嘆きの修道女
雷が鳴っている。
土砂降りの雨が窓を叩いている。
分厚い雨雲に遮られ、今夜の月は地上を照らさない。
……とある修道院。
礼拝堂に響く咽び泣く声。
一人の女が泣き崩れていた。
「うぅ……ッ。うあぁ……ああぁぁ……!!」
修道女だ。
彼女は両膝を屈し両手を床に突いて涙を流し続ける。
礼拝堂には彼女の姿しかない。
もし他に誰かがいたとしたら彼女の痛ましい有様にそっと目を背ける事だろう。
「どうしてッ……どうして……貴方が死ななくてはならないの……!!!」
床を拳で叩く修道女。
もう何度も同じことを繰り返しているのか、その拳は皮が剥けて血が滲んでいる。
「クライスッ……! ……わたくしの……クライス……」
嗚咽を漏らし床に涙の雫を落とす修道女。
慟哭の声はいつまでも止むことはなかった。
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湯を浴びてから身体を拭いて、それから服を着る。
部屋を照らすランプの明かりに端正な横顔が浮かび上がっている。
女性的とも言える繊細な細面の美青年だ。
緑銀の髪の彼……名前はジェイド。
「……なァんだよ、泊ってかねえのか?」
ベッドで裸身を起こした女性。
気の強そうな顔立ちの美人だ。……彼女は王女リュアンサ。
王立学術院の長にして数百年に一人という天才であり絶世の美女でありオマケに王女なのだが、ガサツで粗暴。
こうして見ると顔立ちだけではなく体付きも姉妹で随分と異なっている。
繊細でスリムなイクサリアに対してリュアンサは肉感的で力強い色気があると言うか……。
「早起きして仕込みがあるんだ」
ジェイドがそう言うと、リュアンサがフン、と鼻を鳴らす。
「あァ、パン屋始めたんだってな。そういや。……けどよォ、売れてねェんだろ?」
小さく苦笑するジェイド。
売れていないのはまったくもってその通り。
「儲かってねェなら店は人に任すなり閉めるなりしてよォ、学術院来てアタシの仕事手伝えよな。給料だって腰抜かす程出して……」
リュアンサの言葉は最後まで続かなかった。
ベッドに向けてお辞儀をするように屈んだジェイドが口付けてきたからだ。
「……また来る」
「お、おぅ……」
唇を離して微笑むジェイドに真っ赤になったリュアンサが視線を逸らした。
「……いつまでも、待ってる」
……………。
学術院の薄暗い廊下を歩きながらジェイドが小さく嘆息する。
(……女として初めて関係を持ったのが妹で、男として初めて関係を持ったのが姉で、しかもどっちも王女様で? 我ながら人間関係がカオス過ぎるわ)
内心でアムリタが頭を抱えている。
抱えただけではなく掻きむしっている。
(しかも最近、ジェイドでいる時って前みたいに演技してるって風でもなくて、勝手に台詞とか行動とか出てくるのよね。もはや別人格っていうか……乗っ取られてる?)
歩きながら窓ガラスを見るジェイド。
そこに自分の顔が映っている。
今まで落ち着いてジェイドの顔の美醜についてなど考えた事もなかったが、なるほどそう言われてみれば神秘的な美青年であるかもしれない。
(貴方は誰……? 私の中の私じゃない貴方。なんだか問答無用で滅茶苦茶モテて、いい御身分ですわねぇー)
内心で苦笑しつつ家路を急ぐアムリタであった。
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王都の商店街の一角に小さな可愛らしいパンの店がある。
アムリタ・ベーカリー……お客は今日も誰もいない。
「……お客さん、誰も来ないのだけど!!」
カウンターで膨れている娘がオーナーであるアムリタである。
緑銀のセミロングの髪の美少女だ。
以前は冷たく張り詰めた顔をしている事が多かったが最近は随分表情豊かになってきた。
アムリタ・アトカーシア……それが今の彼女の名前。
文通の為に用意した偽名だが、それをイクサリアに頼んで本名という事で戸籍を作ってもらったのである。
社会的には死者だった自分がいつまでも十二星であるカトラーシャ家の名を名乗り続けるわけにはいかない。
「ねえ、アイラ……どうしてお客さんが来ないの? パンが不味いから?」
「自分で答えを言われたら私には返事のしようがないわね」
返事をしたのは褐色の肌の眼鏡を掛けた女性。
鳴江アイラ……アムリタ・ベーカリーのスタッフ。
黒髪をアップで纏めたいかにも仕事のできる雰囲気を漂わせている才女だ。
「うぅぅ……私、頑張ってるのに……」
アムリタが涙目になる。
(……そうね、彼女はとても頑張っている)
プライベートな時間の大半をパン作りの練習に当てているアムリタ。
それを知っているアイラは彼女を見て密かに哀れんでいた。
それでも尚、ここまでの危険物を精製してしまうのも一種の才能なのかもしれない。
「やあ、御機嫌よう私の愛する人。今日もお店は閑古鳥が鳴いているね」
「大合唱よ。どうにもうちのお店は集合地点になっているらしいわ」
気取った仕草と言葉で入ってきた麗人は王女イクサリア。
涼やかな目元の美女。アムリタが大好きすぎて他の大事な事は大体どこかへ投げ捨てた王女。
一部では彼女は「王子様」と異名されている。
淑女らしい装束よりも貴公子らしい装束を着ている時のほうが多い、
彼女は花束を持って現れた。
それを手にして立つ姿がまた酷く絵になっている。
花束を手渡されて「ありがとう」とアムリタが受け取る。
それはそのままアイラが花瓶に生けかえた。
「……ところで、今日は二人に振舞いたいものがあってね」
イクサリアがウィンクと共に言うと店のドアがカランカランとベルを鳴らして開き、ぞろぞろと人が入ってくる。
商店スタッフの服や配達業の制服を着た男たちだ。
それぞれ荷物を抱えている。
「夕食は私に任せてもらえるかな」
微笑んでイクサリアはそう言うのだった。
………………。
テーブルの上だけが別世界……いや、別店舗になった。
並んだ料理はどれも一流レストランのように輝いている。
そして銀の食器に燭台に……装飾も全てイクサリアが持ち込んだもの。
既に仕込みを終えてから持ち込まれた食材もあり、彼女は二時間ほどでこのディナーを用意した。
肉料理もスープもサラダも口に入れる前から美味であろう事が見ただけでわかる。
キラキラと光を放っているテーブルの上。
「さあ冷めないうちに食べるとしよう。ご賞味あれ」
エプロンを脱ぎながらイクサリアがアムリタたちに席を薦める。
そして……ディナータイムが始まった。
「凄いわね。一流のレストランみたい」
いくつかの料理を摘まんでからアイラが感嘆の吐息を漏らした。
「……いやぁぁぁぁ~~~ッッ!!!!」
……対してアムリタは悲痛な金切り声を上げている。
「どうして!? 貴女だってほんのちょっと前までは『シェフでも正体不明、カオス弁当』とか作ってたじゃない!! それがどうして短期間でこんなプロ並の料理を作れるようになっているのよ!!!」
「あれで反省したんだ。やっぱり愛する人には美味しい物を食べてもらいたいからね。それで料理を勉強したんだよ」
さらりと何でもない事のように言うイクサリア。
見た目は極上だが口に入れたら天国から地獄、という展開を期待していた(酷い)アムリタが激しいショックを受ける。
「イヤよ!! 私だけカオスシェフの世界に置き去りにしないで!!!」
「心配はいらないよ。どんなものであれキミが作ったなら私が全て食べるよ」
嘆くアムリタの手にイクサリアが優しく自分の手を添える。
「貴女それでこの前担架で運ばれていったじゃない……。私は私の作ったもので誰かを幸せにしたいの……。治療院に叩き込みたいわけではないの……」
はぁ、と重たくどんよりした息を吐くアムリタ。
「……うぅ、美味しい。辛い。美味しい」
そして彼女は泣きながら料理を食べ続けるのだった。
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夜もふけて閉店の時間も過ぎて、イクサリアも王宮へ帰っていき……。
アイラは閉店前の見回りも兼ねて店の周囲を箒で掃いて回っている。
美味しい夕食を食べて程よくワインも嗜んで今の彼女は上機嫌だった。
思わず彼女にしては珍しく鼻歌などが漏れている。
「……ご機嫌だな、参謀官」
「ッ!!」
不意に暗がりから声をかけられアイラは全身を緊張させる。
店と店の間の細い路地に……誰かが立っている。
「哀しくなってくるぜ。掃き掃除は下女の仕事だろ? 畏れ多くも一等星サマのやる事じゃない」
「貴方は……ドイル卿」
暗がりから明るい場所に一歩踏み出してきたのはくたびれたロングコート姿の中年男性だった。
日焼けした精悍な顔付きの男でダークグレイの髪の毛をオールバックにしている。
ニヒルでうらぶれた雰囲気を纏った男だった。
彼の名はバルバロッサ・ドイル。
二等星の家柄の男でアイラとはクライス陣営で同僚だった……王子に重用されていた幹部の一人。
「どのような御用でしょう。……正直、今貴方と二人でいる所を誰かに見られたくありません」
相手を警戒するように僅かに目を細めるアイラ。
「ククッ、冷たいな。……心配しなくてもそう長居はしない。こっちも色々と忙しい身でな」
そう言いながらもバルバロッサはポケットから煙草を取り出し、それを咥えて火を付けると美味そうに煙を燻らせた。
「用件を手短に言うが、俺たちと一緒に来ないか? 参謀官。今俺たちは亡くなったクライス様の無念を晴らすために活動している」
バルバロッサが声を潜めて言う。
アイラはそれに対して憂鬱そうな嘆息を返した。
「やはり、そういうお話ですか。……お断りします。そういった企てに私が参加する事はありません」
「王子への恩義を忘れてしまったか? 一等星とはいえ異国から来た養女……軍部で浮いてたアンタを取り立てて下さったのはあの御方だぞ?」
ジロリと目を細め煙草の火を指差すようにアイラに向けるバルバロッサ。
「その事ではあの方に感謝していますし、恩義も感じています。でも今の貴方たちに力を貸す事がその恩義を返す事になるとは私には思えません。貴方たちを動かしているのは私怨と私欲でしょう?」
「我々だって生きていかなきゃならんからな。生きている限りはいい思いだってしたいさ。だがあの方の無念を晴らしたいという思いも偽りではないぞ。両立できればそれに越した事はないだろう」
ニヤリと笑うとバルバロッサは足元に煙草を落とし、それを踏み消す。
「今日の所は引き上げる。またな」
ポケットに両手を突っ込むと暗闇に消えていくバルバロッサ。
「……………」
アイラはしばらくの間その場に佇み、既に誰もいなくなってしまった暗闇を見つめ続けるのだった。




