失楽の星
六百年以上の歴史を持つ美しい王宮も今やあちこちが破壊され燻る火が黒煙を上げ続け無残な姿を晒していた。
今も人にも獣にも魔物にも似た異形のものどもが周囲を闊歩している。
そんな中、ロードフェルド王は家族や重鎮たちと共に僅かな兵士たちに守られ大聖堂に避難していた。
「まさか今になって実戦で剣を取ることになろうとはな」
愛剣の返り血を拭って刃の状態を確かめているロードフェルド。
かつて王国でも屈指の剣士であった王。
さすがにその腕は衰えてはしまっているものの、まだ魔物に後れを取るようなことはない。
ここまでの道中でも彼は先頭に立ち何匹もの魔獣人を斬り捨てている。
その時、大聖堂の大扉を外からドンドンと叩く大きな音が響き渡り非戦闘員たちが小さく悲鳴を上げて身を縮めた。
「ご無事ですかッ!! 王様ッッ!! 『棘茨星』が馳せ参じましてございます!!」
「おお、ガブリエルか!」
王が扉を開けさせるとガブリエル・ユーベルバーグが部下を率いて大聖堂に入ってくる。
大きな戦闘用ハンマーを肩に担いでいる筋肉自慢の十二星は無傷ではないが大きな傷は負っていないようだ。
「来てくれたか、ガブリエル。すまんな、お前にも家族がいるというのに……」
「まず何より王をお守りする事こそ先決でございます! 家人は信用できるものたちに任せてありますのでどうかお気になさらずッ!!」
ムン、と右手に力瘤を作ってキラリと白い歯を見せて笑うガブリエル。
……………。
「そうか、水か……」
ガブリエルの報告を聞いた王は深刻な表情で眉間に皴を刻んでいる。
「はい。恐らくは水源地が汚染されてしまっているらしく……水道を使ったものはほぼ例外なく怪物に」
普段は快活なガブリエルもこの時ばかりは沈痛な表情である。
異変は水道から水を飲んだ者たちから始まった。
彼らは魔物に姿を変えて無差別に人を襲い始めたのである。
王都は上下水道の整備が進み今では七割の者が水道から生活水を得ているのだ。
「井戸は汚染されている場所とそうでない場所があるようですな。王宮の井戸は比較的汚染されていないものがまだ多く……安全が確認できた井戸には護衛を配置してありますッ!」
ガブリエルの有能さに感心しつつも王は背筋を這い上ってくるような寒気を感じずにはいられなかった。
ここへ逃げ込んでくる途中に自分たちは井戸の水を気にせず飲んでしまっていたのだ。
たまたま運が良かったというだけで魔物に変じていた可能性もあったという事である。
イクサリアたちはこれを呪いであると……呪詛によるものと言っていた。
何者かが……水源地や井戸を呪いで汚染したという事か。
これも例の黄昏の会とやらの仕業なのか。
偶然というには時期が合致し過ぎている。
「ともかく、これ以上魔物を増やすわけにはいかん。早急に人を手配し水道を使うなとふれ回る必要がある。後は汚染されていない井戸の確認と確保もだ!」
命じながらも王は考える。
この混乱の中で果たしてどれだけの者にこの注意が伝わるのだろうか。
生きるために水は不可欠なものだ。
安全な水を提供できなければ今現在魔物になっていない者たちも変化するか脱水で死ぬかの二択になってしまうのだ。
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アトカーシア家の部隊『誓約剣士隊』は幸いにも災厄の初期のころから水の危険性に気付くことができた。
隊内から数人の変異者を出してしまったものの、彼らの犠牲と引き換えに変異のトリガーが水道水である事を看破できたのである。
素早く行動し安全な井戸をいくつか確保した後、シオンたちは周辺でまだ無事な者がいないか捜索しつつ水を飲まないように注意喚起をして回っている。
(水に混ざっているのが例の薬と同じものなら効果が切れれば人に戻るはずなんだけど……)
そう考えるシオンであるが水道水が汚染されている以上新たに水を飲めば呪いは蓄積していってしまうだろう。魔物であろうと水は飲む。
無力化して呪詛が自然消滅するのを待ってあげたいのだが、今回の魔物はこれまでのものと比べ大分強力になっているのだ。
自分ならともかく隊士たちに手加減を命じられるレベルではない。
これまでの魔獣人は相手一体に対しこちらは二人で当たる二対一を徹底していた。
だが今の魔獣人はもうそれでも対処しきれる保証がない。
三対一を隊士には命じている。
まずはこちらが生き延びなければ話にならない。
向かってくるなら斬り捨てるしかない。
(汚染されてない井戸はいくつ残っているの? それを全部確保できたとして無事な人たちの分の飲み水に間に合うの?)
胸中に生じた焦りがじりじりと広がっていく。
誰かに指示を仰ぎたいがアムリタは倒れてしまっている。
自分が……やるしかないのだ。
「……!!」
曲がり角を曲がったシオン。
彼女は表情をこわばらせて絶句した。
視界の数十m先に魔獣人の群れがいるのだ。
これほどの数の集団にはこれまで遭遇したことがない。
ざっと見て二十体近くいる。
対するこちらは……自分を含め五人。
「私が時間を稼ぐから増援を呼んできて……!」
剣を抜き放ちながらシオンが部下に命じる。
「総隊長……しかし……!」
「時間がないの! 急ぎなさい!!」
独りで残るしかなかった。
自分以外に誰かを残せば自分はどうにかなったとしても一緒に残った隊士は死なせることになるだろう。
言いたいことを飲み込んで歯を食いしばりながら隊士たちが走っていく。
(これでいい。後は少しでも応援が来るまでに数を減らして……)
瞳に決意の光を宿し、剣を構えて魔物の群れにシオンが突っ込んでいこうとしたその時……。
「お仕事頑張っているわね。……偉いわよ、シオン」
急に聞きなれた優しい声が耳に届いて……。
死を呼ぶ黒い風が吹いた。
「………………」
一瞬のことだった。
まだシオンは目の前で何が起こったのかを把握できていない。
距離があったはずの魔物たちと自分。
それなのに自分の足元にまで血が飛び散っていて肉片が転がっている。
黒い暴風が吹いてきて自分は顔を腕で防御するように覆って。
その腕をどかして前を見た。
ほんの、数秒間のことだ。
その間に魔物の群れはいなくなっていた。
いや、正しくは細切れになって周囲に散らばっていた。
「……ふふっ、手応えがなさすぎるわね。欠伸が出そう」
虚空に裾の広がった黒いドレスの女性が浮いている。
漆黒の髪の……紅い瞳の。
変わり果ててしまった姿の自分のこの世で一番大切なひと。
その手には鮮血の滴る巨大な黒い鎌を持ち、黒い魔女は月をバックに空にいた。
「師匠……」
呆然と呟く自分に黒いアムリタが優しく微笑みかけてくる。
「どう? シオン。生まれ変わった新しい私は。イクサは綺麗だって言ってくれたの。貴女もわかってくれるかしら?」
そこに地面に広がる血の海を器用に避けてひらりと舞い降りるイクサリア。
「イクサリア様! これは……」
「やあ、シオン。アムリタが夜のお散歩に行きたいと言うのでね。私は付き添いさ」
そう言ってイクサリアは涼やかに微笑んだ。
……ああ、この人は。
絶望的な気分でシオンがよろめく。
あまりにも変わり果ててしまったアムリタに、あまりにもいつも通りのイクサリア。
そうだ、この王女はこうなのだ。
何があろうが絶対にアムリタのブレーキになどなるはずがない。
彼女が望むことが人助けであろうと殺戮であろうと全肯定で彼女の側にいる……それがイクサリアなのだ。
じわっとシオンの目に涙が滲んだ。
幸いにしてその強大で凶暴な力を自分たちに向けてきてはいないが、今のアムリタは殺すために殺している。
殺したくて殺している。
誰かを助けるためでもなくこの危難を切り抜けるためでもなく……ただ殺すことが彼女の今の目的。
それがわかってしまって、シオンは涙した。
「あははは!! どうして泣くの? おかしいわ、シオン」
我慢できない、というように上空のアムリタがお腹を押さえて笑っている。
そんな彼女に地上のイクサリアが小さく嘆息しつつ肩をすくめた。
「急にキミが来て大暴れするものだからビックリさせてしまったんじゃないかな?」
「……ああ、そうね。言われてみればそうだわ。少々はしたなかったわね」
笑いすぎて出た涙を指先で拭って真顔で納得したようにうなずいているアムリタ。
そして彼女は舞い降りてくる。
イクサリアと違って血の中に足を下すことを躊躇いもせずに。
黒いエナメルのヒールがビチャッと嫌な音を立てて踏んだ血を飛び散らせた。
「大体が私、この子の獲物を横取りしてしまったのね。それは気分がよくないでしょう。ごめんなさいね、シオン」
スカートを摘まんで上品に頭を下げるアムリタ。
そうじゃないんです。
そんな事じゃないんです。
優しかった貴女に戻ってください。
そう言いたかった。
泣きながら叫びたかった。
……だけど、できなかった。
自分がそれを口にして、もしも彼女がそれを拒絶したら……。
それだけではない。
自分を理解しないものを不要としてあの鎌を自分に向けてきたら。
耐えられない。
自分の心はきっと耐えられずに壊れてしまう。
殺されるかもしれないなんてことはまったく問題じゃない。
この人に拒絶されたらもう……自分はこの世界に生きていく場所はないのだから。
「……河岸を変えよう、アムリタ。ここでは彼女の邪魔になってしまうよ」
その時王女の発したその言葉は黙ってしまった自分に対する助け舟だったのだろうか……?
「そうしましょうか。……はぁっ、殺しても殺しても満たされないわね。リュアンサが……リュアンサ……」
ガクンと一度大きく震えてアムリタが前のめりになって顔面を手で押さえる。
「……そうよ、きっとリュアンサが寂しいって、まだまだ足りないって言っているんだわ。待っててね、リュアンサ。……私、もっともっと殺すから」
顔に当てた手の……その指の間からぼろぼろと涙が零れ落ちる。
アムリタが泣いている。
震えながら泣いているアムリタの肩をイクサリアが無言でやさしく抱いた。
そして二人のつま先は地を離れる。
黒い魔女と風の王女は月の輝く夜空へと飛び去って行くのだった。
飛び去る二人を茫然と見送り、その場にがっくりと両膝を突くシオンであった。




