白狼星のミハイル
王都の倉庫街の一角、その地下に書類の上では存在しないはずの広い空間がある。
この秘密の地下倉庫はクライス王子が表に出したくない物資の保管に利用していた場所であり、そこが現在はクライス派残党のアジトとなっていた。
その秘密の倉庫の最奥に……彼女の為の一角がある。
そこはまるで神聖な場所であるかのように普段は誰も近付こうとしない。
しかし今日だけは例外だった。
彼女の為の空間に無粋に立つ男がいる。
浅黒く日焼けした精悍な顔つきの男が……。
「……煙草はやめて」
艶やかな唇が僅かに動いて、漏れ出た言葉は拒否のものだった。
バルバロッサ・ドイルはポケットに突っ込みかけていた手を止めた。
「どうして……ちゃんと殺してこなかったんです? エスメレー様……殺せたんじゃないですか?」
煙草を持つはずだった手を手持ち無沙汰に振りながらバルバロッサは言った。
先日の王宮襲撃の時の話だ。
エスメレーはロードフェルドを瀕死にまで追い込んでおきながら止めは刺さずに引き上げた。
それにしても……。
バルバロッサは目の前の喪服の女をチラリと見る。
思わずひれ伏せたくなるような美貌である。
陶器のような白い肌に長い睫毛の切れ長の目。艶やかな黒髪。
「クロスランドの至宝」……若い頃のエスメレーはそう呼ばれ他国にまでその美貌は知れ渡っていた。
今や彼女の肉体年齢は外見の全盛期とも言える二十代前半の頃に戻っている。
「あんなもので、あの程度で終わりにはしません……」
エスメレーが暗く、静かに告げる。
「クライスの味わった痛みを……絶望を、数千倍にして味わってもらいます。ロードフェルド王子には」
そのエスメレーの目を見た時、バルバロッサの背筋を蛇のような寒気が這い上っていく。
底知れぬ怨念の黒い炎が渦を巻いているのが見えた気がした。
(……チッ、駄目だこれは。理屈を説いてどうなるものでもない)
お手上げである。一礼して黙ってバルバロッサは彼女の『聖域』を退出した。
息子を殺された怨念だけが彼女を衝き動かしている。
今の彼女はそのためだけの存在なのだ。
「殺せるならさっさと殺して……話を先に進めたいんだがね」
カツンカツンと石造りの通路にブーツの音を響かせながら独りごちるバルバロッサ。
そして彼はあの場では止められた煙草を取り出すと咥えて火を付ける。
バルバロッサのドイル家は十二星「水蛇星」のメルキュリア家の傍系に当たる。
だが彼は代々学者と研究者を輩出してきた一族の生き方に馴染めずはぐれ者となった。
実家は勘当された様な状態で王国軍に入り軍人として働いていた彼を見出して取り立てたのがクライス王子である。
(クライス様……あなたの事は好きでしたよ。能力主義で自分みたいなはみ出し者でも取り立ててくれる所とか、いざやるとなれば甘い事を言わずに手段を選ばない所なんかもな)
ふう、と薄暗い通路に紫煙を吐き出す。
漂う煙の向こう側に在りし日の主の横顔の幻影を見る。
(けど死んだらそこまでです。退職金の代わりにあなたの過去の名声と人望を使わせてもらうくらいは大目に見てくださいよ)
このアジトに集っているクライス派残党のほとんどは復讐を目的としているが自分は違う。
自分にとってはこれは「仕事」だ。
王国はもう数百年に渡ってこの地方に「一強」の存在として君臨している。
それに恩恵を受ける者もいれば煙たがっている者もいるのだ。
そういった王国の存在を、強さをよく思っていないある勢力が今の自分の後援者である。
(ロードフェルド王子は……アイツはダメだ。奴は男気があって能力もある。アイツが王位を継げば王国の強い時代は続くだろう。消えてもらわなければな)
つい先日にその絶好のチャンスがあったが王子を殺すには至らなかった。
エスメレーはまだ嬲る気でいる。
面倒臭いが彼女のカリスマ性は絶大で組織内で聖母として崇拝者を作り出している。
好きにさせておくしかない。
(一度痛い目みた以上あっちも警戒の度合いを強める。やればやるほど殺すのは難しくなっていくっていうのにな)
はぁ、と煙草の煙にため息を乗せて吐き出すバルバロッサであった。
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十二星「白狼星」のブリッツフォーン家は文武両道の家柄として知られている。
治世と軍事、どちらにも優秀な人材を数多く輩出してきた一等星でも特に名門の家柄だ。
その生き様と能力に自負があるのか、先の継承争いの時期には早々にどの候補者の支援も行わないと表明。
決まった新しい王が誰であれ忠節を尽くすと宣言している。
そんな硬骨漢な所をロードフェルド王子も好んでおり以前より交流があった。
そしてその白狼星の当主の一人息子がミハイルである。
鋭いシャープな美貌に一部の隙も無い出で立ちと纏った空気。
母の胎内から生まれ出でたときには既にしかめっ面であったと揶揄されるほどの無愛想。
ミハイル指揮下に配属されたジェイドはもう半日彼に付き従っているのだが……何もしていない。
ただその傍らに控えているだけだ。
ミハイルは精力的に働いている。
書類を記し視察に赴き他部署の上位貴族らと会談する。
その間、ジェイドはずーっと彼の側で立っているだけ。
「……僕にも何か仕事を」
「必要ない」
ジェイドの言葉を冷たく遮るミハイル。
「目の届かぬ場所に置いて問題を起こされてはかなわん。私の目の届く場所に控えていればいい」
(……ンがぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!!!!!)
ジェイドの脳内でアムリタが絶叫を上げて後ろに倒れた。
(そこまで邪険にしなくてもいいでしょう!! 私の何がそんなに気に入らないのよ!!!!)
しかし彼女の表層であるジェイドはあくまでも無表情でそこに立つだけだ。
……思えばアルディオラ王妃の衛士を務めていた頃は本当に好き勝手をさせてもらっていたものだ。
庭石をひっくり返して死体を捜していた等と言ったらこの男もひっくり返るんじゃなかろうか? などとミハイルの冷たい無表情を眺めながらアムリタは考えている。
そして視線は送らずともミハイルはミハイルでジェイドの事を考えていた。
(この平民の男が何だと言うのだ? 急に病床の王子に呼び出されたかと思えば私に任せたい等と……)
『平民だが頼りになる男でな。以前アルディオラ妃殿下の衛士を務めていた男だ。俺の身の回りも物騒になってきたので呼び戻した。お前に預けるので面倒を見てやってほしい』
……わからない。
護衛として取ったのならそういった部署に配属して自分の側に立たせておけばいいのではないか。
それを何故自分に付ける?
自分には助けが必要な部分などまったくない。
全て一人で完璧にこなせる。
いっそ王子に貼り付けて四六時中守れと命じてやろうかとも思ったが、それでは預かれと言った王子の意向を無視して放棄したように思われるかもしれない。
結果としてミハイルは使い道も思いつかずに自分の側にジェイドを置いている。
(仕事を分担できない事も無いが、その説明をしている時間があれば自分だけで仕上げてしまえる)
一人で何でもできるし、実際にそうしてきた。
助っ人など必要ない。
(私は一人でいい。何も問題はないというのにな)
初めて己の一人の世界に、パーソナルスペースの内側にいるジェイドの存在に少なからずミハイルは動揺し悩む部分もあった。
それを表に出す男ではないのだが。
ボーンボーンと柱時計が鳴り始める。
……18時だ。
「時間か。……上がれ」
「はい。失礼します」
退勤を命じるミハイルに頭を下げるジェイド。
内心ではアムリタが嘆息している。
結局突っ立っているばかりで一日が終わってしまった。
職場の庁舎がロードフェルドの屋敷の目と鼻の先という事だけが救いであろうか。
……………。
「……ジェイド!」
庁舎を出たばかりのジェイドに声を掛けて駆け寄ってくる一人の男。
「やあ、レオ。こんばんは」
やってきたのはレオルリッドである。
驚いている様子はない所を見れば自分がここにいると知ってやってきたのか。
色々と疲弊した一日であったが、最後に友人の顔を見てジェイドは少しほっとする。
「戻ってきたと聞いたのでな。どういう風の吹き回しだ? 王宮の空気が恋しくなったわけではあるまい」
「ロードフェルド王子が襲われてお怪我をされたと聞いたから。あの方には僕も色々と世話になっている」
そう答えるとレオルリッドは複雑な表情を浮べた。
ジェイドがアムリタである事を知り、これまでの経緯も知っている彼としては色々と察する部分があったのだろう。
「そうだったのか……。お前の気持ちはわかるが、それでお前がまた危険に身を投じるというのは……」
レオルリッドの言葉の途中で庁舎の扉が開き、誰かが出てくる。
……ミハイルである。
出てきたミハイルとそこにいたレオルリッド、両者の視線が交錯した。
……ピシャァァァァン!!!!!!
その瞬間、落雷があった。
現実のものではない。
(ちょっと……!!! 演出効果ッッ!!!!)
脳内のアムリタが仰け反っている。
レオルリッドの背後に猛る巨大な獅子が。
ミハイルの背後に冷たい目をして唸る巨大な狼が。
……それぞれ見えた気がした。
「……これはこれは、『三聖』様のご子息レオルリッド殿。今日は仲の良いお友達の方々はお連れではないのかな?」
先制で仕掛けたのはミハイルだ。
彼は冷たく鼻を鳴らすと普段よくレオルリッドと一緒にいる取り巻きたちの存在を揶揄する。
ビキッとレオルリッドのこめかみに一瞬血管が浮いたが彼は深呼吸でそれを鎮めた。
「フン、生憎と今日は一人だ。俺は友が多いのでな、確かに普段は賑やかに過ごしている。たまには静けさが恋しくなる時もあるな。ひたすら孤独な誰かさんがうらやましくなる時がな」
レオルリッドの挑発にミハイルがクワッと殺気だった目を見開く。
ずごごごごごご……と二人の周りの空気が唸りを上げている。
(ちょっと……貴方たちどうして秒でここまで険悪になれるのよ……)
二人の間で立ち尽くすジェイドの脳内で頭を抱えて大きなため息をつくアムリタであった。




