幸せな赤い竜
闘神による激しい殴打の嵐に晒されているエウロペア。
頭がボーッとなって意識が遠のいていく気がする。
これは、間もなく自分は意識を失い倒される……その予兆なのではないかと彼女は思ったが……。
(……いや、そうじゃないし。ちょっと懐かしい気分になってたじゃんね)
そんな彼女は我に返った。
……………。
……気の遠くなるような遠い遠い昔から彼女は独りで生きてきた。
当時の住処は険しい秘境。
標高5000mを超える山々の連なる人の立ち入ることのできない場所だった。
人は来れないはずの場所なのに、それでもやってくる者はいる。
数十年に一人。長ければ数百年に一人。
皆、例外なく自分に戦いを挑みにきた者たちだ。
そこまで辿り着いた者は誰もが人の領域を超えた猛者だった。
(どいつもこいつも結構やるヤツばっかだったけど、コイツくらい強いのはいなかったかなぁ)
永い退屈の時を過ごしていた自分にとってそういう者たちの挑戦を受けることは数少ない暇つぶしだった。
そんなある日……彼女がやってきた。
柳生キリエ。自分の運命を変えた女性。
初めての自分を倒しに来たわけではない来訪者。
彼女は古代真竜の言語を習得していた。
それで実際に使ってみる相手が欲しかったのだそうだ。
彼女は2年間滞在し、その間に自分と数えきれないくらい会話をした。
彼女が帰る日が決まった時、言いようもなく寂しく悲しい気分になった。
それは自分が初めて覚える感情だった。
去り際にキリエは自分に何かお礼がしたいと言った。
望むことは何かないかと。
「ヒトになりたい」
自分はそう言った。
勿論叶わぬ望みである事はわかった上でだ。
「……そう。じゃあ、あなたを人にしてあげるわ」
……ところがキリエはなんでもない事のようにそう言ったのだ。
彼女の血を受け入れて自分は人間になった。
エウロペアとはキリエが自分にくれた名前。
誰でもなかった一匹の赤竜はその時からエウロペアになったのだ。
(それからはもう……ずっとずっと毎日が楽しくて。夢の中にいるみたいじゃんね)
……などと浸っているというのに相変わらず目の前の筋肉ダルマがガシンガシンと容赦なくぶん殴ってきている。
のんびり回想もできやしない。
だけど何よりも引っ掛かっていて自分を不愉快にしている事はそれではない。
(ああッ!! もうッッ!! 最初からずっとそればっか気になって戦いに集中できないじゃんね!!!)
……ずっと耳に届いている彼女の泣き声だ。
彼女は別に大声で泣き喚いているというわけではなく、ただ静かに涙しているだけなのに。
なのに、わかる。
友達が泣いていればわかる。
「アムリタぁーッッッッ!!!!!!」
エウロペアは空に向かって絶叫した。
ラシュオーンですら驚いて攻撃を止めるほどの大気を震わす咆哮。
勿論呼ばれた本人も驚いて固まってしまっている。
「ウチが勝つっつってんじゃんね!! いつまでもメソメソ泣いてんじゃねーしッッッ!!!」
なんで自分が戦っているというのに友達が泣いているのだ。
そこが不満で、腹が立つ……!!
「アンタが今しなきゃなんないのは泣くことじゃねーし!! ウチに言わなきゃなんない事があんでしょーがッッッ!!!」
「……………」
呆気にとられていたアムリタがハッと何かを思い付く。
「……が、がんばれ」
初めはつぶやくようにか細く。
そして大きく息を吸って……。
「がんばれーッッッ!!!! エウロペアーッッッ!!!!!」
力の限りアムリタが叫んだ。
その叫び声を合図にしたかのように闘神が再び動き出す。
彼もまた空を裂くような咆哮を発し渾身の右拳をエウロペアに向けて繰り出す。
「オオオオッッッッ!!!!」
唸りを上げて襲い掛かってくるラシュオーンの巨大な拳。
逃げようとはせずエウロペアは真っ向から自分の小さな拳をそれにぶつけた。
「最初っから素直にそう言えばいいんだし」
撃ち合わされる拳と拳。
グシャッと嫌な音が響いてラシュオーンの拳が開く。
指は全て出鱈目な方向に折れ曲がっている。
そして前腕部が間接でない部分からへし折れてくの字に曲がった。
右腕を破壊されてもわずかに怯んだ様子もなく、すぐさま左の拳を叩き付けてくる闘神。
それを身体をわずかに傾けてひょいとかわし、エウロペアはラシュオーンの懐に入った。
「ウチもちょっと疲れてきたから、このへんにしとくし」
ドォン、と響いた炸裂音が闘技場の空を揺らした。
エウロペアの拳がラシュオーンのボディにめり込んでいる。
大きく口を開いて血を吐き散らした闘神。
「……再戦、だ」
ゆっくりと前に倒れていきながら掠れた声を出すラシュオーン。
「……明日、また……ここへ……来い……」
「イヤだっつーの。ウチそこまでヒマじゃねーし」
そんな彼を見て本当にイヤそうな顔をするエウロペア。
「……いや、ヒマだろう」
「ヒマっスよね」
観戦席のイクサリアとマコトが思わず口に出していた。
そして遂に無敗の闘神は轟音を立てて地面に倒れる。
「まー、またウチと遊びたいなら百年くらい鍛えてくるじゃんね。そしたら相手してやってもいいし」
うつ伏せに倒れているラシュオーンが必死に首を動かし、傍らに立つエウロペアを横目で見上げた。
「確かに……聞いたぞ……」
そう言い残してニヤリと笑い彼は目を閉じる。
そして……それきり動かなくなった。
……戦いは終わった。
どこから来たのかもわからないピンク色のツインテールのメイドが……帝国最強の十二神将を倒してしまったのだ。
「見よ……ラシュオーンが……」
ギュリオージュの声が震えている。
涙を流す皇帝。何故流れる涙なのかは彼女自身にもわからない。
「わらわの弟が倒されておる。地に……伏しておる」
ずっと弟が望んでいた自分と同等かそれ以上の相手との戦いが実現したことを喜んでやればいいのか、彼が敗れたことを悲しめばいいのか……どちらかわからない。
ただどうしようもなく涙が出てくる。
(良いものを観た。我もまだまだ鍛えねばならんな)
背中の大翼を羽ばたかせて空神ガルーダが飛翔する。
(これだから竜とは戦ってられん。闘神ですら物ともせんとはのぉ)
苦笑して幻神ビャクエンが姿を消す。
(屋敷の地下のお遊び用の奴隷どもは開放しておいたほうがよさそうだな。……これからはしばらくアムリタの時代だろう)
試合場を見下ろして冷静に計算している褐色の肌の髭の美丈夫……雷神ヴァジュラ。
思い思いに十二神将たちが席を立つ。
そんな中で観戦席から飛び降りたアムリタがエウロペアに駆け寄った。
「……ウチのカッコいいとこ、ちゃんと見てた? だからウチはチョー最強だってあんなに……うわっ!」
突然アムリタに抱き上げられるエウロペア。
驚いたメイドが目を白黒させている。
泣き笑いで言葉もなく、ただエウロペアを抱いて掲げるように持ち上げているアムリタ。
「まーた泣いてるし。泣くような事じゃないじゃんね。無敵のウチが無敵だったって、ただそんだけなんだから」
そう言いつつも照れ混じりに嬉しそうに笑うエウロペアであった。
───────────────────────────────
執政官アムリタの従者が闘神ラシュオーンを倒した。
この噂は瞬く間にサンサーラ大陸全土を駆け巡った。
これでアムリタが帝国で最高の武力を有しているという事になる。
本来奴隷であるはずの人間種族の彼女がだ。
……………。
「いやー……凄いわね、エウロペア効果」
屋敷に帰ってきて自室に入るなり、ボフッとベッドに身を投げ出すアムリタ。
お疲れモードの彼女。
「今日も面会?」
長椅子で優雅に本を読んでいたイクサリア。
当然のようにアムリタの部屋で生活している彼女。
「もう分刻みのスケジュールよ。毎日毎日どこどこのだれだれさんですって、名前と顔と肩書がこんがらがって滅茶苦茶になるわ」
エウロペアがラシュオーンを破った一戦の後、アムリタと面会したいという各界の著名人たちが爆発的に増加したのである。
これまでは彼女が人間であることもあって距離を置いていた者たちだ。
彼らは静観を止めてアムリタに擦り寄ってきた。
帝国での彼女の地位がこれから確固たるものとなる事を予見したのであろう。
面倒ではあるがこれからの事を考えれば協力者は多いに越したことはない。
「そっちで人気者なのはいいけど、肝心の神将サマたちがまったくデレてくれないのよね」
一気に風向きが変わった上流層のエルフたちに比べて、前とまったくと言っていいほど自分に対する態度を変えてこない十二神将たち。
肝心の最後の推薦人もいまだに見つからないまま……。
事情を説明してトリシューラには機嫌を直してもらったが。
……………。
そんなある日のこと。
「ただいま! いっぱい捕まえてきたし」
麦わら帽子に虫取り網を持ったエウロペアが上機嫌で帰ってきた。
彼女が肩から下げている虫かごの中には黒光りする立派なカブトムシが数匹入っている。
「おかえりなさい。いいけど、放し飼いにしちゃダメよ? この前ベッドの上にいて私悲鳴を上げちゃって……」
「邪魔をする」
エウロペアに続いてヌッと屋敷に入ってきた褐色の巨体。
「ぴッ……!!!???」
奇声を発して固まるアムリタ。
入ってきたのはラシュオーンである。
何故だか彼も虫取り網を持って。
あれから一週間経っていないがグシャグシャになっていたはずの彼の腕ももうすっかり元通りになっていた。
「どーせ暇してんだろうから誘ってあげたじゃんね。闘技場でしょうもないの相手に戦ってるよりカブトムシ捕まえてたほうが心にも健康にもいいし」
謎のカブトムシ健康法を提唱する麦わら帽子のメイドの背後に立つ虫取り網を持った巨漢の闘神。
……なんともシュールな絵面だ。
「ついでだからうちでご飯食べてけって言ってあげたんだし。……いいでしょ?」
「それは勿論だけど、急に言われたってなんのおもてなしもできないじゃない」
困り顔で肩を落とすアムリタ。
「構わん。豪華にやられるのは好きではない。普段お前たちの食べているものを貰う」
そう言って静かに首を横に振るラシュオーンに内心でホッと胸を撫で下ろすアムリタであった。
普段のアムリタたちの食卓は主人の地位を考えれば質素な部類に入るだろう。
ただ大食漢がいるので量は作る。
選り好みはしないと言ったラシュオーンも量で遠慮する気はないらしく、エウロペアと並んでバリバリとまあとにかく食いまくる。
「……あ、そーそー。あれさ、あれ、えっと……なんか推薦してもらうやつ? あれウチがコイツに頼んどいてあげたじゃんね。やってくれるらしいし」
「ああ。十二神将への推薦人は俺がなってやる」
突然言われて食べていたものを喉に詰まらせ、目を白黒させるアムリタであった。




