ラーメン緑
……ゴン!!
「あいッたぁぁ~っ!!!」
「おい! 運転中に急に立ち上がるな!! 危ないだろう!!」
突然助手席で立ち上がり天井に頭をぶつけたアムリタ。
それほどに彼女にとってレオルリッドの言葉は衝撃的だったのだ。
「けっ!! 結婚!! ウェディング!! ハネムーンベイビーだっていうの!!??」
「子供はまだだぞ!!!??」
あまりのアムリタの取り乱しっぷりにレオルリッドも動揺したのか若干運転が怪しくなってきた。
『白狼星』ブリッツフォーン家のミハイル……アムリタにとっては大事な友人の一人。
彼が自分が不在の間に妻を娶っていたという。
そして彼もまた、トリシューラによればアムリタに好意を寄せている異性の一人であったはず……。
「……………」
ぼすん、と音を立てて座席に座るアムリタ。
(でも、考えてみたら当然か。ミハイルが前に私の事を好きだったとしても、別にその気持ちがずっと変わらないなんて保証はないのだし。五年も経っているんですからね)
ようやく少し冷静になってきたアムリタ。
……そうだ。永遠の気持ちなどないのだ。
そう言うと虚しい事のように聞こえるが、変わっていくと言うのは悪い事ばかりではない。
自分に自分の人生があるように、友人たちにはそれぞれ彼らの人生というものがある。
自分と結ばれる事以外にもいくらでも幸せの形はあるのだ。
そう考えると何だか気が楽になった。
「そっか……ミハイルがね。きっと奥様は素敵な人なのでしょうね」
「家の紹介で会った二等星の家の令嬢だ。気立ての良さそうな美しい人だったぞ」
レオルリッドの言葉に満足げに肯いているアムリタ。
自分に恋心を持っている相手に、その気持ちに応える気がないのに仲良くしてはいけないのか?
答えは否だ。
例えそうであったとしても自分にとって彼が親友である事に変わりはない。
彼の気持ちが冷めて自分から離れていったとしてもそれは変わらない。
「結婚かぁ。私には縁のない話だから少しだけ羨ましい気がするわね」
「何故、そんな事を言う。お前だって望めばいくらでも……」
眉を顰めて自分を見るレオルリッドにアムリタが少しほろ苦く笑う。
「私、歳を取らないのよ。……変わっていないでしょう? 五年前と。百年先もきっとこのままよ」
「……………」
今の自分を示すように手を振るアムリタに言葉を失うレオルリッド。
それから少しの間、彼は黙ったままハンドルを握っていた。
やがて、レオルリッドの車が目的地らしき場所に到着し彼はエンジンを止める。
「付いたぞ、この店だ」
賑やかな繁華街からは一本入った路地だ。
てっきり大通りの華やかな店に案内されるものと思っていたアムリタは少し意外な気がした。
そこには暖簾の掛かった木造のこじんまりとした店があった。
暖簾には「ラーメン緑」という店名が記されている。
「ラーメン……屋さん?」
「そうだ。嫌いではないだろう?」
呆気に取られている様子のアムリタにレオルリッドがニヤリと笑った。
……………。
ラーメンは和食に比べればずっと早くに王国に定着していた東方の料理である。
調理に複雑な手順はいらない事から比較的参入が楽で、一時期は多くのラーメン屋ができて、そしてまた潰れていった。
今では庶民の好む些かジャンクなメニューとしての地位を確立して広く知れ渡っている。
正直言って一等星のレオルリッドが異性を誘ってくる店としてはかなり意外なチョイスであった。
(五年の間に庶民派になったのかしら……?)
等と考えながらアムリタはレオルリッドと一緒に暖簾をくぐって店に入る。
中はお世辞にもお洒落とは言えないがそれでも小奇麗でイメージ通りと言うか……ありふれた内装のラーメン屋だ。
「今日の所は俺のおススメを食っておけ」
彼がそう言うので注文は任せる。
頼んだものはオーソドックスな醤油ラーメンと餃子が一皿。
これもまたえらく庶民的なチョイス。
「ラーメンと言えば醤油だろう。新しい店に来たらまず醤油ラーメンを食ってみないとな」
(……なんかもう庶民的を通り越してオッサンくさい!!!)
失礼な事を思ったが口には出さないアムリタである。
やがて運ばれて来た丼。
茶褐色に透き通ったスープに黄金色の麵が湯気を立てている。
「……美味しいね」
麺を啜ってみて思わず口に出したアムリタにレオルリッドは「そうだろう」とでも言うように口の端を上げた。
確かにわざわざ連れてくるだけの事はある。
あまりにもメジャーな庶民のメニューとなってしまったラーメンには「こんなものだろう」という味の先入観を持ってしまっていたアムリタ。
だがこの店のラーメンはそんな彼女の予想のずっと上を行く味であった。
あっさりとしていながら奥深いコクのあるスープに、それがよく絡むちぢれ中麺。
五年前は箸の扱いに四苦八苦していたレオルリッドだが、今ラーメンを食べている彼の箸捌きはもうすっかり手慣れたものだ。
自分でラーメン屋に連れてきておいて箸の扱いが覚束ないのでは格好も付かないだろうが。
「これは……リピーターになるわ。今度はアイラたちも連れてきましょう」
「店主にも言ってやれ。喜ぶぞ」
レオルリッドにそう言われてアムリタが顔を上げるといつの間にかテーブルのすぐ脇に店のスタッフらしき男が立っていた。
見た事のない若い男だ。
体格のいい赤い髪の男。身に纏った黒い拳法着の上からでもその下の鍛え上げた肉体が窺える。
精悍でそれでいて物静かな顔立ち。
「……久しぶりだ、アムリタ」
物静かな低い声にも聞き覚えが……ない?
「え? あ、あの……その……」
久しぶりだと言われても相手に見覚えのないアムリタが狼狽えてしまう。
そんな彼女を見て軽く笑ったレオルリッドが助け舟を出してくれる。
「クリストファーだ。ヴォイド家にいた彼だ」
「……!!!??」
今度こそアムリタは食べているラーメンが井の中ででんぐり返るような衝撃を受けた。
「く、クリス……? いえ、だって……」
別人である。どう見ても。
何もかもが違う。骨格からして別人なのではないかと思うほどの。
クリストファー・ヴォイド。
ヴォイド家に引き取られて暗殺者として育てられていた孤児の男。
アークライト一派の陰謀に加担していた彼であったが、最後はアムリタを襲えと言う命令を拒否してアークライトを刺した。
そして……全てが終わった後、一緒に暮らそうと言う自分の誘いを断って生きていく事を選んだ彼。
アムリタの知るクリストファーとは……。
身長160台前半の自分とほぼ同じ背の高さで、黒髪で華奢であり陰気な雰囲気を纏っておどおどしており……。
それが目の前のこの男はどう考えても身長は180台後半。
紅いセミロングの髪を襟足で束ねていて顔立ちも大人びていて精悍で。
そして筋肉質で……。
記憶の中のクリストファーとはまるで正反対の外見だ。
「数年で見る見るうちにデカくなったからな……この男は。見違えるのも無理はない」
レオルリッドも苦笑している。
「身長は……この五年で25cmくらい伸びたと思う」
クリストファーがそう言って肯く。
「か、髪の毛の色は? 染めたの……?」
自分の頭を指差して言うアムリタ。
「いや、染めていたのは黒かった時だ。暗殺者に赤い髪は目立つと言われて黒くしていた。こっちが地毛だ」
そう言ってクリストファーは自分の赤い髪に指先で触れた。
何故、レオルリッドとクリストファーに繋がりがあったのか。
それは五年前にレオルリッドがロードフェルドから受けたヴォイド家の残党掃討の命に端を発している。
彼はヴォイド家を滅ぼし、生き残った孤児たちを自分の養子として引き取った。
その中にはクリストファーは含まれていないが、彼もまたヴォイド家によって人生を歪められてしまった一人として気に掛けてきたのだという。
「レオには世話になった。師範を紹介してくれたのもレオだ」
師範……緑大人。
東方から来た拳法家でありラーメン屋でもある。
レオルリッドはこの東洋の老人にクリストファーを紹介して預けた。
クリストファーはこの五年間、彼の下で拳法を学びラーメン屋としての修行を積んできた。
「師範の養子にしてもらって先日暖簾分けしてもらったばかりだ。だから今の俺はクリストファー・緑という名になっている」
僕から俺に……一人称も変わっているクリストファー。
あの五年前の人目を避ける様に猫背で歩いていた彼はもうどこにもいない。
一通り説明を聞いてアムリタは大きく息を吐く。
「何だかビックリし過ぎて途中から味がわからなかったわ。餃子をもう一皿お願いできる?」
お代わりを注文するとクリストファーはわかったと肯いて厨房へ消えていった。
あまり表情がない所だけは五年前のままか。
「二人に繋がりがあったという事にも驚いたわ」
「ヴォイドの家の事は……その後始末は俺の使命だ。あの家が残した傷跡は消す。不幸になった者がいるなら手を差し伸べる。幸いにしてあの日に連れて帰って引き取った三人の子供たちも順調に成長している」
そう語るエールヴェルツの若獅子の顔は自分の知るそれよりもずっと大人びて見えた。
この五年間は彼にとっては単なる時間の経過以上の成長をもたらすものであったらしい。
そうだ……見た目はそれほど変わっていなくても彼もまた五年前とは別人なのだ。
十二星の当主となるに相応しい、三聖の跡継ぎとして立派に成長しているのだ。
アムリタはその事を素直に喜ぶ。そして、ほんの少しだけ寂しく思った。
自分は彼らに比べてこの五年間でどう変わっただろうか?
色々とダイナミックな目に遭ってはいるものの、成長したとは自分ではあまり思えない。
もしかして自分は見た目同様に中身も五年間で何も変われていないのではないか……と、そう思ってしまうのだ。
「は~……なんだかセンチメンタルになってしまうわね」
「それはいいんだが、お前……滅茶苦茶食うな」
クリストファーがお代わりに持ってきてくれた餃子は大皿で40個並んでいた。
それをため息を付きつつポイポイ口に放り込んでいくアムリタに思わず真顔になるレオルリッドであった。




