第9話:終わらない夜
ラメドの樹は元々、ウォルバートンが原産の植物ではない、と考えられている。
本来は妖魔界グラスミアと呼ばれる、ここともまた別の異世界が生息地らしい。
それによって生成される禁忌薬物は、葉から抽出した成分を適度に薄めて使用される。
濃度に手を加えるのは、当然少量でも生命に関わる危険な成分が含まれるからだけど……
大量の原液を一度に服用した場合、より恐ろしい作用が発生する、という風説があった。
それはなんと、「人体を異形の魔物に変えてしまう」効果なのだ。
なぜラメドの成分で、そうした事象が発生するかは詳しく判明していない。
一説によれば、いまだに妖魔界の瘴気が葉の内部に溜まっているからとも言われている。
ただ差し当たり私とオリヴァーは、噂が真実だったことを、じかに知る機会に接したわけだ。
「さて、どうする我が首領?」
オリヴァーは、魔物化したマレットから離れつつ、こちらへ問い掛けてきた。
「今斬った手応えからすると、俺の剣ではもうマレットを殺せないかもしれないが」
「たしかにああなってしまったら、ちょっと致命傷を負わせるのは厳しいかもね……」
私もやや後退りしながら、率直な感想を述べる。
異形の姿と化したマレットには、最早かつての悪徳司教の面影はなかった。
身長は以前の倍近くにも巨大化し、筋張った手足が丸太のように長く太い。
落ち窪んだ双眸は妖しい光を湛え、耳まで裂けた口には鋭利な牙が並ぶ。
体格の変化に伴い、身に纏っていた法衣は千切れ、ぼろ布となって肌の上から垂れていた。
その僅かな布地と肥満したままの腹部とが、元の姿に符合する要素を辛うじて留めている。
しかし外形の印象は、あたかも「灰色の巨人」といった有様だ。
「……仕方ありません、私の魔法で倒しましょうか」
私はかぶりを振りつつ、対応を伝える。
「オリヴァー、魔法の詠唱が終わるまで時間を稼いで。三〇秒でかまわないから」
オリヴァーは、こちらの要望に「承知」と短く返事した。
長剣を肩の高さに構え、やや腰を低くした姿勢でマレットの様子を窺う。
そのあいだに私は精神を集中し、両手を一定の規則に従って動かす。
<――漆黒の爪を砥ぐ恐怖よ。悪夢の底で揺蕩うちからを、我は求め欲する者なり……>
私は、自分が知るものの中でも、かなり高位の魔法を唱えはじめた。
今更手加減はなしだ。できるだけ早く、正確に詠唱の言葉を紡ぐ。
すぐ左右の手の中で、魔力の集まる感覚が生じた。
と、魔物化したマレットが咆哮を上げる。
私とオリヴァーを改めて凝視し、おもむろに接近しようとしてくる。
こちらを見る暗い双眸は、さながら獲物を見付けた獣のそれだ。
すでに挙措には、人間的な理性が感じられなかった。
「さあ来い化け物、おまえの相手はこの俺だ」
かつて司教だった魔物に向かって、オリヴァーが声を掛けた。
長剣の刃で牽制しながら、自分の方へ注意を引こうとする。
マレットの双眸は、見事に釣られて、そちらを見た。
オリヴァーはここぞとばかり、続けて斬撃を繰り出す。
白刃が二度三度と、マレットの身体に振り下ろされた。
灰色の強靭な皮膚は、またしてもそれを弾き返す。
マレットは低い声で唸りながら、ただちに反撃に出た。
左右の腕を振り上げ、黒ずくめの青年へ交互に打ち下ろす。
オリヴァーは軽い身のこなしで、相手の打撃を回避し続けた。
一連の流れは、オリヴァーとしても織り込み済みのはずだった。
その後も数度、変化を付けつつ、マレットとの攻防を繰り返す。
そうするうちにほどなく、三〇秒が経過した。
やがて私の詠唱は完成し、魔法が発動した。
突然、細い帯のような「影」が出現して、マレットに幾筋も巻き付く。
次いでそれが灰色の皮膚を、まるで強く締め付けるように蠢いて――
魔物化していたマレットの巨躯を、無数の肉片に分解してしまった!
高位暗黒魔法「切り刻め漆黒の爪よ」の効果だ。
邪悪な神々の魔力を借り受け、名称通りに対象を細かく切り刻んで、分解してしまう。
効果範囲が生物単体のそれとしては、私が現在知る中でも一番強力な魔法だった。
物理的攻撃を通さない皮膚でも、魔力の刃を防ぐ術はない。
「……今回の犯行計画も、どうやら無事に達成できたみたいね」
私は、溜め息混じりにつぶやいた。
聖堂地下の広間には今、暗がりの中に炎と煙、血と肉の臭いが混然と立ち込めている。
息苦しさは感じるものの、呼吸には支障がない。ラメドの栽培用に造られた水路が、通気口の役割を果たしているからだろう。
とはいえ床の上には、二〇体近くの亡骸が転がり、そこから流れ出た血は池を作っていた。
飛び散ったマレットの肉片を除いても尚、ここは残虐な殺戮の現場で、凄惨な地獄絵図だ。
常人なら正視に耐えない光景だろうけど、私には抵抗感なく眺めることができる。
犯罪組織の首領になったときから、すでに真っ当な人間らしい感覚が、いくらか失われているせいかもしれない。人の死を見ることに慣れすぎた。
でもとにかく、悪徳司教マレットを抹殺する、という目的は果たされたわけだ。
燃える樹々と死体の山は、成功の証明で、私の指示から生み出されたものだった。
私は、オリヴァーに向き直り、改めて計画の完遂を宣言した。
「これでまた、穢れた世界を僅かに壊して再生です」
○ ○ ○
私が聖堂地下から外へ出たのは、暗天課の時刻(午前三時)が過ぎた頃だった。
マレットを抹殺したあと、さらに五時間近く地下最奥に留まり続けていたことになる。
理由としては、今回の犯行において「事件の被害者」であることを装う必要があったからだ。
私は晩餐会の出席者で、この場を去るにしろ、突然行方を眩ますわけにはいかなかった。
地下最奥から脱出する際も、ペティグルーの駐屯兵が駆け付けるまで待ち、わざと他者の手を借りて救出された。かつてラメドの栽培場だった広間で、気絶していた体を擬態し、「一人だけの奇跡的な生存者」を演じてみせた。
あとこれは余談だけれど、このとき駐屯兵は司教区長館に続く隠し通路の存在に気付き、驚きつつも首を捻っていた。何の用途で造られたものか、すぐには察しが付かなかったようだ。
私を救い出した兵士からは、地下で何があったかについて、執拗に問い質された。
ただそれもあの惨状を見れば当然だろうから、私は神妙な態度で聴取に応じた――
地下の広間にも狼藉者が複数侵入し、自分以外の晩餐会出席者を惨殺した、と。
それから「侵入してきた一団には、剣士の他に魔法使いが含まれ、危険な魔法を使っていた」とも付け加えておいた。
もちろん、どれも虚偽の証言で、事実を隠蔽するための手管だ。
でも「聡明な聖女」を装う私の言葉を、兵士は誰も疑わなかった。
尚、魔物化した上に肉片となったマレットは、死亡認定こそされたものの、どうしても遺体が見付からず、皆が頻りに首を捻っていた。
一方のオリヴァーは、タガート聖堂へ人知れず単独行動で侵入していた。
それゆえ、逆に治安組織の人間と出くわすのを避け、速やかに現場から退散してしまった。
結果的に私は長時間、地下で二〇体近い死体と一緒に過ごすことになったわけだが――
不気味な状況に独りぼっちで置かれたのも、当然心楽しまなかったし、またそれ以上に閉鎖的な空間で充満する死臭を耐えなければならなかったのが、何より厳しかった。
私が「操霊術」で使役していた不死族の群れは、マレットの抹殺後に魔法の効果を解いた。犯行計画が達成され、陽動で各所を襲撃させる意義がなくなったからだ。
数多の不死者が一斉に動作を止め、元の遺体に戻って崩れ落ちる有様は、異様な光景だったに違いない。舞台裏を知らない人々は、安堵と共に首を捻っていたはずだ……
私は聖堂の地下にいたから、単に想像でそう考えているだけだけれど。
ちなみに犯行計画の最初から最後まで、アランは「夜鳥」の部下を的確に指揮し、様々な工作に腐心してくれていた。計画当初に「火竜石」で陽動した他にも、陰から守衛や兵士の動向を常に注視し、障害になりそうな問題が起これば、その都度対応していた。
また計画完了後に引き上げる直前、アランは聖堂の祭具室や司教区長館から、あえて部下に宝飾品を数点盗ませている。犯行動機がマレットの抹殺ではなく、金品の強奪だったと誤解させるためだ。
さらに補足すると、助祭のハロルドは不死族から襲われたりすることもなく、生存している。
駐屯兵に応援を頼むため、騒動の途中で街へ出たからだ。聖堂を離れたのが幸いした。
……何はともあれ、聖堂の地下最奥から地上に戻ると。
私が帰るのを、密かに一人で待っていてくれた人がいる。
他でもない、待祭のキャロルだった。
「ああ、ご無事だったんですねクリスさま!」
司教区長館二階を覗いてみると、キャロルは自分の客室に一人で篭もっていた。
地下通路の前で別れたあと、ずっと不死族の群れに怯えて隠れていたらしい。
騒ぎが収まりつつあることは気付いていたが、今夜ひと晩はここで過ごすつもりだった――
と、はにかみながらキャロルは言った。
まあそれは妥当な判断だな、と思う。
何しろ、まだ今は深夜帯で、陽が出る時刻まではしばらく間がある。
こんな時間に司教区長館をうろつく私の方が、やや非常識だろう。
ましてや聖堂の敷地内は大きな事件の直後で、まだ容疑者が誰一人捕まっていない。
キャロルの安否をたしかめるためだろうと、夜明けを待って行動する方が普通だ。
ただそれでも、こうして再び顔を合わせることができて良かった。
少なくともキャロルが不死族に襲われていないことは、ちゃんと知っていたんだけどね……
改めて言うまでもなく、あの屍の群れを使役していたのは、私だったんだから。
尚「破魔の宝珠」が砕けた影響で、建物の中は魔力の照明が消えている。
現在は蝋燭の火が室内を照らしていた。
「それにしても、外は今どうなっているんです? さっぱり状況が呑み込めていなくて……」
ひと頻り再会を喜んだあと、キャロルは当惑した面持ちになって問い掛けてきた。
とにかく一人で身を隠していたから、何がどうなっているかもよく知らない、という。
そこで私は、さっき兵士に話したことと同じ内容を、キャロルにも伝えた。
「――あ、あわわ。そうすると晩餐会に出席していた方々はクリスさまを除いて、全員地下でお亡くなりになってしまわれたんですか? 不死族の群れからは逃れられたのに……」
教えられる限りのことを話すと、キャロルは瞳を見開いて言った。
幾分大袈裟にも感じられる所作で、衝撃の強さを表現している。
が、すぐに気を取り直した様子になり、こちらへ歩み寄ってきた。
互いの顔をにわかに近付け、安堵したように微笑む。
「でも本当に良かったです、クリスさまがご無事で。だって……」
キャロルは、柔らかく、温みさえ感じさせる声音で囁いた。
私が身体に違和感を覚えたのは、その直後だ。
突然、痺れるような熱を感じて、激痛が走った。
「――そうでなくちゃ、あたしの手でクリスさまを始末できませんでしたから」
キャロルの言葉を聞きながら、私は二、三歩後ろへよろめく。
私の腹部では、法衣の生地に赤い液体が滲み、染みを作りはじめていた。
次いでキャロルに視線を戻すと、その手に短刀を握っているのが見える。
刃に付着した血液は、そこにあらかじめ塗られていた無色の液体と混ざり、少しだけ赤い色味が薄まっていた。