって刺客役を務める事になるとはな……)
苦笑するバルバロッサ。
考えてみればアイラに指摘された通りにこれまでが少し安全な位置に居すぎたのかもしれない。
自分としては始めからそうするつもりだったわけではなくもう少し自ら前線に立つ気であったのだが、エスメレー元王妃の加入が転機となった。
彼女をけしかけるだけで自動的に多くのメンバーが従った。
人を動かすのに一々理由を考えて舌を動かす必要がなくなった。
(随分楽をさせてもらってきたが、そのツケが今になって回ってきたか)
エスメレーを動かしさえすればよかった組織の運営は彼女が動かなくなってしまった今行き詰っている。
(初めは大喜びしたものだがな。最高の人材を連れてきてくれたと…………?)
不意に、男の思考を強い違和感が覆った。
(連れて……きて……誰がだ? 誰が彼女を組織へ連れてきた……?)
おかしい。思い出せない。
そんな大事な事を……思い出す事ができない。
誰がエスメレーをここへ連れてきて自分たちへ引き合わせたのだ。
彼女が自分でここを探し当てて来訪するはずがない。
別の国の修道院で暮らしていた彼女が。
(それに……若いぞ。あれはどう見たって二十歳そこそこの女だ。エスメレー様は五十台の半ばのはず。あんな若いはずがない……)
一度沸いてくると疑問は次の疑問を呼んでどんどん増殖していく。
何故これまでそれを一度もおかしいと思わなかったのだろうか。
その時、バルバロッサの視界の端に紫色の桜の花弁が散った気がした。
途端に……彼の頭の中から全ての疑問が消えていく。
(まあどうでもいい事か。今の俺が考えなければならないのは別の事だ)
考え直し出撃の為の身支度を整えるバルバロッサであった。
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アムリタのパン屋で留守番をしていたはずのアイラ。
彼女は店に留まりつつも現役時代の伝手をあれこれ使って随時アムリタやクライス派残党の情報を仕入れ続けていた。
自分は関与しないつもりであったが……。
北の都での祭典の時、エスメレー元王妃を捕縛し損ないジェイドが一時重体になったと知った時に考えを変えた。
バルバロッサと接触して組織に潜入し、そして彼が集団の「核」である事を知ってジェイドの刺客として彼へと差し向けた。
いつ王宮に潜入するか、そして標的をいつ襲撃するのか……これからバルバロッサは二つのタイミングを計る必要がある。
こちらはまだ時間的に余裕がある。
アイラはそこまで計算していた。
(今すぐに連絡すれば十分備えをする時間はあるはず……)
ジェイドへの手紙を書くとアイラは意識を集中させて自身の魔術を行使する。
彼女の眼前に水の球体が浮かび上がり、内部に気泡を生みながら形を変えていく。
鳴江アイラの魔術は水の魔術だ。
生み出されたものは水の蛇。
蛇は手紙を咥えると高速で這い何処かへと消えていった。
……これでいい。あの蛇は手紙が入る隙間ならどんな場所であれ形を変えて入り込む事ができる。
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そして、アイラからの警告の手紙を受け取ったジェイドは……。
(暗殺者が来るみたいだけど……誰かしら? エスメレー元王妃じゃないのかな)
たった今頭を悩ませている真っ最中だ。
手紙は単純な文面であったが、ジェイドはそこに込められたアイラの意思をなんとなく察していた。
単に安全に気を配れと言いたいのではない気がする。
アイラは……これから襲ってくる者が重要な相手であると言いたいのではないだろうか?
だとすれば単に倒すのではなくできるならば捕えたいが、どう迎え撃てばいいのか……。
大体が今の自分を襲撃するのは相当難しい。
日中は誰か部隊の者と大体一緒にいるし、夜は以前ロードフェルド王子が襲撃された時から警備の衛兵が倍増されている。
……となればあえて隙を作り刺客を誘い出すか。
そこを万全の布陣で迎撃したい。
(ミハイルと相談しなきゃ。あんまり露骨だと逆に警戒されそうだし……)
あの聡い男であれば何か妙案を授けてくれるかもしれない。
現在彼女は昼の休憩中である。
日常の業務であるロードフェルド王子の屋敷の周辺の警護の最中だ。
食事はいつもの手製の粗末なサンドイッチ……ではない。
「いかがですか! 師匠! お口に合いますでしょうかッ!」
手製だが……豪華で美味しそうなサンドイッチ。
美味しそうというか実際に美味しい。
シオンが作って来てくれたものである。
「ああ。……うん、美味いよ」
そう言ってジェイドは少しだけ笑ったが、何だか引き攣っているその口元はあまり笑みには見えていない。
今彼の内心……というかアムリタの内心にドロドロと渦を巻いているのは嫉妬である。
(許せない……敵よ。この味は敵だわ。私より美味しいサンドイッチを作れる人なんて皆みんな敵よ!!)
それだと人類の大半が敵に回ってしまうのだが、嫉妬で暴れているアムリタはその事に気付いてはいないのだった。
……………。
そんなジェイドとシオンの二人を物陰から気配を殺して窺っている者がいる。
微笑む男モーリス。
……この日、彼は休みを申請して朝から自由の身であった。
(彼を殺す。私が殺す。それでクライス様の魂も安らぐだろう。エスメレー様はお喜びになるだろう)
朝から……いや、正確には数日前から何万回も頭の中で唱えてきた言葉。
それだけで思考を生めてこの数日間を過ごしてきた。
狂気の殺意に支配されながらもモーリスの思考は冷静であった。
日中の……それもこのロードフェルド王子の屋敷の警護任務中という本来一番仕掛けてこないはずのタイミング。
だからこそ、そこでいくのだ。
隙を突き一刺しで殺す。
その後、王宮外へと逃れるルートも全て考え抜いて頭の中に入っている。
殺害そのものを一瞬で終える事ができれば後はどこで誰に見られようが問題はない。逃げ切れる。
今がその時だ。
あのもう一人の娘がちょっとでもこの場を離れそうになったら……。
その遠ざかる彼女に注意を向けている間を狙って、奇襲する。
「お飲み物を取って参ります!!」
「いや、そこまでしなくて……」
ジェイドが言いかけた時には既にシオンは走り出してしまっていた。
苦笑して上げかけていた手を下ろすジェイド。
……その時、彼の斜め後ろの茂みから音もなくモーリスが姿を現す。
その手には抜き身の剣をぶら下げてだ。
まさしく彼が思い描いていた千載一遇の好機。
今、ジェイドの意識は走っていくシオンに向けられている。
微笑みながら男は剣を振り上げる。
その時だ。
「あ、師匠……お紅茶かコーヒーの……」
途中で足を止めたシオンが振り返っていた。
「どっちが……」
そして彼女はジェイドの背後で剣を振り上げている微笑む男を見た。
「ッッッッ!!!!!」
この時、彼女の中でかつてない速度で思考と鼓動が加速する。
今から、この位置から……自分に何かができるとするのならば魔術だけだ。
物心付いた時から研鑽を続けてきたハーディング家の、「天車星」の雷だけだ。
一瞬で右手を前方へ向け、雷の矢を放つ。
剣を持つ男に向かってではない。
……ジェイドに向けてそれを撃つ。
もしも電撃を男に向けて放っていたとしたら彼はその魔術の苦痛に耐えて暗殺を完遂していた事だろう。
「うわッ!!」
横に倒れてシオンの電撃を回避したジェイド。
結果としてその動作が斜め後ろの暗殺者の刃からも彼を守る。
「うぁぁぁッッッ!!! おのれぇぇッッッ!!!!」
必勝必殺のはずの一撃をかわされモーリスの顔から微笑が消えた。
下から現れたのは憤怒と狂気の醜悪な面相である。
だがまだジェイドは倒れて体勢を整えられていない。
今ならば次の一撃で葬り去れる。
「死ねぇッッツ!!!!」
鋭く突き出された剣先。
交わしきれないと判断したジェイドがせめてダメージの少ない箇所に受けようと身体を捻る。
そこへシオンが割り込んだ。
彼女は電撃を放った直後に走りこんでいたのである。
「やらせないッッ!!!!」
モーリスの剣が……。
「あっ……」
シオンの腹部に……深く突き刺さった。
瞬間、ジェイドの全身の血が沸騰した。……そんな気がした。
叫んでいたかもしれない。
ただその声は自分の耳にも入っていなかった。
繰り出した渾身の拳が大気を穿ちモーリスの喉に突き刺さる。
襲撃者は首をおかしな方向に曲げながら遠くへ吹き飛んで、そして地面に落ちた。
地面に落ちる前に男は既に絶命していた。
「シオン!! シオンッッ!!」
叫びながら彼女を抱き起こす。
その腹部にはまだ剣が突き立ったまま……。
流れ出る血が地面にどんどん赤く広がっていく。
「………………」
声なき悲鳴を上げた。
あぁ、これは……。
悟ってしまった。
理解してしまった。
これはもう、この傷はもう、助からな……。
「……し、師匠……」
虚ろな目を開けて血の混じった咳をしながらシオンが言う。
「ご無事……でしたか……」
震える手を持ち上げようとして、その手が空中で止まる。
たまらずにその手を取った。
「ああ、僕は無事だ……。シオンのお陰だ……」
「お役に……立てた……ん……です、ね……」
握り締めた手から力が抜ける。
「よか……っ……た……」
「シオンッッッッ!!!!」
叫んで走り出そうとするジェイド。
治療院へ……彼女を連れて……。
でも頭の中でもう一人の自分が、冷静な自分が。
そんな事をして何になるのだと囁いている。
無意味な事をしようとしている。
ただ彼女の死に際してやれる事はやったのだと……自分自身に言い訳をする為に。
「……無理よ。わかっているでしょう?」
「ッッ!!!」
突然、背後から女の声が聞こえてジェイドの足が止まる。
……いつの間にか、周囲に紫色の桜の花弁が舞っている。
彼女がいる。来ている。
すぐ側に。
「その子は間に合わないわ。治療術師の所へ連れて行っても手の施しようがない。大体が、そこまでももたないでしょう」
「柳生キリエ……!!」
振り返るジェイド。
そこには番傘を差して着物を着た自分と同じ髪の毛の色の妖艶な美女が微笑んでいる。
鳴江柳水と名乗っていた老人の正体。
自分にとっては父でもあり母でもあるような奇妙な関係の女性。
「キリエッッッ!!」
身体ごと彼女に向き直って声を上げる。
腕の中のシオンを強調するように少しだけ持ち上げて。
「教えてくれ!! 彼女を助ける方法を!! 知ってるんだろう!!!」
……確信がある。だからこそ彼女は自分の前に姿を現したのだ。
それが天の御使いか地獄よりの使者か……そんな事は今はどうでもいい。
「……嬉しいわ。やっと私を頼る気になってくれたのね」
そう言うと彼女は本当に嬉しそうに笑った。




