笑う猫
昼下がりの噴水公園。
多くの観光客で賑わう王都でも人気のスポット。
その公園のベンチに座って新聞を広げている薄汚れたコートの無精ひげの痩せた中年男がいる。
はっきり言って場違いなのだが、そこは上手く自分の全身像を新聞で隠すことで辛うじて周囲の光景から浮き上がるのをごまかしている。
無言で新聞を読む男の隣にやや乱暴に腰を下ろした体格のいい赤毛の美女……マチルダ。
こちらは健康的な冬用のスポーツウェアであり場違い感はない。
彼女は座るとすぐに近くの露店で買ってきたホットドッグに齧り付いた。
「来て早々に美味そうな匂いさせてんじゃねえよ」
小さな低い声でボヤく新聞の男。
「ついでのランチだよ。食いながらで失礼するぜ」
ニヤリと笑ったマチルダ。
新聞の男は情報屋である。
お互いに相手の方を見ない。視線も向けない。
「春先にメルキースのファビオが死んだだろ。あれで後釜に座ったのは誰だ?」
「ピエトロって男だ。ファビオがやってた事は大体そいつが引き継いだ」
マチルダの問いにすぐ返答する新聞の男。
両者はお互い相手に聞こえる程度の小声であり周囲から見て二人が会話をしていると気が付く者はいない。
「じゃあジョバンニも死んだからそのピエトロが幹部になるのか?」
「いや……どうだろうな? ボスや他の幹部からはそこまで評価されてねえ。元々がタナボタ野郎だしファビオ程使えねえってジョバンニもよくこぼしてたらしいぜ。ジョバンニの縄張りは分割されて他の幹部に割り振られるんじゃねえかってウワサだ」
ガブっとホットドッグの最後の一口を食べ終えると指先に付いたケチャップをペロッと舐めてマチルダが立ち上がる。
「ありがとうよ。またなんかあったら頼むぜ」
最後まで一度も相手の方は見ないまま立ち去るマチルダ。
彼女の座っていた場所には封筒が残されている。
そしてその封筒を手に取ってポケットに捻じ込むと新聞の男も立ち上がってマチルダが去っていったのとは別の方向に歩いていき姿を消した。
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夜の繁華街。
煌びやかなネオンサインの下を酒臭い息を吐く赤ら顔の男たちが行き来している。
そんな中を白いスーツでアフロヘアの小太りの男が肩を怒らせて歩いていた。
メルキース・ファミリーのピエトロである。
最近生やし始めた口髭は似合っていないと陰で言われている男。
ピエトロは舎弟たちに飲み代を奢って住処に戻る途中であった。
(あぁ~クソッ! 痛い出費だぜ。……まぁ、けど俺もこれで幹部になるんだしな。下のモンにゃいい顔してねえとなぁ。これも必要経費ってやつだ)
歩きながらそんな事を考えているピエトロ。
まさか自分が幹部の器ではないと組織の上層部に評価されているとはまったく考えてもいない彼。
獲らぬ狸のなんとやらですっかり自分が幹部になったつもりでいる。
そんな彼の視界が……突然大きく横にズレた。
目の前の光景が賑やかな夜の町から薄暗い路地に一瞬で切り替わる。
「おぁッ!!?? 何だよオイ!!??」
慌てるピエトロ。
自分の身に何が起こったのかを把握できない彼。
何者かが横の路地から手を伸ばして彼の襟首を掴んで引っ張り込んだのだ。
「少しの間眠っていろ」
背後からそう男の声がしたかと思うと……。
一瞬で意識が遠のきピエトロの視界と思考は暗黒に包まれたのだった。
……………。
ピエトロが目を覚ました時、そこはろくに明かりもない寒々しい石造りの建物の一室だった。
彼は知る由も無い事だがここは彼が昏倒させられた繁華街からさほど離れていないある廃墟だ。
ジェイドに絞め落とされた彼はマチルダに抱えられてここへ連れ込まれた。
「うぅ……クソっ! 誰だ!! どういうつもりだ!! 俺がどこの誰なのか知らねえのかよッッ!!」
椅子に縛り付けられているらしい。
ガタンガタンと身体を揺すって暴れるアフロヘア。
「……デカい声出すなよ。近所迷惑だろ?」
その首筋に大きなナイフの刃が当てられた。
するとピエトロは一瞬で静かに大人しくなる。
ナイフを持っているのは覆面をしているマチルダだ。
「お前にはこれからあれこれ喋ってもらうぞ。……って、オイまだかよ」
「うっさいですね。やってるのですよ」
ガシャガシャと鳴るトレイを持ってやってきたやはり覆面のクレア。
トレイの上にはメスやピンセットや小さなドリルなど、医療器具や工具が並んでいる。
「こっちは拷問なんて初めてなんですから何がいるのかもよくわかってないのですよ。まあ仕事でよく小動物の解剖はやるので、その要領でなんとかやってみるのです」
鋏の刃をチョキンチョキンと開閉させながら言うクレア。
真っ青になったピエトロが震え始めた。
元来が気が小さい男なのだ。
「んじゃまずはお腹開けて中を見てみましょうかね」
……既に拷問ではなく単なる解剖になっている。
「待て!! 待てッッ!! 開けないで!!!」
「開けられたくなきゃ素直に喋りな……。お前の兄貴分だったファビオは何で死んだ?」
背後から耳元に顔を寄せて低い声で聞くマチルダ。
(……迫力があるわね)
それを後ろで見ているジェイドが内心で感心していた。
「あ、あ、あ、アヘン……アヘンだ。ジョバンニの兄貴は組に報告してないルートで個人でアヘンを捌いてた。実際に取引をしてたのがファビオの兄貴だ……。俺たちは兄貴が死ぬ時までそれを……知らなかった」
泣きながらたどたどしく話すピエトロによると……。
アヘンの密売はファミリーにとって最大の収入源であった。
その為全ての取引は組によって厳しく管理されている。
しかし、ジョバンニは密かに個人でアヘンを密輸し組には内緒でそれを捌いて儲けを懐に入れていたのだ。
それを手伝っていたのが片腕のファビオだ。
というよりも始めからジョバンニはバレた時に罪を被せるつもりでファビオに手伝わせていたに違いないというのがピエトロの意見である。
そしてとうとうある時、ジョバンニのアヘンの売買はファミリーに露見しそうになった。
ファミリーを通さずにアヘンを売買している者がいる。それもジョバンニの縄張りで。
そういう情報をファミリーが入手した矢先……。
実際の取引の全てはファビオが行っていたので、ジョバンニは彼に全ての罪を被せて粛清と称して始末したのである。
「……呼ばれて、俺が手伝った。アヘンをやらせて酒もしこたま飲ませてワケわからなくなってる兄貴を……川に落として。浮かんでこねえのを……確認して……」
眉を顰める覆面のジェイド。
「そん時に聞かされたんだ。組に内緒の取引の話だとか……。手伝って黙ってりゃお前が繰り上がるって言われて……」
「じゃあ何でジョバンニは殺されたんだよ」
「それは俺も知らねえ! 本当だッ!!」
マチルダの問いにピエトロは激しく首を横に振る。
「最初は……最初はファミリーが結局真相に気が付いて始末屋を雇ったのかって思ってた……。だけど後で聞いた話じゃ、ファミリーの上の人らも犯人探しに躍起になってるらしいって。ファミリーじゃねえんだ。他所のヤツが殺ったんだよ」
ピエトロは恐怖の余り泣き出してしまいしゃくり上げている。
視線を交差させるジェイドたち。
嘘は言っていないように思う……三者の感想は一致していた。
ファビオを事故に見せかけて殺したのはジョバンニとこのピエトロだった。
ならジョバンニを殺したのは……。
その時、廃墟の以前は大窓が嵌っていた今はただの四角い穴にから何かが室内に飛び込んできた。
「……!!!」
「……え!!?? えぇッ!!!??」
三人は身構える。ピエトロは慌てている。
一瞬にして広いフロアには濃密な「死」の気配が満ちた。
飛び込みながら床でごろんと前転したその何かがゆっくりと身を起こす。
「獣人……ッ!!??」
軍用の大型ナイフを構えながら叫ぶマチルダ。
「よく見るのです! 違うのですよ!!」
それを訂正して叫ぶクレア。
確かに一見それは獣人に見える。
極端な前傾姿勢ながらに頭の位置は地上2m近く、かなりの巨体。
全身を長い毛で覆われている。白地に黒い縞模様。
頭部の形状は猫に近いか。
鋭い牙の並んだ大きな口にはニヤニヤ笑いのような三日月形。
……笑う猫だ。
上半身だけ見れば猫の獣人。
しかし下半身は青い鱗に覆われており爬虫類のような尻尾がある。
そして足首から先は鳥類のような鋭い鉤爪のある足だ。
「シャアアアアアアッッッッッッッッ!!!!!」
鋭い叫び声と共に笑う猫が動いた。
最初に狙われたのはクレア。
咄嗟にマチルダが腕を掴んで思い切り引っ張る。
ほんの一瞬前までクレアのいた位置を巨大な爪が並んだ腕が薙ぎ払っていった。
そしてスイングを終えた笑う猫の脇腹の辺りにジェイドの拳が炸裂する。
「ギアァ……ッッッ!!!!」
猫が上げる苦悶の叫び。
しかし反応ほどは効いていない気がする。
分厚い体毛がショックをかなり吸収している上に表皮も相当硬い。
(……強敵だ)
内心のアムリタが顔を顰めている。
パワー、スピード、そして防御力も……どれもが桁外れ。
(負ける気はしないけどね)
相手に魔術の関係する大技がないと『傲慢な姫君』を発動できないのが辛い所ではあるが、それならば真っ向から立ち向かって打ち破るだけである。
構えを取るジェイド。
自分が爆発的に強くなっているとは思わないが、それでも強敵を前にしてのこの精神的な落ち着きはありがたい。
……何しろ一つ前の相手がバケモノの中のバケモノ過ぎた。
彼女に比べればどんな難敵だろうと随分マシに思えてしまう。
そんなジェイドの精神的優位を敏感に感じ取ったのだろうか。
笑う猫が仕掛けてこない。
(……ん? 逃げるタイミングを計ってる?)
なんとなくそう感じたジェイド。
「シャアッッッ!!!!」
叫んで笑う猫が襲い掛かってくる。
その鋭い爪の並ぶ豪腕をジェイドが回避して……。
「!!!」
そのまま笑う猫が横に跳んだ。
その先には……。
「……ッッ!!!!????」
恐怖に顔を引き攣らせたピエトロがいた。
笑う猫の腕の一振りでピエトロの頭が……。
というよりも鎖骨から上の全てが消えてなくなり無数の肉片に変わって周囲に散らばった。
笑う猫はピエトロを絶命させると背を向けて窓に向かって走る。
「ラウレッタ!!!!」
ジェイドは叫んでいた。
何故、笑う猫を彼女だと思ったのか……。
根拠をはっきり言葉にする事はできなかったが、彼は笑う猫がピエトロを殺したシーンを目の当たりにして直感的にそう思った。
笑う猫が足を止めて振り返った。
そしてもう一度前を向き直ると今度は立ち止まることなく一気に窓だった穴から外へ飛び出し、夜の闇の中に消えていくのだった。




