第二章 刻まれた記憶【二】
良い目覚め……とは言えないが、それでもいつもの様に起きようとしていた時間の五分前に目が覚めた。
今の今まで見ていた夢を思い返す。
人を殺す夢――ある意味悪夢とも言えるその夢の内容。そしてその相手の名前……
エルトリア=バルドバース。昨夜、俺を殺すと言った女の名乗った名前。
伊織の話を本気で信じたわけじゃなかったが、あんな夢を見たとなるとそうも言っていられない。
勿論、あんな出来事の後にあんな話を聞いたから、俺の脳がそれを整理する為に見せた夢とも取れないことはない。だが……
その夢が、あまりにリアル過ぎた。
鼓動の高鳴り、人を殺したという事実を突きつけられた焦燥感。人の肉を斬った時の感覚からくる嘔吐感と、自分への嫌悪感。それら全てが、今もまだ俺の中に残っている。夢を見ていた時程じゃないのがせめてもの救いだ。そうじゃなかったら、今直ぐにでも吐いていたかもしれない。
「士朗、まだ寝てるのー?」
扉をノックする音と同時に、そんな声が聞こえてきた。伊織の声と似ているが、この声は伊織ではなく母さんの声だ。
「大丈夫。起きてるよ」
「そうよね。士朗が起きてないわけないわよね」
そう言って扉の向こうで苦笑を漏らす母さん。
「下に降りて来ないから、少し心配になっちゃって」
ああ……そう言えば、木曜日はいつもならもう直ぐ家を出る時間だ。
「今日は普通の時間に行けば大丈夫だから」
「そうなの? それじゃあ母さんたちはもう行くけど、二度寝したりしちゃダメよ?」
「しないよ……」
まあ、母さんもしないって思ってるんだろうけど。扉の向こうから微かに笑い声がするから間違いない。
「それじゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい」
扉越しのそんな会話を終え、俺は一息吐くとベッドから起き上がった。
普通の時間に行けば大丈夫。その言葉に嘘はないが、真実と言うわけではない。毎週木曜日は、大学に行く前にある場所に寄っている。寄らなければいけないわけじゃなく、あくまでも俺の意思で。だが、正直今日は行く気が起きない。そう分かっていたからこそ、こうして講義に間に合うくらいの時間に起きることにした。
着替えを済ませ、部屋を出る。リビングに向かうべく階下に降りると、階段の下で伊織と出くわした。
「あ……」
何と声をかければいいのか分からず、ただ息を漏らしただけの様な掠れた声を出してしまった。だがそんな俺の様子など気に留めた様子もなく、伊織はいつも通りの笑顔を浮かべ「おはよう」と挨拶をしてきた。
「ああ。おはよう」
だからこそ、俺も何とかいつも通りにそんな言葉を返すことが出来た。
「伊織も一限からだっけ?」
「うん」
そんな調子で続けたいつも通りの会話。
「それじゃあ、今日は一緒に行くか?」
今俺は日常の中にいるのだと、そう実感し安堵さえ覚える。
「うーん……そうね。八時でいい?」
伊織と一緒に大学に行くことはあまりない。が、全くないと言うわけでもない。だからこそこの会話は自然であり日常と言える。
「ああ。それじゃあ後でな」
「うん」
そんな会話を経て、俺たちはそれぞれの準備へと戻る。伊織はもう食事を済ませたのだろう。二階に戻って行ったから自分の部屋で身支度を整えるんだと思う。
俺は洗面所へと向かい顔を洗うと、リビングへと入った。両親が家を出て伊織が部屋となると、そこには誰もいない――はずだった。
そのありえない状況に、俺は思わず言葉を失ってしまった。
リビングのほぼ中央――テーブルの奥に、一人の少女が立っていたからだ。亜麻色の短く切りそろえた髪。小柄で華奢な身体つき。優しそうな瞳。白い生地の清楚な服――司祭服とでも言うのだろうか。シスターなんかが着ているのとは違う、ファンタジーものなんかに出てくるクレリック系の服だ――を着ている。
その慈愛に満ちた瞳を僅かに哀しみに染め、こちらをじっと見つめてくる。
会ったことはない。だけど、俺はこの娘を知っている……
見たことがあるのか? いや、本当はどこかで会っているのかもしれない。
「…………」
俺は何も言えないし、動けないでいる。彼女もまた、何も語らず動く気配もない。いや、そもそも彼女は本当にここにいるのか?
そんな疑問を覚えると同時に、彼女の姿が揺らいだ。
「なっ」
驚きのあまり声を上げてしまったが、そんなことは関係なしに姿が――存在が薄くなっていく少女。そしてその姿は、一分も経たずに完全に消えてしまった。
「……一体何だって言うんだよ」
一人そんな呟きを漏らしてはみるものの、勿論それに答えが返ってくるわけもない。
少しの間呆然と立ち尽くす俺だったが、ふと我に返り時計を見る。
七時半を回っていた。あの少女と見つめ合っていたのはものの数分だと思ったのに、どうやら二十分程が経っていたらしい。起きたのが七時頃だから、リビングに来たのは十分くらいだったはずだからな。
……今はそんなことを考えてる場合じゃないか。遅れたら伊織に文句を言われるのは必至だからな。
そう頭を切り替え、朝食を取るべくダイニングや冷蔵庫の中を漁ってみる。
「……何もないな」
いや、正確には用意された食事がない。材料ならあるんだけど……
伊織に頼むか? いや、今から作ってもらっても時間がないか。仕方ない。今日はパンでも焼いて食べるか。
ダイニングテーブルにほぼ常備されている十枚切の食パンを二枚取り、オーブンに入れて焼く。そのまま食べてもいいんだけど、せめてトーストくらいにはしないとダメな奴な気がする。そんなわけでパンが焼けるまでの間にインスタントコーヒーを作ってみる。たったこれだけのことでも、何となく自分で飯を用意したって気になるから不思議なものだ。
……ただの自己満足とも言えるが。
トースト二枚とホットコーヒーを一杯。はっきり言って物足りないが、時間的にもこれくらいが限界だ。
使った食器を洗い、部屋に戻って荷物を用意する。忘れ物がないかチェックした所で、時間は七時五十五分。部屋を出ると、ちょうど伊織も部屋を出てきて廊下で出くわした。
「準備出来たの?」
「ああ」
「それじゃあ、このまま出ましょうか?」
「そうだな」
淡々とそんな言葉を交わし、俺たちは揃って玄関へと向かった。一応リビングなどの戸締りも確認してから、外に出る。伊織は先に外に出ていて、俺が出たのを見計らって玄関の鍵を閉めた。
「よしっ」
なぜか誇らしげにそんな言葉を発する伊織を無視して、俺は駅へと向かって歩き始めた。伊織も特に俺に向けて言ったわけじゃなかったらしく、何も追求せずに俺の後に続く。
アーケード街に入るまでは、お互い無言だった。いつもなら無駄に話しかけてくる伊織が黙っていたせいだが、その雰囲気に俺も声をかけることが出来なかったからだ。だが、アーケードに入った辺りで、意を決したのか伊織が沈黙を破った。
「士朗」
「ん?」
出来る限り素っ気なく――と言うか普通っぽく、そんな風に聞き返す。
「昨日の続き……少しだけいいかな?」
それはこっちこそお願いしたいくらいだ。だけど……
「こんな所でか?」
「大丈夫。大したことは言わないから。昨日も言ったじゃない? 私たちの共有する思い出話とか、ちょっとするだけだから」」
「そうか……歩きながらでいいよな?」
「うん」
そんな風に頷いて、伊織はぽつりぽつりと前世の記憶を語り始めた……
ルナファリス=レイニーブルー。
伊織の前世の名前。
俺の前世だと言うリーヴスの一つ年上の女性で、リーヴスとは幼なじみ。
ファナリリアと言う名前の妹がいて、三人は良く一緒に遊んでいたそうだ。
いつしかリーヴスとファナリリアは恋に落ち、やがて恋人となる。二人は結婚の約束をしたものの、戦争が始まりリーヴスが徴兵されたことで式を迎える前に二人は離れ離れになってしまった。
いつか戻ると約束したリーヴスだったが、結局その約束は果たされなかった。リーヴスが、戦場で散ってしまったことによって。
その頃には想刻術の使い手であるルナファリスも徴兵されていた為、ファナリリアの当時の様子は伊織も分からないそうだ。だが、報せを聞いて何とか故郷に戻ったルナファリスを待っていたのは、既に敵の手に落ち無残な姿を晒す故郷の様子だったらしい。そこには生きている者などいるはずもなく、だからと言って死体が転がっているわけでもなかった。廃墟――そう呼ぶに相応しい場所。それが久し振りに見た故郷の姿。
一体何があったのかは分からないし、ファナリリアがどうなったのかも分からないまま、ルナファリスは戦場へと戻された。
それ以上のことを伊織は語らなかったが、おそらくは伊織も――ルナファリスもその後に命を落としたのだろう。
思い出話を語ろうとしていた伊織を制し、リーヴスが命を落としてからのことを聞いたのは俺の意思だ。知りたいと思ったのは、ファナリリアのこと。そして、戦争の末のこと。結局知りたいことを全て知ることは出来なかったが、俺は不安と安堵の両方を感じていた。
ファナが戦争で命を落としたとは限らないから。だがそれと同時に、故郷の滅びと共に命を落とした可能性もあるから。
……無意識に、そんな風に考えていた。
「ファナ……?」
自分の思考に疑問を覚え、気がつけばそんな言葉を漏らしていた。
「ファナのこと思い出したの?」
「え? いや、そういうわけじゃないんだけど……」
ファナリリア。その名前を聞いて、俺は自然とファナと言う呼び方を思い浮かべた。それと同時に、朝リビングで見た少女の姿を思い出した。
ファナリリア=レイニーブルー。リーヴスの婚約者……
「そう……」
どこかホッとした様な、それでいて残念そうな声で呟く伊織。だが、そんな伊織に気をかけていられる程俺の心中に余裕があるわけではない。
一秒。
一分。
ほんの少しでも時間が経つにつれ、俺の中でファナと言う少女の存在が大きくなっていく。と同時に、リビングの少女の姿がハッキリと脳内で色を帯びていく。
あの娘がファナなんだと、なぜか確信が持てた。
気がつけば大学の最寄駅に電車が到着し、俺たちは電車を降りた。
「士朗、今日何限までだっけ?」
「四限までだけど?」
「良かった。一緒だ」
「それがどうかしたのか?」
「一緒に帰ろうと思って。ほら、帰りにあいつに襲われるかもしれないし」
そうか……いつどこで襲ってくるかなんて分からないからな……
「分かった。それじゃあお互い終わったら連絡するってことでいいか?」
「うん」
そんな会話を終える頃には、俺たちは改札を潜り駅を出ていた。ここから大学構内に向かうバスに乗って十分程で大学に着くんだが……
「伊織」
「何?」
「俺、やっぱ病院寄ってく」
「え? 士朗どこか悪いの?」
「違う違う。いつものお見舞いだよ」
毎週木曜日の朝。俺は病院へと足を運んでいる。今日は止めておこうと一度は思ったが、やはり行った方が良いと思えてきた。いや、違うな……
なぜかむしょうに、あの娘に会いたくなってきた。
「ああ……士朗が入院した時にお世話になったって言う娘の所ね。そう言えば今日は木曜日か」
「ああ。昨日あんなことがあったから、今日はそんな余裕ないと思ってたんだけど……随分落ち着いたし、顔出さないと不安がるからさ」
前に一度行かなかった時は、その次の週には泣かれたくらいだからな。
「前から思ってたんだけど……士朗は、その娘のこと好きなの?」
軽い口調。だが、思わず振り返った俺の視線に映ったのは酷く哀しげな伊織の表情だった。
「……分からない」
伊織の悲痛にさえ思える表情を見た俺は、何故かハッキリと否定した方が良いと思った。だけどそれ以上に、嘘をついたらいけない。そんな思いに駆られ、正直な気持ちを打ち明けた。
「可愛い娘だと思うし、気にならないって言えば嘘になる。だけど、それが好きって気持ちと直結してるとは思わない」
「……そっか」
「まあ、お見舞いに行くって言うのは、あの娘との約束でもあるからさ」
誰かと交わした約束は、極力守る様にしている。それを知っているからこそ、伊織もそれ以上は何も言及してこなかった。
「それじゃあ、また後でな」
「うん」
ちょうど構内へ向かうバスがやってきたのが見え、バスロータリーへと小走りで向かっていく伊織の背中を見つめ、伊織を乗せたバスが見えなくなるのを見送ってから俺は病院へと向かって歩き出した。