第二章 刻まれた記憶【一】
その場を支配していたのは、ただただ時が過ぎ去っていく沈黙。俺は伊織が話し始めるのを待っているだけ。伊織は何から話そうかと悩んでいるのか、なかなか話し始めない。
駅前のアーケードで謎の女に命を狙われてから、既に一時間以上が経っている。時間は夜の十時を少し過ぎた頃合。家に着いてからリビングのソファに向かい合わせに座った俺たちだったが、それからもう直ぐ一時間が経ちそうだ。それだけの間沈黙が続いたのも珍しいと言うか奇跡に近い様に思える。だが、それだけ伊織が語ろうとしていることは重く真剣なものなのだろう。だからこそ、俺もチャチャを入れずに待っている。
「士朗はさ」
ふと、伊織の口からそんな言葉が紡がれた。勿論それで言葉が終わるわけがなく、俺はその続きを静かに待つ。
「前世――って言うか、生まれ変わりとかって信じる?」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ……
「そんなの――」
「信じてない。って顔してるわね」
俺の言葉を遮って、その続きを言う伊織。そりゃあそうだろう。いきなり前世とか生まれ変わりとか言われてもな……そもそも、一体それがさっきの出来事と何の関係があるって言うんだか。
「うーん……士朗って意外と鈍感?」
「なっ……いや、まあ自分では何とも言えないな」
そんなことはないと思いたいが、今までにも何度かそんな風に言われたことあるからな。
「これから話す内容はね。前世とか、生まれ変わり――輪廻転生って言われてる出来事が実際にあることが前程になってくるの。だから、今はとりあえずあるって思って聞いて?」
急にそんなことを言われても、自分の認識をそう簡単に変えることなんて出来ないけど……とりあえず話を聞かないことには何も解決しない。そう思って、俺は黙ったまま頷いて見せた。
「私や士朗、それにさっきの人はね。昔――前世では、こことは違う世界の住人だったの。その世界では大きな戦争が起きていて、人の死が常に隣り合わせに存在していた。私たちは戦争の途中で死んでしまったから、結局その結末がどんなものだったのかは分からないけど……ただ、今も前世の記憶や力を持っていて、戦争の続きをしようとしている人たちがいる。さっきの人みたいにね」
淡々とそんなことを言う伊織だったが、勿論そんな話を簡単に信じられるわけがない。しかし輪廻転生と言うものが実際にあるとするならば、さっきの女の言動も少しは辻褄が合ってくる。
「なあ伊織?」
「何?」
「仮に輪廻転生ってのが本当にあるとしよう。伊織の言ってることが事実だとも。それはひとまず置いておくとして、さっきの変な力は一体何なんだ?」
伊織は、前世の記憶と力を持っていると言った。なら、さっきの魔法染みた力は前世の伊織が持っていた力なのだろう。そう判断することは出来るが、それはあくまでも伊織の言葉を信じるなら。というのが前程になってくる。それでも伊織が不思議な力を使ったのは事実だ。
「あれはね、人の想いを力に変える術で、想刻術って呼ばれてるものよ」
人の想いを力に変える? どういうことだ?
「私の前世はその想刻術の使い手で、それで戦場に駆り出されていたの」
俺が内心浮かべた疑問など当然お構いなしに、伊織は自分の言葉を続ける。
「私は士朗の前世――リーヴスよりも長く生きたけど、遠い戦場にいたせいでその死に目には立ち会えなかったわ。それが悔しかったからかな、今こうして貴方といられるのは」
そう言いながらいつもとは違う、はにかむ様な微かな笑みを浮かべる伊織。その表情がどこか別人の様に見えて、正直惹き込まれてしまった。それが妙に恥ずかしくて、俺はふと思い浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「ところでさ、どうして俺がそのリーヴスって奴の生まれ変わりだって分かるんだ?」
伊織にしろ、さっきの女にしろ、俺自身にそんな自覚はないのに、まるでそれが当然の様に俺をリーヴスと呼ぶ。
「うーん……何でだろうね? 何となく――としか言い様がないんだけど、どうしてか自分の中では確信してるんだよね。多分、さっきの人もそうなんだと思う」
「理由はないのかよ……間違いって可能性はないのか?」
「ゼロ。とは断言しないけど、まず間違いないと思う。私が想刻術を何の迷いもなく使えるのと同じで、士朗をリーヴスだと思えるから」
「そうか……」
そんな風に言われると、俺としてはもう何も言えない。
だけど、俺はどうすればいい? 伊織の話を信じることは正直出来ない。それでも、俺が襲われたという事実があり、伊織が変な力――想刻術とか言う術を使っていたのも事実だ。そして何よりも……
「何となく……今の話が本当なんだって、頭の隅で判断してる俺がいるんだ」
「多分、それがリーヴスの記憶なんじゃないかな? 今はまだ覚醒していないけど、士朗は間違いなくリーヴスなんだから」
「そうなのかも、しれないな」
まだ信じきれない。だけど、信じる他になさそうだ。
「かもじゃなくてそうなんだって!」
そんな俺を後押しするかの様に、明るくそんな風に声を上げる伊織。
「……それで、俺は一体どうすればいいんだ?」
伊織に聞いて答えが分かるのかどうかは微妙だが、少なくとも解決の糸口くらいは掴めるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてそう尋ねた。
「さっきも言ったけど、士朗には知って欲しくなかったんだよね。そうすれば、私が頑張れば士朗は士朗のままでいられただろうから」
「それってどういうことだよ?」
「……私だって、物心ついた時から前世の記憶があったわけじゃないってこと」
それはつまり、突然自分ではない誰かの記憶が――人一人の一生分の記憶や想いが入り込んできたということなんだろう。それを示唆するだけの哀しみを帯びた声と表情で、伊織がぽつりと呟く様に漏らしたことからそれが伺えた。
「だからこそ、士朗には知って欲しくなかったの。記憶の混乱もそうだけど、それよりもその先に待っている現実に直面して欲しくなかったから……」
その先に待っている現実? どういうことだ?
「でも、今は少しでも早く覚醒出来る様にした方が良いかもしれない。勿論士朗のことは私が守るつもりだけど、この先ずっと一人で守り続けられるとは限らないし」
それはつまり、俺自身にも戦う力が必要になる時が来るかもしれない。そういうことか……
まあ、当然と言えば当然か。狙われているのは俺の命だ。自分の身も守れない様じゃあいつ命を落としても不思議じゃない。何せ、この先俺を襲ってくる奴があの女だけとは限らないんだからな。
「それで、どうやったら覚醒ってのが出来るんだ?」
「それは分からない。私の場合は自然にその時が来たし……私とリーヴスの共有する思い出話をすれば触発されて覚醒するかもしれないし、何か外的なショックを与えれば覚醒するかもしれないし……」
外的なショック? 何だか凄く可哀そうな奴を見る目を向けてくるのはどういうことだ? 何だか凄く嫌な予感がするんだが……
「とりあえず、今日のところはもう休まない? 術を使ったせいで結構疲れてるし」
「そうなのか? まあ、もう直ぐ父さんたちも帰ってくるだろうしな。余計な心配はかけない方が良いか」
「うんうん。それじゃあ士朗、おやすみなさい」
そう言って踵を返し、リビングから去ろうとする伊織。だが、俺はまだ伊織に言わなければいけないことがある。
「伊織」
だから、俺はその名前を呼んだ。伊織が俺のことをリーヴスと呼ばない様に――いや、伊織がどう考えて俺を士朗と呼び続けているのかは分からないが、それでも俺にとって伊織は伊織であって、決して名前も知らない前世の人間じゃない。だからこそ、伝えていないあの言葉を伝えなければならない。
「どうしたの?」
俺の呼びかけで伊織は立ち止まり、こちらに振り返った。
「助けてくれて、ありがとう」
伊織がどんな真意を持って助けてくれたのかは分からない。だけど伊織が俺を助けてくれたことは確かな事実で、俺が伊織にお礼を言うには十分過ぎる出来事だ。だからこそ、その辺を疎かには出来ない。
「――うん」
何を考えたのかは分からない。だけど一瞬の間を置いて、伊織はそんな風に答えた。
ただ頷いただけ。だけど、それだけで俺の感謝の気持ちが伝わったのだと理解出来た。それくらいは分かるくらいに、俺と伊織は同じ時を過ごしてきた。
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
伊織は再び踵を返し、今度こそリビングを後にした。
俺はその背中が見えなくなるまでの数秒間立ち尽くし――いや、見えなくなってからもしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
それから両親が帰ってくるまでは三十分とかからなかったが、それまでの間リビングでずっと思考を巡らせていた。俺自身のこと、これから先のこと。前世、今も続いている戦争……
考えることはいくらでもある。両親の帰宅に合わせ自分の部屋に戻り、再び思考を巡らせている内に、いつの間にか眠りに落ちていた……
――気がつけば、ただひたすらに大声を上げながら駆け抜けていた。
右手には一振りの剣を握りしめている。そのせいか上手く走れていない。だけどそんなことはお構いなしに、俺はただ走り続ける。
腕が振られる度に同時に揺れる剣の先からは、その勢いに乗って血が飛び散っている。鮮血……
ほんの少し前に、俺が斬った人間の血……
初めて人を殺した。
気がつけば始まっていた戦争。
気がつけば戦場に駆り出され、戦うことを強要されていた。
運が良いのか悪いのか、剣の腕にはそれなりに自信があった。そのおかげでこれまで生き抜いてこれたのだから良かったのだろう。だが、そのせいでこうして人を殺すハメにもなった。
今までは適当にあしらうことが出来たんだ。相手も訓練された軍人などではなく、俺みたいに無理矢理徴兵された人間の様だったから。
だけど、さっきの相手は違う。
軍人――なのだろう。相手国の。それもかなり訓練の行き届いた……
本気で戦わなければ、殺す気で剣を振るわなければ、俺が殺されていた。それが、ハッキリと理解出来た。だからこそ、俺は無我夢中で剣を振るった。雑にならない様に細心の注意を払いつつ、本気で。
相手の武器はランスだった。そうじゃなければ、その軌道を読むことも出来なかったかもしれない。突きと言う直線的な攻撃だったからこそ対処が出来て、今の様な結果になった。相手の方が腕は上だったはずだ。それでも勝てたのは、相手に油断があり、そして軌道の読みやすい獲物を使ってくれていたからだ。
軍人だとは思うが、騎士の様な男だった。歳は俺よりも少し上くらいの、まだ若い男。
名前はそう……
エルトリア=バルドバース。
確か、そう名乗っていた……