3 安倍晴明陰陽理論物理学博士
大内裏は、国家の中心にあって祭祀機関や行政機関や司法機関の集中する特別な区画である。バイオサイバー平安京の北の中心地にあり、二官八省をはじめとした国家組織の生体素材ビルが林立している。他の街区とは電磁ネットや攻勢樹木防護壁によって区切られ、上空には偵察用半機烏が群れを成して舞っている。
陰陽寮とは中務省に所属する一組織であり、天文・時歴編纂・占いなどを担当する陰陽道と共に、物理学やバイオテクノロジーの研究をも担当している。古代中国で生まれた哲学思想が回りまわって現代の世界の姿を明らかにする研究機関としての性格をもつに至ったというわけだった。
頼光が入り口のゲートを潜ると、すぐに皮下に埋め込んだ身分証がスキャンされ認証と共に案内用のマーカーが頼光の視覚に表示される。頼光自身、戦闘のためにバイオ工学で身体を強化された生体サイボーグであり機械部品も交えて妖との戦いに備えるポストヒューマンとも言える存在である。視覚に情報を表示しているのは半機械の寄生副脳の働きだった。
案内に従い進むと、一部の人間しか使用できないエレベーターを経由して、地下の一室に通される。
「待っていました、源頼光」
和風の意匠の壁や床を埋め尽くす勢いでコンピューターやタブレット端末、実験器具や書類に塗れた室内に座していたのは、果たして陰陽寮一の有名人だった。真っ白い人工皮膚とチタン骨格が目に眩しい。彼はバイオサイバー平安の都においては珍しい、純機械サイボーグだった。
「安倍晴明博士。新たな兵器とやらを受領せよと言われたのですが」
安倍晴明陰陽理論物理学博士。陰陽道及び物理学の専門家として学びと研究に努め、自己改造を経て現代の量子論の形成にも大きな貢献を果たした傑物である。
頼光が用件を伝えると、安倍晴明は精巧な作りのカメラアイ――要するに両目――で頼光を数秒間じっと見つめた。恐らく何らかのスキャンを行っているのだろう。しばらくすると満足したのか、彼はさっと手を振って見せた。動作がコマンドになっていたのだろう、床の一部がせり上がり、中から細長い金属製の収納ボックスが取り出される。
晴明がキーコマンドを送信してボックスを開くと、中から出てきたのは一振りの太刀だった。
「これが、酒呑を倒すための、新たな武器?」
鞘も柄巻も美しい造りの美麗な太刀である。一目で業物であるとは知れるが――
「対地爆撃で倒せぬ鬼を相手に刀とは」
率直な思いを口にしながら柄に手を伸ばし、握る。
瞬間、表現し難い奇妙な感覚に襲われて頼光は一瞬身を固めた。目を見開き、緊張に筋を強張らせてしまう。
清明が、頼光の反応を予期していたとばかりに、タイミングよく告げた。
「刀があなたを見ている」
何を馬鹿な、と言いかけて、頼光は自身に走る感覚が正に誰かに注視されているような感触そのものだと悟る。
「その刀は、欧州の材料工学とこの国の生物工学の結集。刃は特異な、縮退物質に近い材質構造で、決して折れ曲がることなくあらゆる物質を易々と両断できる。ですが、これはこの太刀の本質ではありません」
「ではその本質とは?」
「この太刀――我々は仮に『血吸』と呼称しておりますが――の内部には、かつて死亡した、特殊相互作用の才覚を強くもった者の神経構造を中心とした身体構造が圧縮・内包されています。刀身や柄には知性化素材が混ぜ込まれ、人とは異なる感覚器のような役割を果たしている――つまり、周囲を観測可能な太刀というわけです」
「待て、なんだと? 死んだ人間?」
「ええ。あなたもよくご存じの、戦闘用多重世界観測相互作用ポストヒューマンの試験体の一人、YS27の体組織を元にしたものです」
頼光は思わず口を半開きにして、すぐ傍で同じように太刀を手に取るヤスと見つめ合った。どうやら向こうでは太刀の中に収められたのは頼光らしい。
こいつ斬っていいだろうか、と口パクで問う頼光に、ヤスは同じように声を出さずに今はやめておきましょう、と応答する。
「刀そのものが、一つの観測機であり、リラティブ・オブザーバーのような観測効果を発揮します。それも通常のオブザーバーよりも数段強く。それだけならず、この太刀はこれを握る者のもつ特殊相互作用と一体化して観測効果を強化できます。柄と無線通信を介して所有者の神経系と一体化することで」
「俺とこの太刀が一つになるというのですか」
「その通りです。そして、重要なことですが、誰が手にとっても良いというわけではない。同じだけの特殊相互作用の才覚なくば、一体化は成され得ない」
誰がこの悪趣味なことを考えたのだ。刀となったヤスと、俺の一体化などと。
じっとしていれば怒号を発しそうで、頼光はそれを誤魔化すために太刀を鞘から引き抜く。
散々最新鋭の兵器を見慣れた頼光ですら一瞬息を呑む、美しい刀身が顕わになる。小乱れの刃文に、板目の地金。幅の広い刀身に対して、切っ先はやや小さく、刃の反りは大きい。
「その協同観測刀・血吸があれば、酒呑童子の重ね合わせも破れましょう」
死んだ者の組み込まれた刀に、観測する刃。
一体どこまでこの世界は壊れれば気が済むのだろうか――頼光はなにか途方もなくふざけた物事を前にしている気分になって、刃を鞘へと戻す。
「確かに受け取りました」
太刀を手に下げ、ふと気になって頼光は清明に向き直る。
「あなたは理論物理が専門のはず。こんな兵器の製造なども担当しているのですか?」
「今は理論研究だけするということがなかなか難しいのです。特に私は優れた才をもつので、各所で力を発揮するよう命じられておりまして」
自分で言ったぞこいつ、とは思うものの、顔には出さずに我慢する。
「勿論今でも本職は理論物理ですが……それも、本当はしたくなどなかった」
「は?」
思わず今度は驚きと疑問が顔に出る。バイオサイバー平安京で最も有名な物理学の大家にして現代量子論の構築に多大な貢献を果たしたとされる陰陽物理学博士が何を言うのか。
「私が求めていたのは、確かな何か、です。世界の根底にあって絶対的で確かな存在の真相を知るためにこそ、この道を志した」
ほとんど無表情な機械の頭部にそれまでの淡々とした気配とは異なるものを漂わせて、清明はじっと頼光と視線を合わせていた。
「苦難や不幸の多いこの世界で、それでも確かな価値があると信じられればこそ生きていける。そう考える者は多い。私もそうでした。しかし、物理の道を探求して出てきたのは、逆の何かだった。不確定性原理に関係論的解釈……相互作用こそが物質や現象そのものであり作用無き場所にはものの状態も属性も語りえない。世界は稠密な物質と現象の集まりではなく、その場その場で相互作用において生起する相対的な現実の集まりである……量子論による世界像とは、何と捉えどころのないものでしょうか」
「博士は、それをこそ研究してきたんでしょう?」
「ええ。終始うんざりしながら、ですがね。確かな足場を失う世界に、私も、京の多くの人間も、倦んでいます」
カカ、と乾いた音が清明の口内スピーカーから響く。少し遅れて、頼光はそれが乾いた笑いのようなものだと気付く。
「あなたはどうです、頼光。無数の戦いに赴き、何度も死地を潜り何度も肉体を破壊されそのたびに生体サイボーグ化し、後継者と考えていた従者を失い、今は最強の鬼の討伐を命じられている。いい加減、うんざりしませんか?」
一瞬本気で、眼前のデリカシーを生身とともに失ったらしい博士を斬り倒そうかと考えて、結局頼光は無言のまま背を向けた。斬れば斬ったで、このあやふやな世界に倦んだ博士は喜びそうだと思えたからだった。
人は世界を何故価値と思えるのか。その基盤には、確かな世界が必要ではないのか。
向けられた問いは、既に頼光自身数えきれないほどに自問したことのある主題だった。
今更だ、とだけ考えて、頼光はその場を後にする。