1 酒呑童子
雪の降りしきる山中であっても、金剛界式エクソスケルトンとその下の伸縮性防刃防弾スーツの知性化樹皮素材を着込んだ身には、凍えをもたらす冷えた空気も肌に刺さる寒風もさほど気にはならない。大江山の山裾は既に雪に覆われ、葉を失った木立の黒と積雪の白だけで描かれた景色に、世界から色彩が奪われたような錯覚を覚える。
藤原保昌は手にした大口径ライフルをフルオートで射撃しながら、全ての仲間の動きをスーツ各所の小型視覚センサーで副視界に映し出して追っていた。高速で銃口から吐き出される弾丸が熱と膨大な運動量で降りしきる雪を溶かして貫通していく。
弾丸の突き進む先にいるのは、セーラー服に身を包んだ細い人影だった。女学生のような格好だが実際には少年であり、更に言えば少年や少女であるより先に鬼である。切り揃えた長い髪に小さな頭、赤茶色の大きな瞳に細く流麗な鼻筋、血色がよく傷一つない白い肌――人間離れした美しい容貌だが、その美しさの全てが今この場に全く似つかわしくない。
弾丸は全て、彼の眼前で掻き消えており、一粒たりとも命中していなかった。
『誘導を開始する、加害エリアから離れてろ』
仲間の一人が、保昌の銃撃を目くらましとして少年の逆サイドからレーザーを照射していた。すぐに、獣の唸り声のような音が降ってくる。上空の巨大な生体改造型爆撃鳥からレーザー誘導された対地ミサイルが飛来し、少年に直撃する。
破壊的な爆轟が積もった雪を猛烈な勢いで吹き散らし、その下の土や木の根ごと全てを焼き焦し衝撃で破砕していく。構わず保昌はライフルでの銃撃を続け、別の仲間も対物砲や小型ミサイルを各々爆発の中心に向けてロックし、撃ち放つ。
『リラティブオブザーバー、観測強度最大状態で相互作用範囲内に敵を捕捉中』
『熱衝撃波、ストームによる相互作用攪乱効果を貫通、対象の破砕を確認』
『対象の多重化を確認。対象は数名が死亡しつつ今も多重化を続けて増加中』
四人の仲間たち――保昌と共に戦う精鋭中の精鋭分隊、「頼光四天王」の各員が状況を報告する。敵を囲むように分散した仲間の背後には、地に突き立つように棺桶のような形状のポッドが幾つも設置されていた。リラティブオブザーバーが格納された人体観測機である。
「手を緩めるな、攻撃を続行しろ」
告げて、保昌は拡散する爆炎の向こうから再度姿を現す敵を見据える。黒焦げになりつつバラバラに飛散したはずの敵は、同時に傷一つない詰襟姿の少年となり、パーカーにジーンズの少年となり、浴衣姿の少年やミリタリーファッションの少年となる。
保昌の指示に、少年を取り囲んだ隊員たちはそれぞれ苛烈な攻撃を続けていた。エクソスケルトンのパワーアシストで提げ持ったミニガンが凄まじい弾雨を浴びせ、電磁加速ライフルが火薬式の弾丸を大きく超える運動エネルギーを投射し、対戦車ロケットが更なる爆炎を重ねていく。
保昌もまたライフルを手放し、特殊な目標同期用のスコープを取り出して敵に向けて覗き込む。同時に上空の生体戦闘攻撃機の内部に搭載された高度戦闘判断航空制御用人工生体・機械統合脳と視覚を同期して攻撃目標指示を行う。すぐに低空飛行で攻撃機が飛来し、対地攻撃用ミサイルが画像誘導で叩きこまれ、続けて機首付近に搭載された機関砲が雷のような振動音と共に大口径弾をおぞましい勢いで射撃する。
大地を地獄に変えんが如き異様な規模の集中攻撃がしばらく続き、保昌と同期した攻撃機が旋回を終えて再攻撃に接近し――突如、不可視の何かが敵から伸びてあっさりとその金属・生体複合の翼を貫いて折り飛ばした。続けて、攻撃を続ける仲間もまた同じような見えない刃を受けて、武器を破壊されたり跳ね飛ばされてエクソスケルトンを破壊されたりしていく。すんでのところでスコープを放り捨てて飛び退った保昌の眼前の雪が、ごっそりと切り裂かれるように消失する。
『目標、多重化しつつ残存』
無情な報告に舌打ちする。多数の観測機、オブザーバーを設置して相互作用効果を最大化した上での、保昌自身と頼光四天王という最高位の戦力を以てしての一気呵成の集中攻撃が破られれば、勝算がない。
「これでも死なぬか、量子鬼め――」
焦熱と炎の向こうで微笑みながら悠然と辺りを見回す美しい少年の、輪郭のぶれた、多重化した姿を睨んで呻く。
隊員のステータスが副視界の中で一気に負傷や装備故障を示しはじめ、無数の警告がポップアップする。引き際だと判断し、撤退の命を送信する。
「観測機は捨て置け! 支援用の無人機を投入する!」
先ほど落とされたのと同じ戦闘攻撃機をもう一機、自律判断戦闘モードでホバリング状態にして戦場に呼び寄せる。これで気のせいほどの時間は稼いでくれるだろう。
エクソスケルトンのモーターと生体追加人工筋をうならせて、できうる限りの速度でその場を離れながら、保昌は、そして周囲の四天王たちは、誰もが同じ思いを抱いていた。自分たち対妖最精鋭の戦闘部隊で駄目ならば、最早残された可能性は一つだと。
雪景色の中を疾駆しながら、京で最強のモンスタースレイヤーを思い浮かべ、しかし、と保昌は懸念する。
「あの鬼を切れるのか? 希代の脅威、嵐を手懐けし妖、量子鬼の『酒呑童子』を――」
*
ひたすら無限に続く凪いだ水面の上に、一人の男と巨大なモノリスがあった。男は水面に背筋を伸ばして立ち、漆黒のモノリスは宙に浮かんでいる。空は一面薄雲に覆われ、雲と水面はその間の空間と共に無限遠で一つに溶け合っている。
モノリスの表面は漆器になっており、蒔絵でいくつかの式が描かれていた。ニュートンの運動方程式、作用反作用の法則……古典物理に関する式ばかりが艶やかな黒いモノリス表面に金粉で描かれている。
(未だに朝廷はストーム以前の、いや、量子論以前の世界を忘れられないらしいな)
モノリスを見上げる男、四十をいくつか超えたあたりの齢の、厳めしい体躯と顔つきをした男は、顔に出さずに小さく嘆息した。
『頼光よ。先頃、保昌と四天王の部隊が敗走した』
モノリスが声を発する。男――源頼光は微かに眉をひそめた。頼光の側からは、モノリスの背後で誰が実際に声を発しているのかは分からない。通信に付与されたモノリス側のソーシャルクラスは頼光よりも高く、非対称通信の下では向こうに誰がいるかも分からない。検非違使庁のトップあたりかと頼光は考え、同時にそれ以上のところからの通信である可能性も考慮する。事の重大さを考えれば、あるいはこの国の最高位に座するお方の下位分散使役疑似人格も混ざっているかもしれない。
そうと分かっていて尚、頼光は我慢できずに抗議の声を上げていた。
「なぜ私抜きで行かせたのです」
手元に届いた情報によれば、保昌と四天王は死者こそ出なかったものの皆傷を負い、すぐに戦線復帰は難しいとのことだった。
「四天王も保昌もこの都で最高の量子妖魔討伐用戦力。私も共に出ていれば――」
『傷つき、鬼に背を向けて必死で撤退する者の数が一人増えただけであろうな』
有無を言わせぬ口調で断定され、頼光は出しかけた声の続きを喉の奥の唸りに変えていた。不満げな顔が見えているのかいないのか、モノリスは構わず続ける。
『お前を同道させなかったのは、一つは別の任についていたが故。またもう一つには、お前が恐らくこのバイオサイバー平安京の……もしかすれば列島や地球でも最強の特殊相互作用の力をもった決戦兵力であるからだ』
「買い被りでしょう」
『私もそう思いたいが、お前以上の測定値を出せる者は事実国内外広く調べてみても未だ見つかっておらん』
「だからと言って、ただ一人温存されても保昌の部隊以上の働きなど」
『今回の戦いで得たデータを基に、かねてより開発の進んでいた新たな兵装がようやく完成した。保昌たちが勝てなかったのは残念だが、元々こういう予定でもあったのだ』
新兵器を開発し、これを頼光に授け敵を討つ。モノリスの語ったプランは呆れるほどに単純だった。
データ取りのためにあの部隊を危険な死闘に赴かせたのか、と憤懣が湧き上がりかけるが、頼光は意識して深く呼吸し、自らを抑えた。何もかもが危機的な状況で、上の者も余裕がないことは分かっていた。
『既に最終的な調整を終えてこの新たな兵器は万全の状態にある。この通信と共に送る酒呑童子討伐の指令書を受諾した上で、陰陽寮に立ち寄り新たな兵器を受領せよ』
「……分かりました」
不承不承、了解し、送付された指令書を受け取り脳内ストレージに放り込む。史上最強と謳われる鬼、酒呑童子の討伐命令を。
酒呑童子について、頼光が知ることはそう多くはなかった。戦闘データを別にすれば、出自も来歴も不明なのである。かの鬼が何故、この都を襲い、また各地の打ち上げ場を破壊したり、軌道上のオブザーバー衛星を破壊するのか、はっきりとした理由は誰も知らない。
「酒呑童子は、一体何を考えて人の世に害を成すのでしょうか」
眼前のモノリスの向こう側にいる者たちならば何か知っているかと思いついて訊いてみる。しばしモノリスは黙した後で、『不明だ』と短く答えて、すぐに付け足した。
『不明だが、推測はできる。奴はこの「ゆらぎ」の世界では不死身に近い』
「保身のためだと?」
『此度の戦いですら奴は何人も死にながら無傷で何人も生き残った。不整合と不確定性に溢れた今の世は奴のような特殊な存在にとってみれば奇跡のような力を行使できる理想郷であるとも言える』
分かりやすい話ではあった。確かに酒呑童子にはそうした力がある。
頼光はしかし、モノリスの言葉が妙に断定を避けていることに微かな引っ掛かりを覚えていた。上からものを言うことに慣れたこの相手にしては奇妙に謙虚ではないか。特に根拠はないが、抱いた違和感を胸にしまっておく。
『なんにしろ、あの鬼が今の破壊的な活動を続ければ我々京の人間にも、それ以外の全ての人類にも先はない。ストームで滅ぶより先に鬼の手で滅ぼされることになる』
念押しのように、モノリスは音声ボリュームを僅かに上げて言った。
『混乱の世で、ストームに偶然部分的な適応を行った存在は妖として害をなす。だからこそお前たちバイオサイバー平安京が誇るモンスタースレイヤーが存在するのだ。お前のあの相棒、弟子の少年を死なせたのも、妖の類であったろう。酒呑童子もまた放置するわけにはゆかぬ』
頼光は、無神経な相手の言葉に、思わず隣を見た。そこには、存在していながら存在していない、死んでいながら死んでいない一人の少年の姿があった。人のよさそうな、いかにも素直で実直といった感のある、十代終わり頃の少年である。彼はモノリスの言葉――『彼の側』では彼こそがモノリスの話し相手であり存在しないはずなのは頼光だが――に苦笑して、頼光と同じように隣を見ていた。
これが今の世界だ、と頼光は考える。あまりに奇妙でぐらついた現実こそが。
「戦いに赴きます」
短く告げると、モノリスからの非対称通信が解かれ、通話が終了する。同時に相手が指定していた景色が全て掻き消えて、後にはただ凹凸の無い壁面と床と天井が残された。無限の空間などには全く及ばない、六畳ほどの小さな部屋だった。
光を失った壁面の液晶皮素材をしばし無言で見つめた後、頼光は自宅のVRルームから出て、外出の支度を始めたのだった。