人を殺した獣の行きつく先
深夜の廃墟に響く叫び。
……クレアが悲鳴を上げている。
「いっだだだだだだっ!! もももも、もうちょっと優しくなのです! エリート美少女研究者のボディは繊細なのですよ……!!!」
「本当にうっさいな、もう」
脱臼してしまったクレアの肩を元通りに嵌めながら眉を顰めるマチルダ。
クレアを笑う猫から逃がすときに思い切り手を引っ張ったら肩が抜けてしまったのだ。
そのクレアの前にジェイドが屈んで背を向けた。
意図を察した学術院の脱臼ウサギが彼の背にピョンと飛び乗る。
「誰か来る前にこの場を離れよう」
「おう。……っていうかクレア自分の足で歩けるだろ」
じっとりとした半眼でクレアを見るマチルダ。
「ふふーん、ダメですね。痛みが酷すぎてしばらく歩くこともできなそうなのですよ」
殊更に見せつけるようなドヤ顔で笑うとジェイドの背に頬を擦り付けるクレア。
「ちくしょうひっぱたいてやりたいツラしやがって……」
ギリギリと歯を鳴らしながらぼやくマチルダであった。
三人は足早に廃墟を離れ夜の裏通りを歩き出す。
酔漢ばかりのこの夜の街ではクレアを背負うジェイドもそれほど目立っていない。
「何であの怪物がラウレッタだってわかったんだ?」
「そう思っただけだ。間違っているかもしれない」
不思議そうに尋ねてくるマチルダに対して首を横に振るジェイド。
呼びかけた時に足を止めて怪物は振り返ったが、それが本当に正体を看破されたからの挙動なのかはわからない。
単なる反射行動の可能性もある。
「日が昇ってから彼女の職場に行ってみればいいのですよ」
「そうだな。一眠りしたら行ってくる」
背中で言うクレアにジェイドが肯く。
「それより死体が置きっぱなのですよ。うっかり廃墟探検のガキんちょとか来た日にゃ一生モノのトラウマ確定なのです」
「あーっ……そうだな。とりあえず匿名で密告しておくか」
やれやれと頭をかくマチルダ。
とりあえず……今はまだ騎士団に詳細な報告をしている余裕がない。
あれこれ話ができるのはあの笑う猫を捕えてからのことだ。
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そして一夜が明けて……。
休息を取ったジェイドはラウレッタの勤務している洗濯屋にやってきた。
平然と、あの先日のようにどこか不機嫌そうな顔で働いていてくれればと……そう、祈るような心地で。
「ラウレッタぁ? あの子は今日は来てないよ」
だが、現実は非情だ。
対応した中年女性……この店のオーナーだそうだ……は困った様子でそう告げた。
「彼女はここに何年くらいいる?」
「4年……もう5年になるのかねぇ? 今まで無断欠勤なんて一回もなかったってのにさ。困っちまうよぉ」
やれやれ、と嘆息してから自分で洗濯作業をしているオーナーにジェイドは事務所の住所をメモした紙を渡す。
そして、もし彼女が来るようであればここに連絡を入れてほしいと伝言を伝えてから礼を言って店を後にした。
「……………」
足取りも気も重い。
ラウレッタが笑う猫である可能性が一気に高くなってしまった。
吹き抜けていく寒風が心まで凍てつかせていく気がしてコートの襟を掴んで閉めるジェイドであった。
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事務所に戻ったジェイドの報告を聞いたマチルダたちも特に驚いた様子もない。
「……てことは、昨日のバケモンはラウレッタさんだって思った方がいいな」
「彼女ならジョバンニを殺す理由もピエトロを殺す理由もあるのですよ」
クレアの言葉にジェイドが暗い気分で肯く。
その場合、動機は勿論殺された恋人……ファビオの復讐だろう。
何も聞いていないと言っていたが、もしかしたら彼女はファビオから組織には内緒でアヘンを捌いている話を聞いていたのではないだろうか……?
だとするなら彼が殺された時にラウレッタだけは犯人と動機に気が付いていたはず。
とすれば殺害の辻褄は合う……が。
「そうなるとわかんねえのはあの姿だな……」
マチルダが腕組みをして唸る。
あれは獣人などというものではない。異形の魔獣だ。
あの姿でジョバンニたちを殺し遺体を破壊したのだとすればその後少なくとも一回は彼女は人の姿に戻っていると言う事になる。
この世界には変獣人という種族がいる。
人から獣人へ、或いはその逆も自在に変身できる種族の事だ。
だが魔獣に変身する者の話は聞いたことがない。
「元々彼女にあんな力があるのならもっと早くに復讐を決行していたはずだ」
ジェイドが呟く。
自分自身に言い聞かせるかのように。
「だけど実際には七か月の間が空いている。彼女がああなったのは最近なんじゃないのか?」
「魔物に変身できるようになったからその力で復讐してやろうとしたわけか」
納得した様子で肯くマチルダ。
そして彼女は応接用のソファに身を投げ出す。
「んー……どうすっかな。今の仮説が事実だとしたら、あんまオレは張り切って彼女を捕まえてやろうって気にはなれないなぁ」
マチルダの言葉に何となくジェイドとクレアが顔を見合わせる。
彼女の言いたい事はわかる。
推理が当たっているとすればラウレッタの復讐は筋が通っている。
彼女に殺されたマフィアの二人は自業自得だ。
……巻き添えになったジョバンニの愛人だけは気の毒だが。
ジェイドも元復讐者として思う所はある。
「でも彼女は見つけなきゃいけない。凶行がこれで終わりとも限らないしな」
「……だよな。勝手に推理しといて『これが多分正解だからお終い』ってワケにはいかないよな」
勢いよく立ち上がったマチルダ。
しかしそんな彼女を半眼のクレアが見上げる。
「張り切ってる所悪いんですけど、どこ探すんです?」
むう、とジェイドとマチルダは同時に唸った。
……昨晩、ジェイドは彼女の名前を呼んでいる。
自分の正体がバレたと思ったからこそ彼女が今日職場に姿を現さなかったのだとしたら他の関係先も同様だろう。
そうなるとこの広大な王都から彼女を探し出さないといけないわけで……。
流石に三人の手には余る。
顔を見合わせて同時に嘆息するジェイドたち。
「……こんにちは。失礼するっスよ」
するとその時、事務所の入り口から声が聞こえた。
ジェイドは馴染みのある女性の声だ。
「あれ、お客さんか」
「僕が出る。僕の家の人だ」
そう言って青年は席を立った。
……………。
やってきた糸目のメイドは優雅に一礼する。
東洋人であるはずの彼女だがそう言った西の従者の所作も完璧である。
流石はなんでもやれると自ら売り込んでくるだけの事はある。
「お見知りおきをお願いするっス。あちきはアムリタ・アトカーシア様にお仕えするメイドの一人……不知火マコトと申すっスよ」
マチルダたちと自己紹介を交わしながらマコトは持って来たバスケットを机の上に置いた。
「こちら、エスメレー様が御作りになられた焼き菓子っス。皆様で召し上がってくださいとの事で」
美味しそうな甘く香ばしい香りをさせていたバスケット。
甘いもの好きなクレアが目を輝かせる。
しかし……。
「折角ですので御茶をお淹れして差し上げたかったんスけど、ちょっとこちらは後回しっス。急ぎの用事から先に片付けてしまうっスよ」
「……急ぎの用事?」
不思議そうな顔のジェイドにマコト顔を寄せる。
ニヤリとどこか妖しく笑って見せたメイドは薄く開いた糸目で彼を見る。
「お探しの猫チャン、あちきが見つけておきましたよ」
「……なッ!?」
虚を突かれて驚いて固まるジェイド。
マコトには今自分がどんな事件を調査しているかといった話はしたことが無い。
何しろここに来てから一度も屋敷に戻っていないので当然だが。
「ご主人~、こういう時は早めにあちきを頼って欲しいっス。今回は勝手にお世話を焼かせてもらったっスけどね」
やや不満げに口を尖らせているマコト。
拗ねたように身体をくねらせているメイド……まあ、演技なのだろうが。
「すまない。今回は屋敷の人の手を借りるつもりがなかったから……」
屋敷にいる面子が誰よりも優秀である事はジェイドが一番よく知っている。
しかし今回は事務所の三人で解決するという事に無意識で拘っていたのか、屋敷に助けを求めると言う発想がなかった。
「お役に立ちますから次からは頼ってくださいっス。……で、これが猫チャンの今の居場所っス」
折り畳まれた紙を差し出すマコト。
それを受け取ったジェイドが開いて記された内容を確認する。
そこに記されていたのは簡単な手書きの地図といくつかのメモ書きだ。
簡潔ながら非常にわかりやすい。
「港の倉庫か」
「日のある内は他へ移動する可能性は低いはずっス」
マコトが肯いて言う。
そんな所に身を潜めているという事は彼女はまだ魔物の姿なのだろうか……。
「表に馬車を待たせてあるっスよ」
「何から何まで悪いな」
メイドから手渡された上着を羽織るジェイド。
悲しい仕事だがやるしかない。
「急ぎましょう。あちきの見立てですと、多分あの猫チャン……あんまりもう長くは持たないっス」
静かに告げるマコトに驚いて振り返るジェイドであった。
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……暗闇の中で息を潜めている。
それはジェイドが笑う猫と呼称した魔物だ。
ぐったりと壁に背を預けている魔猫。
ゆっくりと上下する肩がまだその生き物が呼吸をしているという事を表している。
しかし魔物の座っている場所の床にはじわじわと赤色が滲み出ていた。
パキパキと薄い氷を踏んで割るような音がしている。
何もしていないのに皮膚がひび割れて、そこから血が流れている。
(ああ、あたしは……)
誰に何を言われたわけでもないのに理解している。
(もうすぐ死ぬんだ。終わるんだ……)
当然の末路だと自分でも思う。
自分は人ではないものになって、人を殺したのだから。
……それでいい。
当然の報いだ。
目的は既に果たしている。
思い残すことは……何も残っていない。
「……ラウレッタ」
誰かが……来た。
聞き覚えのある男の声がする。
ぼやける視界に映ったその青年の背に、ぼんやりと輝く翼が見えた気がした。
もう、とうにダメになってしまっている身体に鞭打って立ち上がる。
彼は……天使だ。
罪深い自分に、安らぎを与えてくれるだろう。
身体に残った僅かな命を全て熱量に変えて咆哮する魔獣。
そして笑う猫は巨大な爪を振り上げて目の前の男に猛然と襲い掛かるのだった。




