憎悪の羅神
窓を開けると夜風に乗ってヒラリとメイドが音もなく室内に飛び込んでくる。
「マコト……!」
「どうもっス、ご主人。ご無事なようでまずは何よりっス」
抱き着いてくるアムリタをふわっと優しく抱き留めるマコト。
「どうやってこんな所まで……?」
「そりゃあちきは王女様みたいに空は飛べないっスからね。這い登ってきたっスよ」
アムリタから離れると両手を見せるマコト。
彼女は鉤爪の付いた手甲を装着している。
這い登ってきたって……。
見る限りほぼ凹凸もない地上数十mの円筒の外壁をここまで登ってきたというのか。
想像して思わず顔色を失うアムリタだ。
「何でもやれますって触れ込みで付いてきたっスからね」
本人は軽く言って笑っているが……。
ともあれ、二人は急いでお互いの置かれている状況を報告しあった。
アムリタは自分が皇帝ギュリオージュの侍女になった事を、マコトは自分たちが謎の老人ボルガンに連れられて現在ははぐれ者たちの村に潜伏しているという事を。
「それじゃ皆は今その村にいるのね」
「本当は村から出ちゃいけないって言われてるんスけどね。そういうわけにもいかないんでこうしてあちきがちょこちょこ抜け出してはこの都を探ってたってわけっス」
何日もの諜報活動の果てにようやくアムリタのいる部屋を見つけ、今夜こうしてこっそりやってきたマコトである。
腕利きの隠密でもある彼女の本領発揮だ。
「ご主人の方もその様子じゃ差し迫った身の危険はなさそうっスね。それならあちきは今夜はこのまま戻って皆さんにご主人の状況を説明するっスよ」
「ええ、お願いするわ。話した通りの状況だから今私はここを離れるわけにはいかないの。イクサたちには私は大丈夫だからって伝えてちょうだいね」
もう一度マコトを抱き締めるアムリタ。
メイドはそんな主人に微笑みかけると来た時同様に音もなく窓から外へするりと抜け出して姿を消した。
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同時刻、皇帝の私室。
空飛ぶ球形の水槽に入った脳髄とそれに付随する装置。
『征文戦神』ヴァーティカがギュリオージュを訪問している。
「そうか……巧神の所にな」
ヴァーティカの話を黙って聞いていたギュリオージュが呟くように言う。
「ええ、身を寄せているようでございます。如何なさいますか、陛下。出向いて捕縛せよとおっしゃられるのでしたらこのヴァーティカめが」
ややエコーの掛かった抑揚のない声で脳髄が言う。
「………………」
それに対してギュリオージュは少しの間沈黙していたが……。
「必要ない」
やがて口を開くとそう言った。
「あやつの村にいる限りはわらわは関知せぬ。それが約定じゃ。……あれほどの武人が片腕を落としてまでわらわに誓わせたのじゃ。違えるわけにはいかぬ」
「左様でございますか。ですが念のため監視は続けさせまする」
そして浮遊する脳髄と装置は皇帝の間より退出していった。
元々人払いして会っていたので広い部屋にはギュリオージュ一人が残される。
「何も揺るがぬ。何も変わらぬ。……我がファン・ギーランはわらわの統治の下で永遠の平穏の時を送るのじゃ。全ては些事よ……」
自分以外が誰もいなくなった広い部屋にギュリオージュの呟きが染みて消えていった。
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アムリタが成すべき事は王国と帝国の国交を樹立させること。
そして自分たちが王国に帰ることである。
幸いにしてその為に何をすればよいのかは見えてきた。
帝国には王国に十二星がいるように十二人の皇帝に次ぐ執政者がいる。
十二神将……戦神と称えられる十二人の武人だ。
十二星が必ずしも軍人を兼任しているわけではない貴族であるのに対し神将が武将である所が軍事大国である帝国と王国との差であろうか。
(まずは十二神将や帝国上層の実力者たちのプロフィールを頭に叩き込まないと……)
そう思いながらアムリタが主神城の廊下を歩いているときのことであった。
「……ッッッ!!!!」
突如として伸びてきた黒い腕。
その腕がアムリタの襟首を掴んで持ち上げる。
「う……ぐッッ……!」
足が床から離れ苦しげに呻くアムリタ。
自分を掴んでいるのは全身を漆黒の鎧で覆った何者か。
全てが装甲に覆われ肌が外気に触れている部分がまったくない。
頭部も鉄兜と鉄仮面で完全に覆われており目の部分に細く開いた鋭い二つの隙間に赤い光が揺れている。
「人間如きがこの主神城を我が物顔で闊歩しているとは……。世も末とはこの事だな」
低い声で黒い鎧の男が言った。
襟首を掴んでいる腕に更なる力が入る。
喉を圧迫されたアムリタが咳込んだ。
抵抗しようと試みるも腕はびくともしない。
強化され並みの成人男性の数倍の力を持つアムリタが全力を振り絞っていてもだ。
「せめて見つからぬようにコソコソとしておればいいものを。見てしまったからには踏み潰さんわけにもいかないではないか……薄汚い虫め」
容赦ない侮蔑の言葉をぶつけてくる黒鎧をアムリタが睨む。
「気に入らん目付きだ。……どこまでそれが続くか見ものだな」
ミシミシと締め上げられた首が嫌な音を立て始めた。
(まずい!! 絞め殺されるか首を折られるか!! せめて蘇生までの間死体は安全な状態で確保しておいてもらわないと……!!!)
遠のく意識の中、アムリタがそんな事を考えていると……。
「……ラーヴァナっっ!!!」
怒号が、女性の声が聞こえた。
「ラーヴァナ、その手を今すぐに放しなさい。私を怒らせたいのでなければね!」
「トリシューラか。何を怒っている? 人間だぞ? これは……」
不思議そうな黒い鎧の男。
次の瞬間、見えない何かがアムリタを掴んでいた彼の腕に命中して激しい火花を散らす。
「……!」
腕を引くラーヴァナ。
アムリタが床に落ちて激しく咽る。
「……気でも狂ったのか、トリシューラ」
ラーヴァナの右手にいつの間にか片手斧があった。
黒い柄に真っ赤な刃を持つ禍々しい斧だ。
「その子は陛下のお付きよ。殺してどう言い訳をするつもり?」
「言い訳などいるものか。人間が目に入ったから殺したというだけだ。これとその辺を這っている他の者どもとの違いなど我にはわからぬわ」
嘲るように言うラーヴァナ。
自分たちが人間を殺めることなどごく自然なことで咎め立てを受ける謂れなどないと。
「……なら、その子の顔は頭に叩き込んでおくことね」
トリシューラが目を細めた。
殺意の光を覗かせて。
「毛ほどの傷でも付けてごらんなさい。天神の法術を飽きるまでその身に浴びせてあげるわ」
「……………」
両者が無言になる。
対峙する二人の神将。
緊迫感にアムリタが冷たい汗を額に浮かべる。
少しの間その状態が続き、先にラーヴァナが殺気を消した。
「とんだ乱心ぶりだな。あのトリシューラともあろうものが……嘆かわしいことだ」
くるりと身を翻すと去っていくラーヴァナ。
全身を金属鎧で覆っているというのにまったく物音を立てていない。
その静かさ故にさっきもアムリタは彼の接近に気付けなかったのだ。
「……大丈夫だった?」
自分に差し伸べられたトリシューラの手を取ってアムリタが立ち上がる。
「ありがとうございます。トリシューラ様」
アムリタの呼吸はもう乱れていない。
彼女の回復は早い。
「……可哀想に。何かあったら私を頼りなさい。私に手を出せばトリシューラが来ると言うのよ。それでも貴女に手を出す愚物がいるのならば灰に変えてあげるわ」
抱きしめられるアムリタ。
天神は少し甘いとてもいい香りがした。
どういうわけで自分がここまで好かれているのかはわからないが、現状では非常に心強い。
「あの御方は……」
ラーヴァナが去っていった方角を見て言うアムリタ。
「『征羅戦神』ラーヴァナ。私と同じ神将よ。見ての通り人間を忌み嫌っているから貴女はなるべく近付かないようにしなさいね」
羅神ラーヴァナ……その名は否が応にもアムリタの記憶に刻み込まれる。
流石にあの神将を味方に引き入れるのは無理そうか……。
「トリシューラ様は……人間がお嫌いではないのですか?」
「え……」
アムリタが問うと何とも濁った声を出すトリシューラ。
「あ、あ、当たり前じゃないの。私は人間が大好きよ。貴女の種族ですものね」
そう言って優しく胸元にアムリタを抱きしめるトリシューラ。
その時の彼女の表情が引き攣っていたのはアムリタからは見えてはいなかった。
「怖い思いをしたわね。私の部屋へ行きましょう。美味しいものを食べれば少しは気も紛れるでしょう」
「……はい、トリシューラ様」
トリシューラに手を引かれて素直に彼女に付いていくアムリタであった。
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大神都ヴェーダ近郊、境界門。
アムリタも初めてこの大陸に降り立った石の舞台の上にふわりと降り立った人影が二つ。
一人は淡い紫色のスーツに身を包んだエメラルドグリーンの髪の美女。
「へえ、これは凄いわね」
舞台の上に立ち大神都を眺めて感心しているのは柳生キリエだ。
「ぬははは……何とも金の匂いがしますなぁ」
そして彼女の隣で笑っているタキシードに鷲鼻、カイゼル髭の悪人面の男はギエンドゥアンだ。
そんな彼をキリエは呆れ顔で見る。
「あなたのそのブレなさはちょっと賞賛してもいいレベルではあるわね」
「お褒めにあずかり恐悦至極ですぞ。ぬはははは」
皮肉が通じているのかいないのか……不敵に笑っているギエンドゥアンだ。
そこへエルフの兵士たちが飛来する。
アムリタたちが最初に遭遇したのと同じ装備の兵士たちだ。
数は8人。あの時よりも大分多い。
増員されているのはアムリタたちの一件があったからだろうか……。
「また越境者か! 最近はどうなっているのだ!?」
「例の村に逃げ込まれても面倒だ。抵抗するなら殺してしまえ!!」
剣呑なことを叫んで兵士たちは槍を構えている。
「あらあら……」
上空にずらりと並んだ兵士たちを見上げているキリエには慌てている様子はない。
そしてそんな彼女の背後にさりげなく回るギエンドゥアン。
上空に向かって右掌を向けるキリエ。
その目が妖しく紫色に輝く。
「あなた達はここで誰にも会っていない。何も見ていないわ。戻って仕事を続けなさい」
するとエルフ兵士たちは全員がボーっとした表情になり、肯いて本当に飛び去って行ってしまった。
「……これでいいわ。行きましょう」
ヒールを鳴らして石台を下っていくキリエ。
(相変わらずおっそろしい魔術の腕じゃわい。この女を相手にする時だけは慎重にならんとな……)
一瞬身を縮めるようにしてから彼女を追って小走りになるギエンドゥアンであった。




