第一章 日常の終わりを告げる鐘【二】
「遅いな……」
リビングの壁にかけられたアナログの時計を見て、俺は三度目になるその呟きを漏らした。
今の時間は二十時半。伊織の受講している講義が最終までだったはずだが、それにしたってもう終わってるはずの時間だ。伊織の携帯に何度か電話もしてみたが出ない上に返事もない。一体何をしてるんだか……
何か事件に巻き込まれた。そんな心配はあまりしていない。勿論可能性がないわけじゃないが、伊織が約束を放って何か別のことをするなんて日常茶飯事だからだ。
と、そんなことを考えていると携帯から聞き慣れたメロディが聞こえてきた。伊織からの着信設定にしてある曲だ。
「もしもし」
『あ、士朗? ごめんねー。ちょっと教授に呼び出されちゃって』
俺が非難の言葉を向けるよりも早く、言い訳を並べてくる伊織。いや、こういうことで嘘をつく奴じゃないから本当なんだろうけど。それにしても、珍しくまっとうな理由だ。いつもなら自分の楽しみの為に約束を破るのに。
『何か今失礼なこと考えたでしょう?』
勘の鋭い奴だ……
「そんなわけないだろ。それより、結局俺はどうすればいいんだ?」
『んーとね。今から駅まで出れる?』
「ああ」
何をするのか分からなかったから、一応出かける準備もしてある。
『それじゃあ、改札付近で待ち合わせね。時間は……九時で平気?』
「分かった。何か用意する物は?」
『大丈夫。特にいらないから。あ、でもお金は持ってきてね』
それは俺にたかるってことか? いや、違うと信じよう。
「了解。それじゃあ、また後でな」
『はーい。じゃね〜』
そんな言葉の直後に、電話が切れる音がして俺も通話を切った。
待ち合わせ場所になった駅だが、駅名を言わなかったけど俺たちの会話で駅と言えば須賀駅のことだ。うちから一番近い駅で、歩いて十五分くらいの場所にある。
まだ少し早いけど、もう出ておくか。遅れたら文句言われるのは必至だからな。自分が遅れても文句を言わせない癖に。
大学に行く時にも着て行った冬用のジャケットを羽織り、テーブルの上に置いておいたサイフをジーンズの後ろポケットにしまう。つい先程まで手に持っていた携帯をジャケットのポケットに入れ、俺は駅に向かうべく家を後にした。
「寒いな」
外に出て最初――と言うか直ぐに発した言葉は、無意識に出たそんなものだった。
特別風が吹いているわけじゃないが、二月の空気はそれだけで冷たく肌に突き刺さる。これで風が吹いたらもう少し厚着をしないと風邪をひくかもしれない。昼間は日も出てるから多少は暖かかったんだけど……
まあ、いくら何でもずっと外にいるってことはないだろう。そう判断して、俺はそのまま駅に向かうべく住宅街を進んで行く。
うちを出て右に行くと駅方面だ。方角で言えば東。真っ直ぐに住宅街を抜ければ駅周辺のアーケード街に入る。住宅街を抜けるのに十分。アーケードから駅に入るまでが五分って所だろう。
寒さのせいか、少しだけ歩調が速くなる。特に意味もなく夜空を見上げたりなんかするが、家々から漏れる光のせいか殆ど星は見えない。まあ、田舎に住んでた経験なんてないし、ずっとこれが当たり前の夜空だったから、特に寂しいとか感慨深いとか、そう言う感情は抱かないけど。
気がつけば住宅街を抜けていた。時間を確認したわけじゃないが、多分十分も経ってないだろう。まだそれなりに賑わっているアーケードに入ると、ふと違和感を感じた。
「人が、いない……?」
アーケードの入り口であることを示すアーチをくぐる前までは、確かに人の気配も、喧騒もあった。それなのに、アーケードと言うこの空間に入った瞬間に、全ての気配が消えた。明かりは点いている。なのに、道はおろか店の中にも人の気配が感じられない。
気のせい?
いや、そんなバカな……
一番近くにあるドラッグストアーを覗いてみる。が、やはり誰もいない。
「すいませーん!」
奥に誰かいるかも。そんな淡い期待を込めて大きな声を出してみるが、誰も出て来ない。
「一体どうなってるんだ?」
不思議に思いながらもドラッグストアーを出ると、背中にゾクリと悪寒が走った。例えるなら、それは命を脅かす程の危機を感じたと言える。実際にそんな体験をしたことはないが、はっきりとそう言える類のもの。
背筋に、嫌な汗をかく。だが、動けない。
脳内では危機を報せる警鐘が鳴り響いている。にも関わらず動くことすら出来ない自分に焦燥感を抱く。
カーン
カーン
カーン
絶えず鳴り響く警鐘。脳内だけじゃなく、まるで現実にその鐘の音を聞いている様な錯覚すら感じる。
――その音は、確かに聞いたことのあるものだ。いつ、どこで聞いたかは分からない。だけど、確かに聞き覚えのある音……
「ようやく――」
背後からそんな声が聞こえ、びくりと肩を震わせてしまった。
「ようやく見つけた。リーヴス=リィンハート」
聞き覚えのない声。聞き覚えのない名前。しかし確かに、その声は俺に向けてその言葉を放った。
恐る恐る、背後を振り返る。俺とドラッグストアーの間――と言うよりは店のほぼ入り口に、一人の女が立っていた。
艶やかな長い黒髪は伊織と通じる所があるが、ストレートの伊織とは違ってポニーテールにしている。歳は俺と同じくらいだろうか。身長は俺と大して変わらないみたいだから、多分170はあるだろう。
デニム生地のズボンを穿いていて、インナーまでは分からないが革製の黒いジャケットを着ている。そんな女が、何をするでもなく、言葉の通りただ立っているだけ。だと言うのにも関わらず、俺の身体は緊張しているのか上手く動かせない。何とかゆっくりと後ずさることが出来たものの、唾を飲み込む行為さえ苦に感じる。
「私の名はエルトリア。エルトリア=バルドバース」
彼女が名乗ったことで、少しだけ緊張が和らいだのか多少だが心に余裕が出来た。
見るからに日本人なのに外国人みたいな名前に疑問を感じた。だが、それを尋ねる程の余裕はない。
「……覚えていない様だな」
俺が名乗りに反応しないのを見て、そんな言葉を続けるエルトリアと名乗る女。
「まあいい。思い出す必要もないし、新たに覚える必要もない」
どう言うことだ? まあ、あんな名前一度覚えたらなかなか忘れないと思うんだが……
などと少しずれた思考を巡らせていると、目の前の女の雰囲気が一変した。最初に感じた様な、命の危機を覚える程のプレッシャーを放つ。
「私は――私はただ、お前を殺す者だ」
そんな言葉を発した刹那、いつの間に――どこから出したのか、女の手には一振りの日本刀が握られていた。その刀を真っ直ぐに構え、俺へと向かって突きを放つ。その様子を、俺はまるで他人事の様に見ていることしか出来ない。
――死ぬ――
なぜか恐怖も感じずに、俺はただそう確信だけをしていた。
だが……
「絶望よりも深き、絶望よりも凍てつく冷気よ。我が敵を阻め!」
正確には聞き取れなかった。それ程に早い口調で、だけど確かに聞き慣れた声がした。そう理解した瞬間には、俺の心臓へと迫り来る刃を氷の塊の様なモノが防いだ。その一撃によって氷塊は砕け散ったが、直ぐに追撃が放たれると言うことはなく、むしろ女は俺と距離を取る様にアーケードの出口側へと跳躍した。まるで人間とは思えない様な距離を跳んだが、不思議とそのことに驚いたりはしなかった。感覚が麻痺してるんだろうか?
「士朗は殺させない。ファナの為にも、私の為にも」
アーケードの奥――駅側から、さっきも聞いた聞き慣れた声がした。俺は日本刀を持つ女へと注意を払いつつ、それでも声のした方に視線を向けた。
そこには、予想通りの人物が立っていた。長い艶やかな黒髪。女にしては割と長身なスラっとした体型。それでいて決して貧相な体型と言うわけではなく、おそらく女性としては理想的な体型の一種。そして見慣れた整った顔立ちの女――
「伊織」
「やっほ、士朗。元気?」
俺の呆然とした呟きに、それを無視するかの様にいつも通り――むしろいつもよりも明るく振舞う伊織。
「お前……今何した? いや、それよりもこれはどう言うことだ?」
自分でも何を聞きたいのかよく分からない。だけど、尋ねずにはいられない。今、一体何が起こっているのか……
それを知ってどうなるのかは分からない。だけど、何も分からないままに殺されるなんて真っ平ゴメンだ。
「説明は後。それよりも、今はあいつを何とかしないとね」
そう言って日本刀の女を指す伊織。
いや、確かにそうかもしれないけど……
「一体どうするって言うんだよ?」
相手は刃物を持っている。しかも動きが人間を凌駕している。そんなのを相手にして、俺や伊織が敵うとは思えない。いや待て。さっき伊織は何をした? 俺に迫り来る刀を、どうやって弾いた?
「まあまあ。士朗は下がっててね。今あいつをやっつけるから」
その言葉に返事をするよりも早く、伊織は前に――日本刀の女へと向かって駆け出していた。
「少し予定が狂ったが……私の邪魔をするなら、お前も殺す」
勢い良く距離を詰める伊織に向けて、女は静かにそんな言葉を漏らした。その口調も、目も、本気だ。間違いなく、あの女は殺意を持って俺たちを見ている。
女は日本刀を構え直し、迫り来る伊織へと意識を向けている様だ。良くは知らないが、ああ言うのを正眼の構えと言うのだろう。真っ直ぐに構えた刀を、前方から近づく伊織へと向けて突き出す。
「音よりも速く、光と並びし疾風よ。我が敵を切り裂け!」
人間の耳では聞き取れないんじゃないか? そう思える様な早い口調だが、今度は確かにその言葉を聞き取れた。
伊織の言葉に呼応するかの様に風が集まり、伊織の眼前に迫る刃の方向を逸らす。女は直ぐに刀を引こうとするが、伊織の周囲に渦巻く風がその動きを阻む。
「絶望よりも深き、絶望よりも凍てつく冷気よ。我が敵を阻め!」
一度手を翳し、振り抜きながら伊織がその言葉を紡ぐと、女の右腕が凍りついた。握っていたはずの柄と手の間さえも凍ってしまったのか、静かに音を立てて刀は地面に落ちた。その様子を女は信じられないものを見たかの様に視線を送るが、事実は変わらない。
「私は貴女と違って人を殺したいなんて思わないから、出来れば退いて欲しいんだけど?」
そんな言葉を放つ伊織の口調には、有無を言わさぬプレッシャーが感じられた。俺に対して向けているわけではないのに、それでも畏怖してしまう。
殺したいとは思わない。だけど退かないのなら殺す。暗にそう言っているのが分かるからこそ、俺も、あの女も唾を飲み込み何も言えない。
「……わかった。今日の所は退こう」
少しの間を置いて静かにそう答えて、女は左手で日本刀を拾う。
「出来れば二度と来ないで欲しいんだけどね」
「……それは約束出来ないな」
絶対的に不利な状況にあるにも関わらず、女は臆することなくそう切り返した。
「そう? なら次も返り討ちにしてあげる」
伊織も負けずにそんな言葉を返す。しかも笑顔なんか浮かべてやがるから恐ろしい奴だ。
女は伊織のそんな言葉に苦笑を浮かべ――それ以上は何も言わずに踵を返し、住宅街の方へとその姿を消した……
気がつけば、アーケードには喧騒が戻っていた。人の姿もある。向こうからすればいきなり現れたであろう俺や伊織を不思議に思う者はいないらしく、ただ立ち尽くす俺たちを邪魔だと言わんばかりの視線を向けてくる者がいるだけだ。
「伊織」
……今度こそちゃんと聞かないとな。そう思い、伊織の名前を呼ぶ。
「何かな?」
「話してもらうぞ?」
「うーん……本当なら士朗には知って欲しくなかったんだけどねー」
「伊織」
軽い口調で誤魔化そうとする伊織に、厳しい口調を向ける。俺が本気なんだと、それを分からせる為だ。
「分かってる。ちゃんと話すから。とりあえず、家に帰ろう?」
「用事はいいのか?」
「うん。こんなことになっちゃったしね。またの機会にお願い」
「……分かった」
そんな、少しだけ日常と変わらない会話を交わしながら、俺たちは自宅に戻るべくアーケードを出る。
帰路を歩く中、俺も、伊織も何も語らず、ただ冷たい空気だけが俺たちを包んでいた。
今日この後に交わされる会話を以って、俺が今まで日常だと思っていたモノが壊れてしまうなんて、この時はまだ、思ってもいなかった……