悪魔の薬
夜になった。
アムリタは屋敷に戻ったマコトから報告を受けている。
今日はこの糸目メイドは自ら希望して王都南部エリアに出向いて誓約剣士隊の活動に参加していたのだ。
警邏に加わったり捜査資料を閲覧するなどしていたらしい。
「……薬?」
「ええ。どうも裏社会を中心に出回ってるみたいっスね。ご主人、覚えてます? 五年前にご主人が倒した猫チャンの事」
肯くアムリタ。
魔物に変じて恋人の復讐を敢行した悲劇の女性ラウレッタの事は鮮明に覚えている。
その彼女が変容したのが猫に似て猫ではない異形の獣人であった。
マコトの説明によれば、誰かがラウレッタにその魔物に変化する能力を得ることのできる薬を与えたらしい。
彼女はその薬の効果で魔物と化していた。何者かに復讐心を利用され実験体にされたのだ。
「薬の効果だったのね、あれは……。てっきりブチ切れ過ぎてあんなんなっちゃったのかと」
「ナイナイ。人類を何だと思ってるんスか」
マコトが苦笑している。
「でも私ブチ切れ過ぎて男になっちゃったしなぁ……」
コーヒーを飲んでフーッと一息付いているアムリタ。
ちなみに彼女は純粋に魔術によって性別を変えたのであり、別にブチ切れてそうなったわけではない。
「もうちょっと裏取りしてからご報告するつもりだったんスけど、あちきはその薬を作ったのが例のドウアンだと思ってるんスよ」
洞庵カネツグ……元々はマコトと同じく皇国十王寺家に仕える精鋭「六傑士」の一人だった男だ。
現在は出奔中でありマコトが後を追っている。
ドウアンは以前皇国で人を魔物に変える薬を研究開発していた時期があるらしい。
ただその時は主人である正宗リヴェータに「悪趣味じゃ!」と怒られて研究は頓挫した。
……その薬の開発を再開していたのではないかと、マコトはそう睨んでいるようだ。
「あの時の薬は試作品で、結局彼女は身体が耐え切れなくなって自壊し始めちゃってたんスけど、今出回ってるのは完成品かそれに近いヤツらしくて服用者の身体が壊れていくデメリットは無くなってるみたいなんスよね」
その性質の悪い魔獣化薬が現在マフィアやならず者たちを中心に出回っているのだという。
服用者は何人か捕らえられている。
彼らは薬が切れれば人間に戻る。
効いている間は人と魔物に自在に変身できる。
「じゃあ一切のデメリット無しで怪物になれるっていう恩恵だけを受けられるというわけか……」
それなら買い手を裏社会に限らなくても欲しがる者は多そうである。
現在戦争中の国家であるとか。
「うーん、どうなんスかねえ。服用を繰り返した場合の事はまだわかんないみたいっスからね」
首を傾げるマコト。
魔獣化薬は非常に高額なので蔓延はしていない。
マフィアたちも抗争の直前に購入して飲んでいるらしく中毒になった例はまだ確認されていないのだそうだ。
「ご主人、あの一件の後でメルキース一家を潰したじゃないっスか。それで空白地帯になった一家の縄張りを巡っていくつかの組織が小競り合いを繰り返してるらしいんスよね。そこへ薬を流してるヤツがいるらしくて……」
やれやれと言った感じでマコトが肩をすくめる。
「今の王都の夜は魔獣と魔獣があちこちでやり合ってる状態みたいっス」
抗争中で戦力を欲しているマフィアが薬を買っているというわけか。
確かにそういった物騒な用事でもない限り日常にあの力はあっても持て余すだけだろう。
「シオンさんたちも調べてくれてるんスけど、薬の売人はかなり用心深くやってるらしくて尻尾を掴ませないらしいんスよね」
魔物化したマフィアをいくら捕らえようが薬を売る者がいる限り切りがない。
「ごめんなさいね。マコトは私に付き合っていたから……」
頭を下げるアムリタにマコトは笑って首を横に振る。
「あちきが自分で志願してご主人に付いてったんスからそこはご主人が悪い事は何にもないっスよ。帝国での五年間はあれこれ大変な事もありましたけど楽しかったっス」
「ありがとう。今度は私がマコトの力になるわ。シオンにも何かあれば貴女の指示に従うように伝えておくから必要であれば部隊も動かしてね」
アムリタの言葉にはにかんでお礼を言うマコトであった。
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王都内部、某所。
薄暗い書斎。
昼間からカーテンを閉め切っている室内には夥しい数の書物が積み重なっている。
そして書斎机で書物に埋まるようにして座っている一人の瘦せた老人。
眼光は鋭く、鼻は三角に尖っていてへの字口……気難しそうな男だ。
学者のような出で立ちで眼鏡を掛けている彼は何事かぶつぶつと呟きながらひたすらに書物をめくり続けている。
『……「楽園星」の小娘が戻ってきておるようでおじゃるな』
不意に、室内に声が響いた。
奇妙に高い男の声……老人のものではない。
背後から聞こえたその声に老人はジロリと本から視線を上げて虚空を睨んだ。
「そのようだな。わかっておるだろうが……くれぐれも勝手な真似はするな。あの娘は見た目より遥かに強大だ。それに周囲にいる者たちも腕利きばかり……」
そして老人はフンと鼻を鳴らして嘲る様に口元を歪める。
「もっとも、そんな事はワシに言われずとも身をもってよくご存じだろうがな」
『ほざくがよいわ。麻呂とてあの時の麻呂ではおじゃらぬ』
ぼおっと虚空に浮かび上がった人外の者。
青い肌の冷たい目をした男だ。
頭部に大きな角、背に巨大な漆黒の翼を持ち下半身は獣毛に覆われ後ろ足には蹄がある。
そして蛇に似た太い尾が生えている。
『麻呂は魔物の王となったのじゃ。あ奴らの小賢しい攻撃も今の麻呂には通じはせぬ』
黒い目にある紅い瞳を動かしドウアンが高い位置から老人を見下ろす。
『……「教授」、何故麻呂の薬をもっと王都に流通させぬのじゃ。十分な数を作らせておるであろう』
「今はまだその時ではない。一度に流せば王国も摘発に躍起になる。ワシは王国と戦争がしたいのではない。裏側から意のままに操れるようになりたいのだ。その為にはなるべく無傷で手に入れる必要がある」
教授と呼ばれた老人の言葉に舌打ちをして表情を歪めるドウアン。
明らかに抑えきれていない不満が滲み出ている。
だが異形のものと化したこの東方の男は今の所老人に対して実力行使をする気はないらしい。
「ワシの望みが叶えばその時は自動的にお前の望みも叶う。あの小娘も他の者どももくれてやるわ。好きにするがいい」
『……その言葉、努々忘れるではないぞ』
訝しむようにそう言い残してドウアンは周囲の光景に溶けていくかのように消えた。
書斎にはまた一人老人が残される。
そうして老人はまた読書に没頭するのだ。
「知識を……あらゆる知識を……」
後にはただ、延々とページをめくる音が聞こえるだけであった。
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屋敷を突然訪ねてきたブロンドの男。
容姿は……あまり変わったようには見えない。元々が年齢にしては大人びた男だった。
顔立ちにほんの僅かにあったあどけなさの名残のようなものは今ではまったくない。
「戻ってきているのなら何故顔を出さん」
その男、『紅獅子星』のレオルリッドは不満げであった。
「いえ、近い内にご挨拶には行く気だったのよ。でも、色々とあって……」
そして、その彼に対して何故だか少し逃げ腰になっているアムリタ。
実際、会いに行こうとは思っていたのだ。
しかし心に引っ掛かるものがあって実行に移せずにいた。
そうこうしている内に彼の方からやってきてしまったというわけである。
そんなおかしな態度のアムリタにレオルリッドは怪訝そうだ。
「お前が戻ってきたら連れて行こうと思っていた店がある。今日の夜が都合が悪いなら日を改めるが」
「あ、いえ、その……だ、大丈夫です」
どもりつつそう返事をしてぎこちなく笑うアムリタであった。
……………。
そして日暮れ前に改めてレオルリッドが迎えにくる。
馬車が来るものだと思い込んでいたアムリタだが、彼は自らハンドルを握って自動車でやってきた。
アトカーシア家所有の車のように扉にエールヴェルツ家の赤い獅子の紋章があったりはしない。
彼個人の所有の車なのだろうか。
助手席に乗り込むアムリタ。
車は蒸気を噴きながら滑らかに動き出す。
「……運転、上手ね」
窓から流れる景色を見ながらアムリタが何となく口にしていた。
実際彼のハンドル捌きは手慣れたものだ。
「ああ。父上は俺が自分で運転するのには反対しているのだがな。一々人を使うのも煩わしい」
運転をするレオルリッドの横顔をチラリと窺うアムリタ。
『それは好意! そいつは貴女の事が好きなの!』
耳の奥に蘇ってくるトリシューラの言葉。
アムリタがレオルリッドに会いに行くのを躊躇っていたのはそのせいだ。
アムリタにとってレオルリッドは気の置けない親友であった。
しかし、彼は自分に異性としての好意を持っているのだとトリシューラは言っている。
もしもそれが事実なのだとすれば、自分はこれからどう接するべきなのか……。
それを決めかねていたアムリタだ。
彼の気持ちに応えることはできない。
かと言って告白されてもいないのに振るわけにもいかない。
冷たくするのもイヤだ。
しかし親しく接するのは残酷ではないのか。
(……あぁぁ、わかんない!! どうすればいいの!!)
そしてふとアムリタはロードフェルド王から聞いていたレオルリッドの話を思い出す。
「そういえば正式にお家を継ぐ事になったんですってね」
「近く父上が引退するのでな。引き継ぎも間もなく終わる」
現『紅獅子星』当主シーザリッドの引退は本来であれば数年前の大王の退位と同時のはずだったそうだ。
しかしロードフェルド王が自分が王として独り立ちできるまでは留まって欲しいと要請し、シーザリッドはそれを受けて引退を数年遅らせた。
その代替わりの日が迫っているのだった。
「ミハイルに比べたら二年遅れだがな。……まあ後になったからと言って俺が奴に劣っていると言う話でもないのだが」
そうは言いつつもレオルリッドは面白くなさそうな顔をしている。
彼のライバルである『白狼星』ブリッツフォーン家のミハイルは二年前に当主を継承している。
「……奴は身を固めたからな。アレクサンドル卿もそれで安心して家を任せたのだろう」
「え?」
レオルリッドの言葉を上手く脳が受け止め切れず、思わず声が出てしまったアムリタであった。




