第三章 過去の幻影【二】
エレベーターを降りた俺と伊織は、相変わらず俺の先導で零那の病室へと向かう。
零那の病室である東館の三〇二号室に向かう為には、エレベーターを降りてからまず左手に向かい、直ぐ突き当たる壁を右に曲がる必要がある。エレベーターは東側に入口があり、出た先は簡易的なホールになっている為エレベーター以外には何もない。左右のどちらに向かっても病室やナースステーションがあるが、目的の病室は東館北側の端から数えて二番目の部屋である。
俺がエレベーターホールを出て右に曲がった瞬間、何となく違和感を感じた。それは今朝リビングで感じた感覚に似ている。否――
俺の視界に移った人影を見て、俺はその感覚が今朝感じたものと同じものだと判断した。今朝も見たあの少女が、今朝と同じあの司祭服を着てそこに立っていたからだ。一瞬目が合ったと思った。だけどその次の瞬間には彼女の視線は目の前にある病室へと向いてしまう。それを理解した時には、彼女はゆっくりと病室の中に消えていった。
「どうしたの?」
突然足を止めた俺を不思議に思ったのか、そんな風に聞いてきた伊織の声で我に返った。
「いや、何でもない」
そう答えて足を動かす。そうして零那の病室の前までやってきて、さっきの少女が消えていったのが零那の病室だったことに気がついた。しかも、扉が開いてない。勿論誰も出入りはしてないし、扉が開閉された音も何もなかった。
……まあ、常識が当てはまる相手じゃないんだから気にするだけ無駄か。
そう頭を切り替えて、伊織に向き直る。
「それじゃあ俺は先に入るから、少しここで待っててくれ」
「はーい」
伊織の軽い返事に何となく嫌な予感がしたものの、一応大人しくしてると信じて目の前の病室の扉を叩く。
「どうぞー」
そんな零那の声が聞こえ、俺は扉を開いて中に入った。
「本当に来てくれたんだねっ」
病室に入った俺を出迎えたのは、嬉しそうな零那のそんな言葉だった。
「ああ。約束したからな」
「うん。ありがと」
満面の笑みでお礼を言われ、何となく気恥ずかしい気持ちになる。
「どういたしまして」
とりあえずそんな風に返したものの、照れが表に出てたのか零那はくすくすと笑い声を零していた。
「まあそれはそれとして、ちょっと人を連れてきたんだけど……紹介しても良いか?」
「……まさか、恋人?」
「そんな訳ないだろう」
どこか悲しそうに聞いてきた零那に、俺はそんな風に即答した。するとホッとした様に息を吐き、再び笑顔を浮かべる零那。
「誰?」
「俺の双子の姉。前にも零那に会わせろって言われたことあって、何となく恥ずかしいから断わってたんだけど……今なら時間が合わないとかってこともないし、断わり切れなくて」
前に会わせろと言われたのは本当だが、別に今日会わせろと言われたわけではない。とは言え、本当のことを言うわけにもいかないしな……
「へぇ〜。士朗にお姉さんなんていたんだ?」
「言ってなかったか? まあ、双子だから歳は一緒なんだけど、一応いるんだよ」
「あはは。何か嫌そうだね?」
「まあな。色々と苦労させられてきたからさ」
何て溜息を吐きながら言った刹那――
「へぇ、そうなんだー」
背後から、どこか冷たいそんな声が聞こえてきた。
「どうもー。私が士朗の姉の伊織です。よろしくね――」
俺の背中からひょいと顔を出して零那に挨拶をした伊織だったが、その語尾が不自然に切れた。
不思議に思い後ろを見ると、やけに複雑そうな表情を浮かべる伊織の姿があった。
「斎 零那です。こちらこそよろしくお願いします」
零那の返事は普通だ。おかしいのは伊織だけ。
「どうかしたのか?」
「……うぅん、何でもない」
そう答えて、伊織は俺の背中から逸れて零那の正面に立つ。
「ごめんね、無理矢理押しかけてきて。士朗が通い妻してる相手を一度は見ておきたくて」
「通い妻って何だよ……」
「うん、納得した。零那ちゃんくらい可愛い子だったら、士朗が骨抜きにされてもしょうがないかな」
俺の言葉を無視して続けたそんな言葉も、やっぱり納得のいかないものだった。
「別に骨抜きになんてされてない」
「まあまあ。私が可愛いのは事実なんだから良いでしょ?」
「零那も悪ノリするなよ……」
「えーっ。それじゃあ士朗は私が可愛くないって言うの?」
「いや、そう言うわけじゃないけど……」
駄目だ。この二人が揃うと手に負えない。何で初めて会ったのにこんなに息が合ってるんだよ……
「って言うか、何時の間に中に入って来たんだよ?」
扉の開く音はしなかったと思うんだが……
「入ったのはついさっきだけど、扉は士朗が閉めようとしたのを途中で止めておいたの。だから殆ど最初から二人の様子は見てたことになるわね」
「うん。だからずっと誰だろうって思ってたんだ」
伊織の言葉にそう続ける零那。
「……ああ。だから恋人かとか聞いてきたのか」
俺は相手が男とも女とも言ってない。それなのに恋人って思ったってことは、相手が女だって言うのが分かってたってことだ。最初は当てずっぽうかと思ったけど、伊織の姿が見えてたなら納得だ。
「そう言うこと」
なんて、なぜか嬉しそうに零那が答えた。
「さて、と……私はそろそろ戻らないと」
「え? そうなんですか?」
せっかく知り合ったのに大した話も出来ていないことを寂しく思ったのか、零那がそんな言葉を漏らした。
「うん、ごめんね。私次の講義もあるから。士朗は確か三限は空いてたわよね?」
「ああ」
って言うか何で知ってるんだ?
「気にしちゃ駄目よ」
「って、心の声を読むなよ!」
「何のこと?」
……駄目だ。いや、本当に気にしたらいけない気がしてきた……
「まあ、士朗の考えてることくらい分かるってこと。意外と顔に出るタイプだしね」
「……そうか」
「因みに、士朗の履修状況は全部把握してるからね」
「おいおい……って、でもたまに聞いてくるよな?」
「流石に休講とかまでは知らないもの。そういったことを含めて一応の確認。それと、弟との円滑なコミュニケーションの為の手段?」
「いや、疑問系で言われても……まあいいや。それじゃあ、俺はしばらくこっちに残るってことでいいのか?」
「そう言うことは女の子の前で聞かない。例え理由があってもね」
「そんなもんか……?」
「そんなもんなの。ね? 零那ちゃん」
「えっと……はい」
うーん……まあ、二人ともがそう感じるんならそうなのかもな。気をつけよう。
「それじゃあ、またね」
そう言って踵を返す伊織。下まで見送りに行こうかとも思ったが、そのままここで見送ることにした。何となく、伊織もそうして欲しいんじゃないかと思ったからだ。
「いいの?」
伊織の姿が見えなくなった所で、零那がそんな風に聞いてきた。
「ああ」
どうやら気を遣わせてしまったらしい。零那にも、それに伊織にも。
多分、あいつは次の講義をサボるつもりだろう。俺が襲われても直ぐに助けに来れる様に、近くで待機してるつもりなんだと思う。
「所でさ」
何となく暗い雰囲気になったのを払拭する様に、明るい口調で零那がそう切り出した。
「ん?」
「最近は何か面白いことあった?」
「面白いことねぇ……正直特にないな」
「えー。それじゃあ話が広がらないよ」
「悪い」
まあ、全然面白くないことならあったんだけどな……
「よし! それじゃあ私がとっておきの話をしてあげる!」
「とっておき?」
「うん! ここ最近の病院内の話。色々と進展があったんだよー」
「そうなのか? そりゃあ楽しみだな」
「あのね――」
……それから嬉々とした表情の零那の話を聞き、四限に間に合う時間には零那の病室を後にした。
「もういいの?」
病院の入口には案の定伊織がいて、顔を合わせるなりそう尋ねてきた。
「ああ。ありがとうな」
「いえいえ。それじゃあ戻りましょうか」
「ああ」
伊織の言葉に頷き、俺たちは来た時と同じ様に一緒にバスに乗り、大学まで戻った……