さよなら大好きだったあなた
ダンスフロアの様相は一変していた。
豪奢で優雅な空間は今や地獄のようだ。
家具は壊れて転がっており、カーテンは破れて裂けて……そこかしこに炎が激しく上がっている。
息を乱しながら立ち上がるアムリタ。足元の床にぽつぽつと血の雫が落ちる。
光の矢を直接食らいはしなかったが爆風で床に叩きつけられた。
だが……黙ってやられたわけではない。
砕け散って瓦礫になったテーブルや椅子の中でクライスが立ち上がる。
王子は避けながら蹴りを放ったアムリタによって家具に突っ込みそれらを砕きながら転がったのだ。
彼もまた……纏った装束の複数個所に血を滲ませている。
「………………」
口の端から滴った血を王子は親指で拭った。
状況は一進一退……両者ともに同程度の負傷をしている。
徐々に炎が広がり赤色が満ちていく空間に二つの殺意がぶつかり合う。
「うおおおッッッ!!!!」
雄叫びを上げてクライスはアムリタに襲い掛かり、剣を振るった。
近接戦闘と同時に魔術を扱うのはもう限界なのか、今彼の剣には光はない。
互角の攻防が続くが状況は少しずつアムリタに有利に傾き始めていた。
彼女は魔力による自己治癒が働いているのだ。
時間を掛ければ掛けるほど傷を癒しながら戦っているアムリタは有利になる。
胸板を蹴り飛ばしてクライスを突き放す。
だが彼は踏み止まると鋭い視線をアムリタに向ける。
「王になるんだ。私は……この国の王に」
呼吸を乱しながらも宣言するかのように言い放つ王子。
負傷を増やしながらも執念を燃やしアムリタの前に立ちはだかるクライス。
その双眸は爛々と輝く炎を映す。
「よき政を行い。国を豊かに大きくする。それが私の天命だ」
ゆらりと前に出て剣を振りかぶる王子。
その剣が光を放つ。先ほどまでよりも大きな光だ。
「その為ならどんな泥も返り血も……浴びて前に進むと決めたのだッッ!!!!」
初めて大きく跳んでアムリタがクライスの斬撃を回避する。
あれはただ避けただけでは駄目だと本能で悟った。
虚空に光のアーチを描いて床に叩きつけられるクライスの剣。
そしてその炸裂地点が眩い光と共に爆発する。
「私がその返り血よ!! クライス!! 貴方が浴びそこなって……貴方という器から溢れて零れたのが私!!!」
攻勢に転じたアムリタ。
振るった拳でクライスを滅多打ちにする。
顔面を殴打されて強制的に横を向かされることになった王子の……その口から折れた歯が飛ぶ。
クライスを殴るアムリタの目尻から涙の雫が散った。
何のために流れた涙なのかは彼女にもわからなかった。
「その返り血が今あなたの足を掬うわ!!! 器に見合わないことはするべきではなかったわね!!!」
「黙れッッッ!!!!」
遂に貴公子の仮面をかなぐり捨てて憤怒の形相で掴みかかってくるクライス。
二人はもみ合いながらバルコニー型のベランダへと飛び出す。
バルコニーの手すりに身体をぶつける二人。
アムリタの左手がクライスの右手首を掴んでいる。
クライスの左手がアムリタの右手首を掴んでいる。
互いに相手の利き手を封じあって至近距離で鋭い視線をぶつけ合う。
「クライスッッッ……!!!!」
「アムリタぁ……ッッ!!!」
両者が同時に咆哮した次の瞬間、石造りの手すりが砕けて二人は虚空へ投げ出された。
「…………ッッ!!!!」
音が消えた。
落下しながらアムリタが感じている奇妙にゆっくりしている時の流れ。
全てはスローモーションでまるで水中にいるかのようだ。
「ああぁぁぁッッッ!!!」
渾身の力で右手を掴んでいたクライスの手を振り解く。
そして両方の手でクライスの右腕を掴み……。
その前腕部を……へし折った。
「……………」
空中でほんの一瞬二人の視線は交錯する。
永遠のような一瞬。
アムリタは折れた腕に剣を握らせたまま、その剣の刃を彼の首筋に当てて……。
両者が落下し、地面に叩き付けられる。
「……はぁッ、はぁッ、はぁッ」
アムリタの世界に音が戻ってきた。
聞こえてくるのは激しい自分の呼吸音ばかり。
三階部分から二人で落ちたのだ。全身が軋んで激痛を発している。
立ち上がってフラフラと前に進み、それから……彼女は振り返った。
地面に真っ赤な血溜まりがある。
そして、その真ん中でクライスがもがいている。
彼の首からは夥しい鮮血が噴き出している。
アムリタが落下しながら彼の剣で切り裂いた傷からの出血だ。
「あ、アムリタ……私……は……」
立ち上がろうとして地面に左手を付くクライス。
だがその手は血で滑り王子は再び胸板を地にぶつける。
「君に……すまな……かった……と……」
それきり……彼は静かになり動きを止めた。
そして二度と動き出すことはなかった。
「貴方が教えてくれた草花の名前や、花言葉を今でも覚えてる」
既に息のないかつての婚約者を前にアムリタはわずかに視線を伏せた。
「さようなら……クライス」
囁くように言う彼女を血の匂いをさせた風が吹き抜けていった。
────────────────────────────
煙や火の手が上がっている舞踏館。
月夜のそのシルエットを前にして数百人の武装した騎士たちが整列している。
クライス王子の配下の兵士たちではなく、館に異変ありとの事で出撃してきた王宮の騎士団たちだ。
その数四百名。追って二百五十名が合流してくる予定だ。
戦争を想定しているかのような布陣である。
だが、軍事拠点としても利用可能な館を襲撃してくるような輩がいるとすれば大げさとも言い切れないかもしれない。
「静かだな……もう終わっておるのか?」
馬に乗った白い口髭の騎士……団長のヒギンズ。
経験豊かな穏やかな風貌の初老の男だ。
彼が言う通り、館からは火の手や煙は見えているものの喧噪らしきものは聞こえてこない。
今はしんと静まり返っている。
「よし行くとするか。突入するぞ。負傷者がいれば救護し不審な者は捕らえよ」
団長がそう指示を出し騎士たちが動き出そうとしたその時……。
「お待ちください、団長閣下!!」
一人の騎士が馬に乗って走ってくる。
そして彼は団長の近くで馬を止めると下馬して一礼する。
「こちらを……将軍からです」
「ロードフェルド様から? ふぅむ……」
渡された手紙を広げるヒギンズ。
そして一通り読み終えると団長はそれを折り畳んで松明の炎にかざし焼き捨てた。
何事なのかと周囲の騎士たちが団長の様子を窺う。
「撤収するぞ。そうしろとのお達しだ」
「は? 戻るのですか?」
傍らに立つ副官が団長の言葉に驚いている。
明らかに眼前で大事件が起こっているというのに。
「うむ。そして今夜わしらは何も見ておらぬし何も聞いておらぬ。それを全員に徹底せよ。全ての責任は将軍閣下がお取りになられる」
「……は、はっ! 了解であります!」
敬礼した副官が今の指示を全隊に告げるために走っていく。
それを見送るヒギンズが自分の口ひげをちょいちょいと指先で弄んでいる。
(……弟君に仕掛けられたか。それはできぬお人と思っておったが……いやはや権力とは人を修羅に変えるものよ)
ロードフェルドからの命令……それは今夜の舞踏館の襲撃に関して一切を黙殺せよとの内容であった。
今夜の舞踏館の襲撃並びにクライス王子の暗殺はロードフェルド王子の主導による政争に端を欲したものとして秘密裏に記録されることとなる。
「よろしいのでしょうか……」
撤収の準備をしつつどこか釈然としない様子の副官。
「よろしいもよろしくないもないだろう。この一手が通れば次の王はあのお方だ。わしらは国に仕える身よ。そのわしらが国にヘソ曲げてみてもどうにもならん」
それに、とヒギンズは口には出さずに考える。
(大王様も同じような事をやって権力を手中にされた。今更の話よな)
清廉さは尊いものではあるがそれだけでは国は治まらないのである。
この老練な騎士団長はそれをよくわかっていた。
────────────────────────
クライス・アルヴァ・フォルディノス王子……逝去。
舞踏館の襲撃事件から数日後、王家によって国民に布告されたこのニュースにより国内は悲しみの感情に包まれた。
民に愛されていた光の王子の死に多くの人々が涙する。
そして……それから二十日の後。
今も王都の各所には献花台が設置され連日多くの人々が訪れ花を手向け祈りを捧げている。
そんな人々の様子を横目で眺めながら二人の女性が通りを歩いていく。
「なんかなぁ、微妙な気分になるよな。自分がすげえ悪い事したみたいな気分にさ」
献花台の前で泣いている喪服の老婆を見て微妙な表情になるマチルダ。
まだ彼女は一部身体に包帯を巻いており、頬には絆創膏が貼られている。
「仕方がないのですよ。皆にとっては彼は素晴らしい王子様だったのです。彼のしてきた事を知ってる人はほとんどいないんですから」
そのマチルダの隣で肩をすくめるクレアリース。
「私たちが彼の死を自業自得だと思うのも自然ですし、あの人たちが彼の死を悲しむのも自然なのです。そういうものなのですよ。物事はそれを見る人によってあれこれ形を変えるものなのです」
「ははっ、なんか大人みたいな事いうじゃないか」
軽く笑ったマチルダの方を見てクレアはクワッと目を剥いた。
「大人なのですよ! 貴女と同じ二十歳なのです!!!」
唾を飛ばして叫んでから、ふぅ、とクレアが鎮火するように一息ついた。
「……ところで、本当に辞めちゃうんです? 二階級特進したんでしょ?」
「ああ。まだオレにぶん殴られて意識が戻ってない奴もいるしな……。流石に団には居辛いよ。オマケに一気に出世なんてしちまって、ロードフェルド様の命令で何かやったんだって皆には思われてるしな」
肩をすくめたマチルダが困り顔で笑った。
「お前は院に戻って研究続けるんだろ?」
「まあ私は貴女と違って同僚をぶん殴ったわけではないので……。それに研究費を結構院から借りているのです。辞めると利息が跳ね上がって地獄を見るのですよ」
やれやれと言った様子でクレアは嘆息している。
「お前……それなのにサボり倒してたのかよ。なんつー極悪人だ……」
頬を引き攣らせるマチルダ。
通りを歩いていくマチルダとクレア。
その二人が通り過ぎていった後に献花台から風に乗って散った花弁が舞うのだった。




