魔術師狩り
ベッドから立ち上がった褐色のエルフ。
呼吸を荒げた彼女の額には脂汗が浮かんでいる。
「なりません! 天神さま!!」
トリシューラを必死に押し留める従者のエルフたち。
「どきなさい……! アムリタが……アムリタが大変な事になっているのよ……!!」
熱っぽい吐息と共に苦し気に声を絞り出す征天戦神。
彼女は……呪詛に侵されている。
汚染された水を飲んでしまったのだ。
しかしまだ肉体に変化はない。
神とすら称される膨大な魔力で無理やり魂の変質を抑え込んでいるのだ。
今この広大な王都において、呪詛の水を飲んで獣に変じていない唯一人の存在……それがトリシューラだった。
「……うぅッ! ぐ……ぐぐッ……!!」
胸の辺りの装束を鷲掴みにして皺を作る天神。
彼女の消耗は深刻だ。
もう数時間もずっと全力疾走を続けているようなものだ。
一瞬たりとも気を抜けば呪いは自分の魂を変質させ、肉体は魔物に変わってしまうだろう。
そうなれば最強最悪の魔獣が誕生する。
王都は今度こそ壊滅し空前絶後の被害が出るだろう。
先の見えないトリシューラの苦悶に満ちた抵抗はまだ続いている。
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王都に夜明けが来た。
激動の一夜が明けて。
「……ん」
ベッドの上のアムリタが寝返りを打った。
下着姿の彼女。黒いドレスは乱雑に脱ぎ捨てられて長椅子の背もたれに引っ掛かっている。
ここは王都でも最上位のホテルの上階の客室だ。
暴れたアムリタとイクサリアは昨夜はここで眠る事にした。
無論、無断でだ。
現在このホテルは客も従業員も全員が逃げてしまって無人である。
「リュアンサ……」
「……………」
眠るアムリタが涙を流している。
イクサリアがそっとその涙を指先で拭った。
「羨ましいよ、姉様」
ぽつりとつぶやく王女。
「私が死んだら……キミは同じように嘆き悲しんでくれるのかな」
そう言って眠る最愛の女性の頬に手を触れ、寂し気に微笑むイクサリアであった。
……………。
目を覚ましたアムリタは昨晩の狂熱のようなものは幾分が鳴りを潜めており代わりに何事かを考え込んでいるような様子だった。
以前の彼女に戻るのだろうか? イクサリアはそう考えたがすぐに思い直すことになる。
彼女の髪は依然漆黒で、紅い瞳に宿る冷たい殺意もそのままだ。
「獣を狩るのはもう飽きたわ」
鏡台の前のアムリタが言う。
イクサリアは後ろから彼女の髪を撫で梳いている。
甲斐甲斐しく、まるで従者の様に。
以前の二人とは立場と役割が逆転してしまっている。
……そう、今のアムリタは女王だ。
憎悪と殺戮の世界を統べる黒色の女王様。
「では、誰を狙うのかな……?」
イクサリアが問うとアムリタは目を閉じて少しの間沈黙した。
自分はだれを殺すべきか?
この己の内を焼き続ける憎悪の炎を誰に向けるべきなのか。
「理想はリュアンサをあんな目に遭わせた奴だけど……」
しかしその犯人は判明していない。
アムリタは考える。
リュアンサは……殺された。
誰かに無慈悲に殺害されたのだ。
何故だ……?
怨恨でないのなら彼女の存在が邪魔だった者がいるのだ。
自分は彼女に呪詛により変質した者の分析とその対処法を考えてもらうように依頼していた。
そして……彼女は殺され、直後王都は呪詛によって変異してしまった者たちにより半壊してしまう。
これを偶然とは考えにくい。
リュアンサは呪詛を持ち出し王都の破壊を目論んだものたち、即ち『黄昏の会』によって殺害されたとみるべきではないか。
『黄昏の会』……メンバーの事は自分の頭の中に入っている。
大商会の会長、王都銀行の頭取、著名な舞台役者、油絵の巨匠……ほとんどが面識のない者たちだが互いに見知った者の名もあった。
「ギュスターヴは今どこにいるのかしら?」
「そういうかなと思って、昨日キミが眠ってから彼の屋敷を見てきたよ。残念ながら完全に焼け落ちてしまって何も残ってはいなかった」
首を横に振るイクサリア。
では現在彼は自宅以外の所に潜んでいるという事だ。
王都がこの様子では捜索も容易ではあるまい。
アムリタが忌々し気に舌打ちをする。
……………。
何か食べよう、という話になった。
何しろアムリタはもう何日も水しか口にしていない状態なのだ。
こんな状態の街で何か食べられるものが首尾よく見つかってくれればよいのだが……。
緩やかにカーブを描く赤絨毯の敷かれた広い階段を下りて二人はホテル一階のロビーにやってきた。
そこに……。
人影がある。自分たち以外の何者かがいる。
「……む」
灰色の長い髪の黒いローブの男と遭遇した。
舞台役者のように整った面相のシャープなイメージの色白の中年男。
「な……」
流石の漆黒の魔女も思わず絶句している。
無理もない。
探し求めていたはずの相手が突然目の前に現れたのだ。
『黒羊星』ギュスターヴ。
彼は灰色の帽子とコートの男……ロッカクを伴ってそこにいた。
「これは……とんだ再会だな」
静かな低い声で淡々と口にするギュスターヴ。
相変わらず感情というものが希薄な男だ。
このホテルの地下で黄昏の会は集まっていたのである。
そこでメンバーを毒殺した彼は酒を飲んでいたこともあって夜の内に拠点に引き上げようとはせず、ここの客室で一夜を明かした。
つまり、昨晩アムリタたちとギュスターヴは同じホテルで眠っていたという事だ。
「横着をするとやはりロクな事にはならないな」
無表情なギュスターヴ。
そうして黒羊星の男はロッカクを見た。
「侵入者に警戒はしていなかったのか?」
「申し訳ございません。地上階からの出入りには目を光らせていたんですが……」
肩をすくめるロッカク。
昨晩アムリタたちは飛んできて上階の窓から侵入している。
その為この男は二人を捕捉できなかったのだ。
「ギュスターヴ……」
カツン、とヒールを鳴らしてアムリタが一歩前に進み出た。
その手に闇が集まって漆黒の大鎌になる。
赤い瞳を細めてギュスターヴを見る黒い楽園星。
「リュアンサを殺したのは貴方……?」
その声にはもう抑えきれない殺意が滲んでいる。
空気がぴりぴりと震えているかのようだ。
「……………」
しかし灰色の髪の男に怯んだ様子はない。
無感情な静かな眼差しで彼は眼前の憎悪の魔女を見ている。
「直接手を下したわけではないが……命じたのは私だ」
「……ッ!!!!」
あっさりと……それを認める黒衣の男。
周囲の全てのガラスが鳴り始める。
アムリタが噴きあげた膨大な魔力は巨大なホテルの建物を鳴動させている。
「こっ……これは……!!」
ものに動じないロッカクも流石に頬を引き攣らせて冷や汗を流している。
「面倒な事になったかと思ったが、考えてみればこれは好機であるかもしれないな」
だというのにギュスターヴは相変わらず冷静そのものだ。
「……相手になろう、アムリタ・アトカーシア。天より墜ちた楽園の星よ」
アムリタのように魔力を噴き上げるでもなく彼は自然体でそこに立っている。
(……戦うつもりなのか? 今のアムリタと?)
怪訝そうなイクサリア。
ギュスターヴの事は十二星に選ばれるずっと前から知っている。
戦闘に長けた魔術師というわけでも武術の達人というわけでもないはずだ。
ただひたすらに勤勉実直な役人にして貴族……それが彼であったはず。
「魔力は……万能の力だ。高めて使いこなせばあらゆる役割をこなす。攻撃手段となり防御手段となる」
「……バラバラになりなさいッッ!!! ギュスターヴッッッッ!!!!!」
怒号と共に爆風が駆け巡る。
フロアの窓ガラスが全て内側から吹き飛んだ。
黒い暴風と化してギュスターヴに襲い掛かったアムリタ。
縦横無尽に大鎌は舞い踊り、一秒に満たない時間で彼は無数の肉片に刻まれて無残に周囲に散らばる……イクサリアがそのシーンを幻視する。
「だが、分析し理解し、対策を講じればこの通りだ」
「…………」
茫然としているアムリタ。
彼女の突進はギュスターヴに片手で止められてしまった。
いや、正しくは彼が持ち上げた手はアムリタに触れてもいない。
その1mほど手前でアムリタは突進のエネルギーを全て失って停止してしまったのだ。
手に握られていたはずの黒い大きな鎌も消えてなくなってしまっている。
体の内側から湧き出て自分を満たしていた膨大なエネルギーが……ない。
「『麻痺』」
彼女に向けて持ち上げていた右手の指をパチンと鳴らすギュスターヴ。
(麻痺の魔術……!? そんなものが私たちに効くはずが)
眉を顰めるイクサリア。
高濃度の魔力はそのまま自分に対して不具合をもたらそうとする魔術に対する抵抗力になる。
強大な魔力を持つアムリタに状態異常系の魔力など通じるはずが……。
「私の麻痺は魔力が強いものにほど効果を表す」
「…………」
茫然とした表情のままアムリタがぐらりと傾いてそのまま床に倒れた。
そして絨毯の上で彼女は体を痙攣させている。
麻痺が効いてしまっているのだ。
「……!!!」
飛び出すイクサリア。
速度だけで言えば彼女は今のアムリタよりも速い。
しかし……。
やはりギュスターヴに接近するとイクサリアの纏った風は霧散し彼女は空中で静止し、やむを得ずに床に下りる。
「A・M・F……私を中心とした一定の範囲内へ足を踏み入れれば、それが高い魔力を持つ者であればあるほど強力な魔力の消去効果が発生します」
「…………」
無言で奥歯を嚙むイクサリア。
なんという事だ。この男は自分たちの天敵だ。
能力が高位の魔術師を無効化する事に特化している。
勝てない……。
自分やアムリタの攻撃手段はほぼ全て魔力による増幅効果を受けている。
それを無効化されれば戦闘力は激減する。
再び指を鳴らすギュスターヴ。
イクサリアも抵抗できずに全身を麻痺させその場に倒れた。
「彼女たちは拠点へと連れて帰る」
「……この場で始末しておくべきでは?」
ロッカクが眉を顰めるが黒衣の男は静かに首を横に振った。
「気になることがある。魔物が予定の通りに増殖していない」
自分たちの計画では呪詛に汚染された水を飲んで魔物化する者は増え続けて三日もあればこの都は魔物と死骸しかいない有様に成り果てるはずであった。
それが一晩を経過して魔物の増殖は収まってしまったかのように見えるのだ。
勿論それは十二星たちの奮闘の成果でもあるだろう。
「もっと根源の部分で誰かの妨害を受けている気がしてならないのだ。彼女たちを捕らえればその相手を炙り出せるかもしれない。……お前はギュスターヴ・デュ・バエルが楽園星と王女を捕らえたという情報を街へ流せ」
黒羊星が命じるとロッカクは薄笑みを口元に浮かべて恭しく頭を下げるのであった。




