戯神メビウス
割れるような歓声の中、闘技場に立つ巨躯のエルフ……ラシュオーン。
今日の彼の相手は魔獣である。
何本もの太い鎖で繋がれている四つ足のその獣はアムリタが見たこともない凶悪な姿をしている。
熊のようで虎のようで……そのどちらとも異なっている。
頭部にはワニのような前方に突き出た大きな口があり鋭い牙が並んでいた。
全長は10mをゆうに超えるだろう。這っていて尚小山のような巨体であった。
(……え? あんなのと戦わされるの?)
特別観覧席のアムリタが眉を顰める。
仮に、自分があの怪物と戦うとしたら……。
どうにもならない気がする。
自分の得意とする打撃主体の格闘術ではまともなダメージは入らないだろう。
しかし彼の持つあの黄金の大剣ならば……。
「………………」
巨大な魔獣を前にして大剣を地面に斜めに突き刺し、腕を組んで前方を見ているラシュオーン。
彼の大剣は刃の部分だけで小柄なアムリタならば完全に身を隠せるだけの幅と長さがある。
あの刃ならば巨大な魔獣の分厚い皮を裂いて傷付けることも可能かもしれない。
そう思っていたのだが……。
戦闘開始を告げる鐘の音が響き渡る。
自分を繋ぎ留めていた大量の太い鎖が外されて鎌首をもたげ空へ向けて咆哮する魔獣。
その叫びはかなり離れている特別観覧席のアムリタまでビリビリと痺れを感じさせるほど大きい。
「え……?」
呆気にとられるアムリタ。
ラシュオーンは地面に大剣を突き立てたまま、それを持たずに前に歩き出してしまった。
徒手空拳のまま、荒ぶる前方の魔獣に向かって。
そして褐色の肌のエルフは前方に右手を突き出す。
魔術を使うつもりか。
アムリタは皇弟の体勢を見てそう思った。
「壊」
短い呟きと共にドォンと低い爆発音のようなものが轟き、魔獣の胴体には大人でも余裕で潜れそうな円形の穴が空いていた。
穴というか……トンネルか。
向こう側の景色が見えている。
魔獣は絶命の叫び声を上げることもなく、ぐらりとよろめいてから地響きを立てて倒れた。
一瞬の決着だった。
闘技場が大歓声と「皇弟」コールに包まれる。
「……まあ、あんなものでしょう。あのレベルの獣では彼の相手は務まらないわ」
つまらなそうに言うトリシューラであったが……。
(何よ今の……あれは魔術じゃなかった)
アムリタは慄いていた。
ラシュオーンが放った見えない攻撃。
なんらかのエネルギーを放った事はわかる。それが怪物の胴体に大穴を開けたのだ。
だがそれは魔術ではない。魔力の動きをまったく感知できなかった。
魔力の介在する何かでないという事は自分の「傲慢な姫君」では模倣できないという事。
仮に彼と戦いになったら一方的にあれを浴びることになる。
……大歓声に包まれながらもやや俯いて眉間に皺を刻んでいるラシュオーン。
「お辛そう……ですね」
「あいつ、戦闘マニアだからね。相手の歯応えがなくて不服なんでしょう」
ふん、と鼻を鳴らしているトリシューラだ。
ラシュオーンは強敵との戦いに飢えているのか……。
それならそこを突いて仲間に引き入れるのはどうだろう?
自分たちの世界にはあの政宗リヴェータのような彼と比肩する猛者がいる。
(……いやいやいやいやいや、流石にそれはダメでしょ)
ぶんぶん激しく首を横に振って自分の考えを打ち消すアムリタ。
あんなとんでもないのを「ほーら戦いなさい」とか言って自分たちの世界に解き放てばとんでもない事になってしまいそうだ。
そんな事を考えていると……。
「……本当に人間じゃないか」
「どうされてしまったんだ? トリシューラ様は……」
そんな囁きを周囲の歓声の中から拾ってしまうアムリタの鋭敏な聴覚。
「……!」
どうやら自分が側にいることで彼女が悪く言われているらしい。
トリシューラから少し離れやや猫背になるアムリタ。
身を隠すように、目立たないように。
「……? 何をしているの?」
そしてその不審な挙動を見て怪訝そうな顔をするトリシューラ。
「え、いえ、何でもないですよ……? トリシューラ様はどうかお気になさらず……」
「……………」
急にこそこそし始めたアムリタを見てトリシューラは目を細め唇をへの字に結んだ。
アムリタの挙動の意図を察したのである。
「ふんっ……」
突然トリシューラはアムリタの両脇の下に手を差し込んで引っこ抜くように彼女を勢いよく持ち上げた。
「わわっ……!?」
驚いて慌てるアムリタ。そんな彼女をそのまま自分の膝の上に下すトリシューラ。
「言いたいやつには好きに言わせておきなさい!! 私は征天戦神トリシューラ……誰にも私のすることに、生き方に文句は言わせないわ!!」
宣言するかのようによく通る美しい大声で言うトリシューラに、周囲から「おおっ」とどよめきが起こった。
(か、かっこいい……)
それは彼女の膝の上に座らされたアムリタも思わず惚れ惚れしてしまう啖呵であった。
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主神城トリーナ・ヴェータ。
……『羅神』ラーヴァナの大部屋。
無造作に床に投げ捨てられた若い女。
人間族の奴隷だ。
首をへし折られて絶命している。
そんな無残な亡骸が床には無数に重なっていた。
たった今、その手で一つの命を握り潰したばかりの黒い鎧のエルフが奴隷を掴んでいた右手をぷらぷらと振っている。
……まるで汚れたものを触った、とでもいうかのようにその仕草は苛立たし気で不快そうであった。
「……あ~ぁ、勿体な~い」
女の声が聞こえたがラーヴァナはそちらを見ようともしない。
豪奢な長椅子に座っている女。
エルフではない。
綺麗な水色の肌をした女だ。大きな瞳はややツリ目で灰色をしている。
灰色の目に赤い瞳。
赤紫色の髪の毛は後頭部で大きなバレッタによって上向きに纏められている。
そして頭に二本の曲がって螺旋を描く大きな黒い角が生えている。
……魔族。
彼女はそう呼ばれている種族だ。
紅いビスチェを着ていて肌の露出が多い。
左腕には革製のベルトを巻き付けていて右腕には銀色の棘が生えた革製の腕輪。
足は腿まである編み上げのサイハイブーツ。
長い足を組んでその足の上に片肘を突き、手の上に顎を乗せている。
『征戯戦神』それがここでの彼女の肩書。
十二神将『戯神』メビウスフェレス。
「結構お高いでしょ~? 若い女の奴隷は」
「どうという事もない」
無感情に言い捨てて足元の亡骸を蹴り飛ばすラーヴァナ。
軽く蹴ったように見えるが亡骸は勢いよく飛んで行って壁に大きな音を立てて激突した。
「牛馬の如く働くか、こうして戯れに壊すしか使い道のない連中だ」
「わぁお、過激~ぃ」
大袈裟に驚いたような仕草をしてメビウスフェレスはニヤリと歯を見せて笑った。
尖った犬歯がキラリと光る。
「人間の事嫌ってるエルフは多いけどさぁ。アンタくらいめっちゃくちゃ憎んでるヤツは他に知らないわ~。何あったの? 隠しておいたオヤツでも食われちゃった?」
「余計な詮索はするな、戯神」
きしししし、と三日月形に端を吊り上げた口に噛み合わせた歯を覗かせて笑っているメビウスフェレスに無感情に言い放って羅神が豪奢な長椅子に腰を下ろす。
「遂にこの主神城にまで汚らわしい人間が入り込む様になった。何匹潰そうが苛立ちが晴れぬ」
「あ~、何か陛下が御戯れみたいねぇ?」
形を整え綺麗に塗られた手の爪を見ながら言うメビウスフェレスはその事にはあまり興味はなさそうだ。
「影響を受けたか天神までもがおかしくなっている。嘆かわしい……」
「トリリンはあれで結構フィーリング派ですからぁ~。なーんかビビッてきちゃったんじゃないのぉ?」
フフッと薄笑みを浮かべる戯神。
その淡い笑顔からは彼女がトリシューラをどう思っているのかは今一つ窺い知る事はできなかった。
「少し独りになりたい。……失せろ」
「はいはぁ~い。不機嫌なラーたんに首をボキッてされて蹴っ飛ばされたくないからねぇ~。私は失礼しますよ~っと」
ひらひらと手を振ってから空間に溶けていくかのように姿を消すメビウスフェレス。
そして広い室内には無数の奴隷の亡骸と部屋の主だけが残される。
「……………」
一人になり、後頭部に手を回すラーヴァナ。
兜の留め金を外してそれを脱ぐ。
バサッと広がるブロンド。
エルフ族の例に漏れぬ鋭い目付きの美しい顔立ちが外気に晒される。
だが彼の顔は単に美しいだけではなく……その左のこめかみの辺りから頬に掛けて左目にもやや掛かっている無残な火傷の跡があった。
「ううっ! ぐぁぁぁ……」
その火傷に指先で触れて呻くラーヴァナ。
それは憎悪の呻き声である。
火傷の跡は魔術で消すこともできた。しかし彼はあえてそうしていない。
これは……自分の大切なものが永遠に失われてしまった時の、その悲劇の証明だからだ。
未来永劫、消すわけにはいかないものだ。
今の自分を形成している、その核なのだから。
「アイリス、メディア……!!!」
今は亡き大事な者たちの名を叫ぶ。
その二人さえいてくれれば他には何もいらなかった。
自分の全てだった。
それなのに……。
「おのれェェェッッッ!!! 汚らわしく罪深い人間どもがぁッッ!!! 打ち砕いてやる……踏み潰してやるぞッッッ!!!!」
頭を掻きむしるラーヴァナ。
その勢いは強すぎて彼の頭から血の雫が散った。
額から滴り眼窩に落ちてその端からまた流れていく赤い筋。
それはまるで、血の涙を流しているように見えた。
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……ゾクッと背筋を寒気が駆け抜けた。
「うっ、何、なんなの……」
自分以外誰もいない廊下を見回して思わず顔を顰めるアムリタ。
何か猛烈にイヤな予感のようなものを感じたのだが……。
(はーもう、キリエは来るし、ちょっと疲れてるのかしら……)
やれやれといった様子で首を横に振る。
「……よっ!」
「ふわッッ!!!??」
急に至近距離から声を掛けられアムリタは口から心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
自分以外誰もいなかったはずの廊下で。
みれば目の前に綺麗な水色の肌の女が立っている。
真っ赤なレザーのビスチェに黒いパンキッシュファッションの女だ。
戯神メビウスフェレスだ。
「頑張ってる?」
「え? は、はい。日々精進しておりまして……」
突然の相手の問いの意図がわからずに頭の中を「?」で一杯にしながらとりあえず返答するアムリタ。
すると青い女は満足そうに何度も肯いている。
「そっかぁ~、そりゃ~感心だね。結構結構!! そんじゃ、引き続き張り切って行ってみよー!!」
そう言って彼女は自分とすれ違って……。
パァン! と勢いよくお尻を叩いていった。
「キャアア!!!」
急に尻を叩かれて思わず悲鳴を上げるアムリタ。
その反応に「あっひゃっひゃっひゃっひゃ」とヘンな笑い声を上げつつ、振り返る事もなく青い女は去っていってしまった。
「……ちょっと、何なのよあれは。疲れが見せるタチの悪い幻か何か……?」
その後ろ姿を見送りながらげんなりした表情をするアムリタであった。




