戦神来訪
クリストファーが店主を務める『ラーメン緑』は賑やかな通りからは一本入った所にある小さな店だ。
それでも連日夕食時から閉店時間の22時まではほぼ満員であり店の外に置かれた席待ち用の長椅子に誰かが座っている事も珍しくない。
……そうして、今日も常連が一人出された丼を前に目を輝かせて割り箸を割る。
「週末のこの大盛りネギチャーシューが私のささやかな幸福だよ」
そう言って麺を啜るブロンドに眼鏡の30台前後くらいの見た目の男……アークライト・カトラーシャ。
かつて事件を起こして王国の中枢を追われた彼は今は平民たちの通う学校の教師をしている。
自分の言葉の通りに週に一度は店に顔を出すこの男。
クリストファーからすればかつての共犯者でもあり、自分が刃物で刺して瀕死にした事もある……そんな物騒な間柄の男のはずなのだが……。
そんな事などまるでなかったかのようにずっと過去からの友人の如く振舞うこの男。
ラーメンの丼を綺麗にカラにした後で麦酒を頼んでカパカパ飲んでいるアークライト。
彼の顔はどんどん赤くなり呂律は怪しくなっていく。
「……飲みすぎだぞ」
カウンターから一応注意はしておくクリストファー。
「なぁに! こんな程度はまだ何でもないさ。私はこう見えても結構アルコールには強いんだよ」
そう言ってゆらゆらと身体を揺らしながら笑っているアークライトであったが……。
……………。
閉店後、結局クリストファーは一人では歩けなくなったアークライトに肩を貸して彼の住居まで連れて帰る事になってしまった。
住所を知っていたのが運の尽きか。
「私はなぁ……嬉しいんだよぉ。あの、あのクリストファーがな……あんなに立派な店を持って、美味いラーメンを作ってるなんてなぁ。急に社会に放り出されて……上手くやっていけるのかと、どれだけ……心配したか……」
「……………」
ぶつぶつと呟いているアークライト。
肩を貸しているので彼の顔は耳のすぐ近くだ。やかましくてしょうがない。
赤い髪の男がそんな酔っ払いを横目でチラリと見てから小さく嘆息する。
……こんなラーメン屋で正体を無くすまで泥酔しているような男がよくもこの大国をひっくり返そうとするような陰謀を企んだものだ。
まあそんな悪事も後に彼は「自分には向いていなかった」と自嘲している。
確かに本当に冷酷な野心家だったら自分を裏切って殺しかけた男の店に足繁く通いはしないだろう。
きっとこちらの方が……このお人好しな男が本来の彼の姿なのだ。
そんな彼らが一本裏の路地に入ると……。
唐突に鼻腔を刺激する嗅ぎなれた錆びた鉄のような匂い。
そこには強い血と死の気配が漂っていた。
「今日はとことん厄日だな」
クリストファーが無感情に呟く。
倒れている二人の男。いずれも全うな稼業の者とは思えない格好の男だ。
どちらも血に塗れて動かない。
息はしているのか、していないのか。
そしてその倒れた男を前に佇んでいるのは猫背の巨躯……獣毛に覆われた人型の魔物。
胴体は哺乳類の動物っぽいのに頭部は魚類だ。
カマスのように目が大きめで鋭く尖った形状の頭をしている。
そして大きな両手に並ぶ鋭い爪はまだ乾いていない血で濡れていた。
その魚の頭の合成獣人がクリストファーたちの方を向く。
無機質な魚類の目には感情は窺えないが……。
「こちらに構うな。こちらもお前に構う気はない」
静かに告げるクリストファー。
だが獣人は一歩彼らに向かって踏み出した。
殺意の風が吹く。
アークライトに肩を貸したままのクリストファーの表情は動かない。
魔物が踏み込む。
常人では目で追うことのできない死の旋風と化して襲い掛かってくる魔獣人。
豪腕の一撃をアークライトごと身を屈めてクリストファーが交わす。
「なんだぁ……? 今日は、風がぁ……強いな」
攻撃の生み出した風に髪が靡いたアークライトが暢気にそんな事を言っている。
交わしながらすれ違って……。
そして再び身を起こしてクリストファーは去っていく。
アークライトに肩を貸したまま、魔獣人に背を向けてそれ以上それを気にする様子も無く。
魔獣人は攻撃を終えた姿勢のまま固まっていたが、やがてぐらりとその身を傾かせてそのまま倒れた。
……意識がない。
クリストファーは回避してすれ違いざまに空いている方の手で魔獣人の顎を横殴りにしていた。
常人が目で追えない速度で攻撃してきた相手が更に目で追えない高速の一撃だった。
顎を打たれ魔獣人の頭蓋の中で脳が激しく揺さぶられたのだ。
意識を飛ばしている魔物の男は自分が何をされたのかもわからなかった事だろう。
路地から出たクリストファーはそこにいた数人の通行人に声を掛ける。
「この先で誰かが血を流して倒れている。治安隊を呼んでくれ」
慌てて詰め所に走っていく男の姿を確認してから自分は立ち去るクリストファーであった。
……………。
「そんなワケでして。いやぁ、本当に強くなったもんっスねえ。あちきももう人形を使わないと彼には勝てないっスね」
一夜が明けて。
昨日の路地裏での一戦の様子をアムリタに報告しているマコト。
クリストファーが魔獣人を倒した一件を彼女は一部始終見ていたのだった。
ちなみにクリストファーとマコトは一時アークライトの配下として共闘していた時期がある同僚である。
クリストファーはマコトが女性である事すら知らないが。
……と、その報告を何故か自慢げに腕組みをして聞いているアムリタだ。
「何でご主人がそんなに得意げなんスか?」
「え、だって嬉しいじゃない。私のクリスがそんなに強くなっていただなんて」
若干興奮気味で鼻息が荒いアムリタである。
勝手にクリストファーを自分のものにしている。
「殺されてた二人は『鬼侠連』系の二次団体の構成員っスね。いつもの抗争絡みっス」
アムリタが壊滅させたメルキース・ファミリーの縄張りを巡って抗争中の二つのマフィア組織。
その片方が鬼侠連だ。
双方で薬を使って魔獣化した構成員で殺し合っているというわけだ。
「馬鹿らしい……。自分たちが薬の売人の掌の上で転がされているんだっていう自覚はないのかしら?」
「いい加減気付いてはいるんでしょうけど、今更後戻りできないんじゃないスかねえ? これで自分らだけが薬の仕入れを止めれば一方的にやられるだけですし、機嫌を損ねるわけにもいかないから相手には売るなとも言えないっスからね」
アムリタが呆れ顔で肩をすくめている。
そんな彼女に同意するマコトだ。
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ある日のこと、突然数人のエルフがアムリタの屋敷を訪ねてきた。
全員アムリタとは顔馴染みである帝国の褐色の肌の女性のエルフだ。
「……えっ!!? もういらしているの!!!??」
応接間に通した帝国のエルフ。
彼女たちの話を聞いて驚いて席を立つアムリタ。
「はい。もうこの都に入られております。私たちは星神様に一足先にご挨拶差し上げるようにと……」
「大変、すぐお迎えに行かなきゃ……!!」
慌しく外出の準備を始めるアムリタ。
彼女たちの話によれば、既に彼女たちの主人がこの王都に到着しているのだという。
……………。
探し人が街のどこにいるのかはすぐにわかった。
平日なのにまるで祝祭のパレードでもあるのかと思うような人ごみが街の中に出来上がっている。
「……エルフ? エルフだっていうのか?」
「まさか、ありゃ御伽噺の中の種族だろ?」
ざわざわしている見物客の中を泳ぐようにして進むアムリタ。
十二星であると名乗って人を退かしてもいいが、事故になりかねないのでこの人ごみをこれ以上混乱させるのは避けたい。
……彼女はこの都でも一番大きく、そして高級な洋品店の前にいた。
遠くから見ても彼女だけはすぐにわかる。
それほどの美貌、それほどのオーラだ。
店から次々にエルフの従者たちによって運び出されている箱が通りに山を作っている。
どうやらこの店で買い物をしたらしい。
ウィリアムには相当の現金を預けたが、それでもこれほどの店でこの量の買い物ができる程ではないはずなのだが……。
自分が支払いを引き受けるべきか? とアムリタが足を早める。
「天神様、衆目を集めてしまっております」
「構わないわ。美しい容姿を持って生まれてしまった者の宿命よ」
恭しく自分に頭を下げる従者に対して、そう言って彼女は……征天戦神トリシューラは優雅に長い黒髪を背に掻き流す。
「トリシューラさまッッ!!」
「!! アムリタ……!!」
自分の名を呼びながら駆け寄ってきたアムリタをトリシューラが抱きしめる。
二人の美女の熱い抱擁に周囲の人ごみから「おおっ」という歓声が上がった。
……………。
人払いをして、周囲はようやくいつもの風景を取り戻す。
トリシューラが買い物をした荷物はアムリタが車を手配して一先ず屋敷へと運ばせた。
ちなみに買い物の代金は彼女が帝国から持ってきた貴金属類を王都に入ってから換金したのだそうだ。
彼女一人で都の貴金属相場をおかしくしてしまいそうな量をである。
「トリシューラさまが来て下さったのですね」
「当たり前でしょう。貴女の国へ赴くのに私以外に相応しいエルフがいると思うの?」
いつものように自信に満ち溢れている天の神。
数ヶ月ぶりに会う彼女は相変わらず力強く尊大で……そしてまさしく女神のように美しい。
しかし、他の二人もかなり王国行きには強い執着を持っているように見えたが……。
よく闘神と雷神の二人の戦神を抑えて波風を立てずにトリシューラは自分の王国行きを納得させたものだとアムリタは感心していた。
「私を行かせないのなら私は神将を辞めて個人で行くと言ってやったのよ。同じだけの覚悟があるのかと問うてやったら男どもは退いたわ」
……波風を立てないどころではない。
天変地異のような事を言い出してごり押ししてきたトリシューラであった。
「それにしても面白いわね、貴女の国は。走竜に引かせなくても勝手に地面を走る車には驚かされたわ」
「前に私がいた頃にはほとんど見られない乗り物だったんですけどね。いなかった五年の間に一気に広まったみたいで……。その車を待たせてありますから、それで私の屋敷へご案内しますね」
差し出した手をトリシューラが取る。
手を繋いで通りを歩くアムリタとトリシューラ。
掌にしっかりと伝わる彼女の温もり。
帝国にいた五年間ずっと自分を支えてくれた暖かさ。
それが懐かしくて嬉しくて……思わず歩きながらトリシューラを振り返って相好を崩すアムリタであった。




