ココロの封印
月の輝く夜の空を飛んでいる。
「……………………」
そんな幻想的なシチュエーションだが、イクサリアにお姫様抱っこの姿勢で飛翔しているアムリタの目は虚ろなままだ。
彼女は全ての感情が抜け落ちてしまったかのような表情をしている。
今、二人は郊外のシャルウォートの屋敷に向かっている最中だ。
アムリタがこうなってしまった場合、頼れるのはあの胡散臭い美形しかいないのだ。
屋敷に到着したアムリタたち。
相変わらず自失のままのアムリタに代わり、イクサリアが眠っていたシャルウォートを叩き起こしすぐにアムリタの身体を診察させた。
………………。
診察室兼診療室の扉が開き、シャルウォートが出てくる。
それをソファに座って待っていたイクサリアが立ち上がった。
「……どうだった?」
「全然問題ナシだね」
シャルウォートはそう言うと軽く肩をすくめ、それから濡らしたタオルで両手を拭った。
「身体は健康そのもの。体内の魔力機構もすこぶる調子良好さ。……大体が強化の魔術は普通に使えているのだから、そういった部分に問題がある事はありえないね」
イクサリアの正面に座り、置かれていたカップのお茶をぐいっと一息に呷るシャルウォート。
そして彼はすっかり冷めてしまっていたお茶に顔をしかめる。
「では、どこが悪いと考えている?」
「……う~ん、断言はできないんだけど、多分……精神的な問題じゃないかなぁ? 彼女は自分自身まだ気が付いていない何らかの原因で無意識に性別転換の魔術に封印を掛けてしまっていると、そう見ているんだがね」
シャルウォートがそう説明するとイクサリアも複雑な表情になる。
そして王女はカップに口を付け、やはり冷めたお茶に顔をしかめた。
「新しく淹れなおさせるよ」
そう言ってシャルウォートは卓上のベルをチリンチリンと鳴らした。
やおら扉がバーン! と勢い良く開き、半裸といっていいような露出度の高い民族衣装を着た筋骨隆々の頭に獣耳を付けた男が勢い良く入ってくる。
「ウガッ、オ茶淹レル!! 俺、役二立ツ! ウガッ!!」
そうだみ声で宣言するとドタバタと足音荒く出て行く半獣人。
「……誰だい? 彼は」
「いや、色々あってさ……」
……問う方も問われた方も微妙な表情であった。
「…………………………」
落ち着かない気分のシャルウォート。
原因は……イクサリアの視線である。
自分を見る王女の眼光に、どうにもトゲを感じるのだ。
「ボクが……どうかしたかな?」
「一つ聞いておきたいんだけどね」
イクサリアが硬質の声で言う。
「キミ……アムリタにヘンな事はしていないだろうね?」
「していないよ!!」
慌てて否定するシャルウォート。
「……そりゃ、彼女の身体を色々と調べさせては貰っているけどね。研究の為にね。それだけだよ。……王女様の言うヘンな事っていうのは男女間の事だろう? そういうのはまったくないよ」
「そう、それならいいんだ」
ようやく少し王女の纏ったトゲトゲしい空気が和らいだ気がする。
「信用が無いなぁ。まあボクが怪しいのは自覚はしているけどね」
「私は……アムリタが何人を愛そうが構わないんだ。アムリタがそれを望むのならね」
そしてイクサリアはジロッとシャルウォートをねめつける。
「でも、キミはダメだ。入れてあげないよ」
「嫌われたもんだねまったく。どうしてボクだけはダメなのかな」
やれやれと嘆息しているシャルウォート。
「簡単な事だよ。キミは……他に好きな人がいるから。だから許さない。余所見をしながら彼女に触れようとする者は私が許さない」
「……!!」
ガラスの蝶の瞳が僅かに揺れた。
「どうしてそう思うのかな?」
「眼だよ。目を見ればわかる」
イクサリアは自分の瞳を指差す。
「キミが彼女を見る時の目には親愛はあっても情愛がない。好きだけど友達を見る目だ」
長い沈黙。
その後でシャルウォートがフーッと長い息を吐く。
「ご名答。恐れ入ったねえ。……ま、ご指摘の通りでね。ボクはずーっと昔の初恋を今でも引きずってる女々しい男さ。そんなわけだから王女様の心配は杞憂だよ。彼女は好きだけど、そういう目では見ていない」
「安心したよ。……キミの初恋も叶うといいね」
イクサリアの言葉に「どうだろうね」とシャルウォートはほろ苦く笑った。
「叶わないから……初恋なのかもしれないね」
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自分自身の内に原因があるのではないか。
シャルウォートの診察の結果はそれであった。
彼の屋敷のベッドで今アムリタは茫洋たる思考の海を彷徨っていた。
どうしてジェイドに変身できなくなったのだろう?
気が付かない内に自分のどこかにあの姿でいる事を忌諱する意識があったというのだろうか?
……わからない。
王宮には戻れない。
あそこには「アムリタ」の居場所はないから。
(私の中で何かが変わった。変わりつつあるのだとすれば……それはやっぱりあのアイラの一件からかしら)
倒さなければならない相手。怨敵の一部とみなしていた彼女を助けた。
自分の考える「復讐」というものに疑問を持ったのはその時である。
クライスへの殺意は些かも鈍っていない。
そこに迷いは一切無い。
……では、自分は何を迷っているのだろうか?
(やっぱり……それは……)
本当は……とっくにわかっている。
だけどその気持ちを認めてしまうのが恐ろしい。
だから悩んでいる、迷っているフリをしている。
「……アムリタ?」
静かに涙を零しているアムリタにベッドの傍らに座って様子を見ていたイクサリアが身を寄せた。
「イクサ、私……」
涙に濡れた瞳に青銀の髪の王女を映す。
「死ぬ事が怖くなってしまった……」
それが答えだ。
これまでの自分は復讐の為だけに存在し、それを終えれば消え去るはずの存在だった。
そうでなければいけないと思っていた。
自分は罪深い事をする。だからそれを終えれば自らの身をもって償わなければならないのだと。
「ジェイド」とはアムリタが復讐を完遂する為に生み出した姿、人格である。
クライスを殺す為だけの生きた機械として彼はこの世に生を受けた。
そして復讐の終わりはアムリタ自身の終わりも意味しており……。
つまりジェイドとは、クライスにとっての死神であると同時にアムリタの死神でもあるのだ。
その終わりを恐れてしまった。
だから自分はジェイドに姿を変える事ができなくなってしまったのだ。
「離れたくない……皆と一緒にいたいよ。……イクサとずっと一緒にいたいの」
死は別離だ。
いつの間にか……失いがたいものができてしまっていた。
いくつもの横顔がアムリタの脳裏を流れて通り過ぎていく。
心の底からの叫びを嗚咽に乗せてアムリタは涙を流す。
そんな彼女をイクサリアは優しく抱きしめる。
「いつか言ったね。ずっと一緒だと。キミが死ぬのならば私も生きてはいけない。キミが生きていてくれるのなら私も生きていけるんだ」
泣き続ける彼女の背に手を回し優しく撫でる。
「例え死であろうと私たちを分かつ事はできないよ。……永遠にね」
……………………。
夜風が心地よい。
再びの月夜の空の旅路。
ただ往路とは違い、今日はアムリタも風を感じて月を見る余裕がある。
「沢山泣いたらスッキリしたわ。面倒掛けてごめんなさいね」
腕の中のアムリタを見てイクサリアは優しく微笑む。
「いくらでもどうぞ。私の愛しいお姫様」
「お姫様はそっちでしょう……」
苦笑するアムリタ。
彼女の心に重たく掛かっていた黒い靄はもうなくなっていた。
自分のやる事に何一つ変わりはないのだ。
クライスを殺す。
ジェイドに変身できなくなっても、死にたくないと泣いてみてもそれは何も変わらない。
何も変わりはしないのだが……。
全てを投げ出していくのではなく、せめてできる事をしてから出発する事にしよう。
そう思ってアムリタはイクサリアに託した物がある。
………………。
王宮へ戻ってきた二人。
イクサリアはアムリタを修練場の屋根の上に下ろした。
……ここで自分がアルバートを殺害する所をイクサリアに目撃されて全ては動き始めた。
それがなかったら、今の二人はどうだっただろうかと意味のない事を考えているアムリタ。
「じゃあ、ちょっと渡してくるから。ここで待っていてね」
王女のポケットには今、アムリタがしたためて託した二通の手紙が入っている。
「急がなくていいわ。私も少し一人で考えたい事があるから」
飛び去っていくイクサリアを手を振って見送るアムリタ。
(……王女を使い走りにするなんて贅沢な話ね)
そう思いながら彼女は修練場の屋根に腰を下ろす。
……静かだ。
王宮内は明かりの灯っている部分もあるが人の活動している気配は感じ取れない。
こうしていると世界に自分一人になったような錯覚に陥る。
その静けさが今は心地よい。
「こんな所で月見たぁ……風流だねぇ」
「ッ!!!」
不意に男の声がしてアムリタがそちらを向いた。
月に照らされて立つ和服の老人。
……鳴江柳水。
その突然の登場に驚いてアムリタは言葉を失っている。
「よく頑張ったな」
「……え?」
突然老人に褒められて間抜けな声を出してしまうアムリタ。
「辛い旅を続けてきたな。だが、もうすぐその旅も終わる。終着点が見えてきただろう。お前さんが殺したいあの男の命まで……あと少しだ」
「……ッ」
冷たい汗が頬を伝う。
どこまで事情を知っているのか……どころではない。
今アムリタの姿でいる自分に、それを指摘するでもなくジェイドの時と同じように老人は話しかけてくる。
「あ、貴方は……どうして……」
慌てて立ち上がり真正面から老人と対峙する。
「どうしてそこまで知っているの!? 貴方は一体何者なの……!!!?」
「どうして、か……」
柳水は襟から右手を出すと自らの顎に添える。
「そりゃあ見てたからだな。俺はお前さんの事をずぅ~っと見てた。何から何までだ。お前さんがあのド阿呆に剣で刺されて死にかかった時は、そりゃぁムカッ腹が立ったもんだぜ」
「なッ……」
絶句する。
見ていた……?
自分がクライスに背後から心臓を刺し貫かれて死の淵を覗いたあの時の事を……?
「まぁ、だからって手は出さなかったがよ。俺にはお前さんが蘇ってきて必ず自分で奴に報復するだろうとわかってたからな」
「…………………………」
絶句してアムリタは立ち尽くしている。
そんな彼女の様子に老人は楽しげに口の端を上げる。
「何でそんな事がわかる、知ってる……ってぇツラだな。そこんとこも説明しとくが、タネを明かせばなんて事はねえ話だ。お前さんのその能力は全部俺から出たモンなんだよ。だから俺にはお前さんが何ができるかわかってるんだ」
老人はそう言って得意げに胸を反らす。
「……なぁ、俺の娘アムリタ」




