第二章 刻まれた記憶【三】
斎 零那。
東光学園大学病院の特別個室に入院している十六歳の女の子。
色素が薄い為人一倍白い肌をしていて、どちらかと言えば小柄。顔立ちは整っているが、美人と言うよりは可愛い感じの娘だ。大人しそうな雰囲気をしているものの、見た目程柔らかな性格ではなく割りと活発な所もある。言いたいことがあればハッキリと言う娘だ。だが、心の根本に哀しみを抱えているのかもの凄く寂しがりやでもあり、割と泣き虫なところもある。
髪は短い。入院生活を長くしていると、髪が長いと大変なだけだと以前言っていた。衛生面などから染めたことも脱色したこともない黒髪を、俺は綺麗だと思うが本人は髪を染めることに興味を持っているらしい。
幼い頃から入退院を何度も繰り返してきた彼女だが、中学に上がった頃からは一度も退院していない。
そう……ちょうど、俺と出会った頃から……
零那と出会ったのは、中学三年に上がって直ぐのことだった。学校からの帰り道、車に轢かれそうになった猫を助けた時に大怪我をした俺は、全治六ヶ月の入院生活を送ることになった。その時に入院したのが東光学園大学病院。そして、同じくそこに入院している零那と出会ったわけだ。その出会いは、本当に偶然だった。俺が怪我をしたのは腕だったから、それなりに動き回ることは出来た。勿論安静にしている様には言われていたが、ただ病室でぼぉ〜っとしているなんて性に合わない。だからこそせめてもと思い病院内を散歩していた。そんな途中で、同じ様に暇を持て余し病院内を歩き回っている零那と出会ったのだ。
同年代の話し相手が見つかったと、お互いに喜んだと思う。それになぜか、俺たちはウマが合った。持っている知識はお互いに違っていたものの、考え方そのものが似ていたのだろう。どこの病室の誰が看護師の誰に手を出したとか、あの先生は実はいつも病院で酒を飲んでるだとか、事実かどうかなんてまったく分からない噂話で良く盛り上がったものだ。
完治するよりも早く俺は退院することになり、零那は自分のことの様に喜んでくれた。でも、その時にはそれが零那の本心じゃないということに気付けるくらいにはお互いのことを理解していた。いや、喜んでくれたのは間違いなく本心ではあったと思う。だけど、その裏には彼女の寂しさや哀しみと言った感情が隠されていると、俺はひしひしと感じていた。だからこそ、俺は彼女と約束を交わした。
「出来る限り頻繁に、お見舞いに来るから」
笑顔の裏に涙を隠していた彼女に、俺はそんな風に言ったんだ。
初めの頃はそれこそ毎日の様に来ていたが、高校受験を控えていた為じょじょにお見舞いの頻度は減った。それでも週に一回は必ずお見舞いに来る様にしていた。それを零那も望んでくれていたし、俺自身も彼女と会うのを楽しみにしていたからだ。
そうか……零那と出会ってから、もう直ぐまる五年が経つのか……そう考えると、よくまあこんなにも付き合いが続いてると思う。実際問題、俺と零那には何の繋がりもなかったんだから。
――気がつけば、もう病院の目の前に辿り着いていた。駅から病院までは歩いて十分くらいの距離にある。病院から大学に行くにも構内経由の循環バスが出ているが、十分程はかかる。今日の一限は捨てだな。まあ出席日数に問題はないから大丈夫だろう。
そんな結論を出して、俺は病院の中に入った。
お見舞いの手続きを済ませ、何度も足を運んだ慣れた道程を進む。東館の、三〇二号室。そこが零那の病室だ。
迷うことなくその部屋に辿り着き、俺は軽くノックをして直ぐに病室の扉を開いた。
「士朗?」
「ああ」
聞き慣れた零那の呼びかけに、俺はいつも通り簡潔に答えた。だが振り返った零那の表情は険しい。
「どうかしたのか?」
「前にも言ったと思うけど、ノックして直ぐに扉開けるの止めてくれないかな?」
少しだけ尖った口調でそんなことを言う零那。本人は凄んでるつもりなのだろうが、全く怖いとは思わない。むしろ微笑ましいくらいだ。
「ノックの意味ないと思わないの?」
「悪い悪い。つい癖で」
「本当に悪い癖よね、それ。で、直す気はあるの?」
「一応は」
「一応じゃダメっ。今度からは絶対に気をつけてね!」
「……分かったよ。気をつける」
その言葉に嘘はない。それを感じ取ったのか、零那はコロリと表情を笑顔に変え口を開く。
「いらっしゃい、士朗」
「ああ。調子はどうだ?」
「いつも通り。良くなってもないし悪くもなってないよ」
どこか自嘲染みた口調で苦笑を浮かべる零那。正直、零那にそんな顔をして欲しくはない。だからと言って俺にどうこう出来るわけでもない。少なくとも、今の所は……
「元気出せよ」
今出来るのは、ただ零那を励ますことくらいだ。まあ、その為にこうして足を運んでるわけだしな。
「私は元気だよ?」
「そうか? ならいいんだけどな」
深くは言及しない。零那が元気だと思っているのなら、それを不安に変える必要はないんだから。
「ねえ士朗、このあと学校だよね?」
「ああ。そうだけど……」
零那がこんなことを聞いてくるのは珍しい。その口調がどこか寂し気なものだったから余計に、俺は零那のその言葉が気にかかった。
「どうかしたのか?」
もしかしたら、やっぱりどこか悪くなったのかもしれない。そんな不安に駆られながらも、何とか平静を装って問いかける。
「うぅん、別にどうもしないよ。ただ、もうちょっと士朗と一緒にいたいなって思っただけ」
ドクンッ
その言葉を聞いた途端、胸の鼓動が高鳴った。それは一瞬だったものの、確実に俺の中で何かが変わった。
零那の甘い言葉に驚いた。それは事実だ。だけどそれだけじゃない。何か、俺が抱いているのとは別の感情が生まれたかの様な、そんな感覚……
「士朗?」
「何でもない」
俺の様子をおかしく思ったのか、心配そうに俺の顔を見つめる零那。俺は何とかそんな風に言葉を返し、これ以上心配させまいと言葉を続ける。
「昼にまた来る。それじゃあダメか?」
「え?」
俺の言葉に驚きの表情を浮かべる零那。そんなに意外なことを言ったつもりはないんだけどな……
「嬉しいけど……いいの?」
「ああ。あんまり長くはいられないと思うけど……それでも、零那に会いに来るよ」
それを零那が望むなら――いや、もしかしたら俺がそうしたいだけなのかもしれない。そうじゃなかったら、わざわざ毎週見舞いに来たりはしない気がする。
士朗は、その娘のこと好きなの?
今朝伊織に問われた言葉を思い出した。
もしかしたら、その言葉は真実を捉えていたんじゃないだろうか。今は、そんな風にさえ思える。
「ありがとうっ。士朗!」
昼も来る。たったそれだけの約束で、零那は今日一番の笑顔を俺に向けてくれた。
零那が元気になってくれるなら、零那が嬉しいのなら、俺も嬉しい。
だから、約束は守る。守らないといけない。いつもよりも強くそう心に誓い、俺はいったん零那に別れを告げ病室を後にした。
また昼に。そんな言葉を嬉しそうに聞く零那を置いて――
俺は、病院から大学へと向かった。
ずっと、俺を監視する視線があったことにも気付かずに……