墜落
俺は響木悠馬、高校一年生。訳あって栃木から東京の高校へ進学してきた。入学式から数週間経って、顔見知りが一人もいないこのクラスにも馴染んできたところだ。偏差値は中の中くらいの、どこにでもありそうな平均値の高校と、一般的青春を謳歌しようとする気のいいクラスメイトたち。失った安寧の残り香を嗅ぐような気持ちで窓際から入るチューリップの匂いに目を細める。と、誰かがおれの名前を呼んだ。
「あ、あの、悠馬くん……」
中庭の花壇に注いでいた眼を上げる。ふわふわの緩くカールした髪を指先にからめて、おずおずとこちらを見つめる所在なさげな女子。これまで授業で何度か同じ班になったことがある。確か名前は古塚万奈。少し引っ込み思案な、でも最終的には自分の意見をみんなに飲み込ませてしまう、気が弱いんだか強いんだかわからない女子だ。しかしその儚げな見た目から、男子人気は高い。今は3時限目の休憩時間。十分の鐘がそろそろなる頃だ。いったい何のようだろう。教室中からちらちらと向けられる視線に居心地の悪さを感じつつ、俺は返事をした。
「どうしたの、古塚さん。俺に何か用?」
名前を呼ばれた古塚万奈が、もともと桃色のほおをさらにピンクに染めて、あたふたと髪に絡めた指を動かしている。
「え、えっと、今日のお昼っ、もしよかったら、ごはん一緒に、食べよ……ぅ」
語尾はほとんど聞き取れなかった。もはや真っ赤に染まった顔をふせて、古塚万奈がぷるぷると肩を震わせる。ちょっと、理解が追いつかなかった。
なんで?そんなに話したこともないのに?おそらく鳩が豆鉄砲食らったような顔で返事もせず瞬きを繰り返す俺と、上目遣いの潤んだ万奈が見つめ合う。
「え、なんーー」
「もーっ!鈍いなあ響木!行ってあげなよ!ほらぁ!」
後ろの席から小突かれた。引っ詰め黒髪の丸眼鏡、いかにも委員長と言った風態の松野だ。この数週間で彼女のお節介振りはクラス中が身をもって知っている。皆まで言わせなさんな、と、松野がしたり顔で俺の背を押した。図らずも接近した小塚万奈が、ふわふわの髪の間から今にも泣きそうな顔で俺の名をもう一度呼ぶ。
「ゆうまくん……」
ああだめだ。弱いんだ、そんな風に縋るような眼には。今まで何度も見てきて、そして何度も裏切られてきたあの感情。まだ踏み込むには日が浅い。傷が深い。それでも。
クラスを見渡す。これから始まる青春に野次馬根性輝かせている女子、淡い初恋の始まる前から失恋を味わって苦虫噛み潰した顔の男子。さまざまな感情が滲んだ表情が、俺たちを中心に向けられている。馴染んだとはいえ、未だ知らぬ事が多い仲のクラスメイト達。ここは大方の期待に外れぬよう行動した方が、結果的には目立たない。直感的にそう感じて、俺は嫌々ながらうなづいた。その本心を、古塚万奈に悟られないよう。
「いいよ。今日は天気がいいから、中庭で食べよう」
「……っ、あ、ありがとう!」
キラキラ涙を飛ばして、音が出る勢いで古塚は頭を下げた。妙な違和感を覚えつつ、始業の鐘とともに入室した教師へ視線を向ける。気がつくと、彼女は脱兎の如く自分の席に戻っていた。前後左右の女子から、よかったね、応援してるねと甘酸っぱい励ましの声をかけられて火照る赤面を両手で仰いでいる。なんだかその様子が、やけにあざといと感じてしまった。
◆◆◆
昼休憩を知らせる鐘が鳴る。結局、四時限目の現代国語の内容にはさっぱり集中出来なかった。ふと気がつくと視線が古塚万奈を追っていて、視軸が合うたび古塚のカラメル色のタレ目が恥ずかしそうに伏せる。印象よりまつ毛が、長い。正直、自分がこんなに単純な奴だとは思わなかった。ざわめく胸とほんのり血の昇った頬を自覚しつつ、教科書を片付けて弁当を取り出す。古塚万奈がふわふわの髪を揺らして近づいてきた。緊張しているのか、きゅっと一文字に結んだ薄い唇がかわいい。
「お待たせ」
自分で自分の声に驚く。緊張しすぎだろ、俺。わざとらしく咳払いすると、弁当箱を取って立ち上がる。
「じゃ、行こうか」
「うん……」
あーかわいい。勿体ぶった自分の声カッコつけすぎてくさすぎだろとか、耳まで血が昇ってきて側から見たら期待してんのバレバレすぎてカッコ悪すぎるとか、そんな事全部吹き飛ぶ。そのくらい、古塚万奈の潤んだ上目遣いは破壊力があった。大体そのうん、ってなんだ。小さい声でほとんど息だけででもちょっと色っぽいうん、ってなんなんだ。狙ってやってるとしたら最高すぎるぞ。降参します。なんて脳内で一人小芝居している間に、俺は見た目だけは冷静を取り繕って古塚と教室を出る。青春イベントを楽しみに俺たち二人を眺めるクラスメイトの視線がこの身を灼くようだった。なかにはこっそりついてこようとする男子と、その襟首を掴んで説教垂れる女子までいた。あの二人、入学当初から犬猿の仲を装いつつ確実に進展しているな。横目で二人の行く末に幸あれと願う俺の少し前を、ガチガチに緊張した古塚万奈が歩いていく。ふわふわでさらさらの髪が春の風に靡いて、花壇で咲き誇る花々に負けないいい匂いがした。桜はもう散ったのに、視界がほんのり桜色な気がする。この後の二人だけの昼食に浮き足立つ俺の、踏み出した足が違和感で止まった。
「あれ、上行くの?」
中庭へ行くなら降りるはずなのに、古塚の上履きは上階への階段を踏んでいる。ふわふわの髪が揺れる。古塚が振り向く。カラメル色の瞳が、さっと周囲を見回す。周りにクラスメイトがいないか、確認している。屋上に来て、と、消え入りそうな声で命令が聞こえた。そうだこれは懇願ではない。か弱そうで儚げで、でも芯には決して折れない曲がらない何かを持っている。古塚万奈は、そんな女子だ。正常に戻った思考の中で、俺はひとつうなづくと上り階段に足をかけた。
◆◆◆
屋上には、いや、屋上へ続く階段の踊り場には、誰もいなかった。これが青春ドラマやアニメならたむろする学生グループの1つや2つあっても良さそうだが、意外とこの学校の生徒は良識揃いらしい。遥か遠くにこだまする昼休みを満喫する女子学生たちの笑い声。ボールの音。階段に座ることもせず、微妙な間合いで立ち尽くす俺たち。他に誰もいないことをもう一度注意深く確認すると、古塚万奈は踊り場で一歩下がり、3時限目の休憩時間でしたよりも勢いよく頭を下げた。
「お願い、悠馬くん、助けて!わたし、家族に売られちゃう」
「……はっ?」
想定していた全ての事象を飛び越えた事実に、詰めていた息がたまらず漏れてしまった。え、なに?売られる?何が?家族に?
昼飯に誘われた時よりさらに困惑する俺を、カラメル色の瞳が泣きそうに潤んだ目で見上げている。
どうやら、彼女は至って本気だ。
呼吸を忘れていた肺から大きく息を吐くと、埃っぽい空気を吸って口を開く。
「……わかるように、説明して」
ぱあっと古塚の頬が薔薇色に染まった。瞳に希望の光が差した。ああもうだめだ、彼女の説明を聞いたら引き返せない。たとえどんな無理難題でも、俺は彼女を見捨てられない。わかっててここまで俺を誘導したんだ。勝利を確信したふわふわ髪のカラメル色の目を持つ女子の前で、俺は心の中で両手を上げた。
「わたし、わたしの家族ね、ちょっと変なんだ」
隣り合って階段に腰掛けた古塚が、膝の上に広げた弁当を箸でつつく。冷食だけで作られた弁当だ。常温解凍されたオムレツと、俺の弁当箱に詰められたひじき入りのだし巻き卵を見比べている。ひとつを弁当箱の蓋に置いてやると、嬉しそうに平らげた。オムレツはくれなかった。美味しいと顔を綻ばせる古塚に、話の続きを促す。
「かわってるって?それが、さっき言ってた売られる、とどう関係するの?」
慎重に。辛抱強く。
「……うちの家、全てがポイント制なの。家事を手伝ったらポイント、いい成績を取ったらポイント、部活や課外活動で活躍したらポイント」
なんだ、そこまで変わってはいないじゃないか。そりゃ高校生まで実施しているのは少し珍しいかもしれないけど、言うことを聞かない幼児や目標を立てて実行しにくい小学生には有効な教育方針だ。今時かたちはさまざまだろうけど、どんなご家庭でも行われているであろうことじゃないのか。
黙って続きを待っていると、思っていた事が顔に出ていたのか不満そうに古塚が頬を膨らませた。何だそんなことって思ってるでしょ、と口を尖らせている。
「……そういうことじゃないの。全部なの。全部。それで、そのポイントで全部を支払うの」
「欲しいゲームや服とか?」
古塚が首を振る。ふわふわの髪から春の匂いがする。少し鼻に抜ける、人工の香料。じゃあスマホの通信量とか。厳しい家庭だとそういうこともあるのかもしれないな。考えたことを口に出すと、それだけじゃない、とさらにふわふわの髪が左右に揺れた。
「全部よ。電気代、水道代、ガス代、食費、家電を使ったら使用量、毎月の住宅ローン……」
「えっ、ちょ、ちょっと待って」
教科書代、定期代、修学旅行積立金、と指折り数える彼女に待ったをかけた。まだ、理解が追いつかない。失礼だけど、古塚さんの家ってご両親揃ってるんだっけと尋ねると、肯定された。
「えっと、つまり、古塚さんの家は古塚さんにかかる費用をポイントとして計算して、学校の成績や家事手伝いのポイントと相殺してるってこと?」
「うん。ローンは部屋の面積割で、ポイントは毎月8万6千をちょっと割るくらい支給されるんだけどね」
どういうことだ。なんだかおかしい。話の端々から感じる違和感に、こめかみを一筋汗が垂れる。そしてこのおかしい話は、まだ本筋まで辿り着いていない。
「ちょっと前に、成人が18歳になるって法律で決まったでしょ。それで、その週の家族会議で、ポイント支給の打ち切りを18歳に繰り下げるって話が決まったの」
いつのまにか古塚は弁当を完食している。物欲しそうな目が俺の弁当の上を禿鷹のように彷徨う。ああ、そうか。ようやく事態がのみこめた。
「それで、それでね。ポイントは使わなかった分はいつまででも貯めて置けるんだけどね、私が今持ってるポイントだと」
これは、カネの話だ。
「大学に進学するのに、足りないかもしれないの」
古塚万奈が俺を見つめてくる。とろけそうなカラメル色の瞳が助けてと縋ってくる。この眼を何度も見た。この眼に何度も裏切られた。食べかけの弁当箱の上で組んだ手が、指が、血の気のひいた肌に爪をくいこませる。冷や汗がインナーを重くする。
「足りなかったら、どうなるんだ」
わざと突き放すような物言いも、彼女をたじろがせるには至らない。長いまつ毛をただ伏せて、米粒ひとつも残らない弁当箱の端をつついて、彼女が恥じらいながら口にする。
「家族の誰かに、ポイント借りるか……わたしを買ってもらわないといけなくなるの」
くすぐったくなるようなチラチラとした視線が、ふわふわの髪の間から投げられる。よく手入れされた、艶のある薄い唇から真珠のような歯がのぞく。ねぇ、と、蠱惑的な琥珀糖色の甘い声が耳元でささやく。
「悠馬くん、ほんとのほんとに一人暮らしなんでしょ?さっきの卵焼きも、すっごい美味しかった。わたしにやりくりの仕方、コツ?とか、教えてほしいの」
ポイントが打ち切られる18歳の誕生月以降、大学入学金とキャンパス近くの下宿の初期費用くらいまで、ポイント貯めるの手伝って欲しい。制服の袖をくいくいと控えめに引っ張って、虚空を漂う俺の気を引こうとして、古塚があざとさを振り撒いている。そちらを向く勇気が無かった。鼓動が早鐘のようだ。鼓膜が脈にあわせてわんわんと鳴っている。
「ね、悠馬くん……」
埒があかないと悟ったのか、肩にあたたかいものが触る感触がした。額がぶつかるくらいの距離に古塚万奈の顔が現れた。カラメル色の瞳の境界に、ナノ単位の淡いブルーの段差が見える。ああこの色は、カラコンなのか。胸が、腕に触れている。
「お願い助けて、悠馬くんにしか相談できないの」
縋るような眼差し。鼻にかかった甘えるような舌足らずの震える声。この感情に。俺は。
「ーーいいよ」
是の声に古塚の顔が花咲くように綻ぶ。
昼休み前までの俺なら、きっとかわいくてそのままキスしただろう。でも今は。
無邪気に喜んで見せる古塚に弁当の残りを与えて、無我夢中で頬張る様をじっと観察する。
この女は、どこまで『俺』を知ってこの話を持ちかけてきたのか。
断れない。だけど、全てを晒すわけにはいかない。始業の鐘が鳴るまで、俺たちは互いに期待されたと推測する役目を演じ続けた。
◆◆◆
一応オートロックの、ビジネスホテルみたいな名前だけは分譲の単身者用マンション。そこが今の俺の家だ。古塚が昼休みに確認してきたように、俺はこの23平米の1DKに一人暮らししている。エントランスのポストから回収してきた光熱費の検針表や大手銀行からの投資信託のダイレクトメールをシュレッダーにかけながら、部屋着に着替える。脱いだ服をドラム式洗濯機に入れて、洗濯乾燥のスイッチを入れた。一番小さいけどドラム式洗濯機が置けるからこのマンションを選んだ。誰かが夜中に掃除機かけても気づかないくらい防音もしっかりしている。小さいながら、なかなか良い我が家だ。少なくとも好奇の目に晒され続ける実家や、表面上は媚びへつらいながらも裏では厄介者扱いの親戚たちのところよりは、ずっと安心できる。作り置きしておいた惣菜と一膳ごとに冷凍してある白飯を温めて、こたつの上に並べる。テレビをつけると、今日一日撮り溜めた各局のニュースを3倍速で流し見する。手元に置いたタブレット端末では契約している電子版新聞を、スマホでは各ニュースサイトの最新ニュースを確認。今日も、恐れている事態は発生しなかったようだ。安堵と満足のため息をついて、箸を置いた。行儀が悪いと言われようが何だろうがこの習慣を改める気はない。もともと料理に好き嫌いはなかったほうだけど、あの一件依頼もはや味などほぼ感じなくなってしまった。それでも、古塚は美味しいと言っていたっけ。食後の余韻に浸っていると、手元のスマホが振動した。メッセージだ。古塚万奈の名が表示されている。あの後連絡先を交換した俺たちは、帰宅後に古塚の現状を共有することで解散になった。怖さ半分興味半分でメッセージを開くと、一生懸命打ち込んだのだろう、箇条書きが目に飛び込んできた。所々の誤字脱字はご愛嬌だ。
内容はこうなっている。
・古塚万奈の家計簿4月度
▲収入
支給ポイント 85830
中学内申点総合 12000
皆勤出席 8000
皿洗い 5000
洗濯物たたみ 2000
△支出
固定
住宅ローン面積割り 15000
食費 15000
光熱費使用分割 10000
家庭教師 10000
通学定期 5800
スマホ本体代 4389
スマホプラン 2980
変動
ヘアケア 14000
スキンケア 8000
外食 8000
服代 8000
美容室 7980
コンタクト 6480
ポイント返済 5000
化粧品 4000
映画 3600
おやつ 3000
雑費 3000
わからない 3000くらい
メッセージをスクロールするたび眩暈がした。表の下へ行くほど頭痛がし、戦慄し、最終的に絶望した。
これは……ダメだ。
スマホを握る手に力が入る。今すぐ古塚に電話して問いただしたい事が山ほどあるが、相手が相手だけに話すことをしっかり整理しておかないと流されて身の無い会話になる恐れがある。タブレット端末からメモ帳を立ち上げると、この家計簿もどきに対する対策を打ち込んでいった。5分ほど経ち、おそらく現時点で考えうる全てを出し切った俺はクラウド経由でそのメモをメッセージに貼り付けようとした、が、しばしの躊躇の後取りやめた。怒りに震える指先で、やっとの思いで一文入力する。
『現状はわかった。書き出してくれてありがとう。また明日、昼休みに』
即レスが来た。アニメのマスコットキャラが誇らしげに胸を張っているスタンプつきだ。
『頑張った!ねむい。おやすみ』
なるほどよく、よぉーくわかった。怒りを通り越して脱力する指先がスマホの振動をキャッチする。ハート型の月の下でアニメの女の子がすやすや眠っているスタンプ。ふふ、と、諦観の笑みが溢れた。俺ももう寝よう。明日の戦に備えるために。食器を洗って自分も洗ってベッドに倒れ込む。不思議と今日はよく眠れた。いつもの悪夢は見なかった。
◆◆◆
「悠馬くんおはよう!」
学校へ至る坂のふもと、木漏れ日の下で、古塚万奈はふわふわの髪を靡かせて微笑んでいた。
「……おはよ」
いつもの悪夢は見なかったが預金残高がもりもり減るという現実的恐怖の悪夢に朝方うなされた俺は、煮え切らない挨拶を返す。すっと横へ立って歩き出した古塚のカラメル色の瞳が、物欲しそうな視線を寄越している。
「昨日のメッセージ読んだよ。だいたい小塚さんの抱えてる問題点は見えたかな。……それと、いくつか確認したいことも」
ぱああと、陽が差すように彼女の表情が嬉しそうに綻ぶ。ありがとう!と、両手で右手を取られてぶんぶんと振り回された。暖かくて、柔らかい。いい匂いがした。
「悠馬くんすごい!やっぱり悠馬くんに相談してよかった」
うっとり恍惚とした目でこちらを見つめる古塚の言葉に、絆されかけていた感情の温度が下がる。やっぱり、ってなんだ。古塚はどんな情報を得て俺に協力を依頼してきたんだ。怪しむ俺の肩越しに、クラスメイトたちが囃し立てる声がきこえる。「おーっす悠馬、朝っぱらから熱烈じゃんか。やるなぁ〜」
「羨ましいよほんとに」
冷やかすような、妬むような、あるいは嘲笑するような。そんな言葉たちに、今度は羞恥で耳が赤らむ。
「……ここだと目立つから、また昼休みに話そう」
「え、うん」
俺だって健全な高校一年生なのだ。クラスメイトから囃されるのは恥ずかしいし、かわいい女子にスキンシップされたらその気になったって妥当なもんだ。けれど、環境を利用していると思しき古塚万奈に、アドバンテージを取られるのは嫌だった。少なくとも、彼女がこの不思議な家族の決め事に俺を巻き込んだ本当の動機を知るまでは。
◆◆◆
昼休み。いつもの弁当箱をもって、昨日からの屋上前の踊り場へ向かう。横には、古塚万奈のふわふわの髪が春風にいい匂いを漂わせている。クラクラするほど甘い、人工の匂い。丁寧に櫛削った髪は艶々と陽光を反射して、触ればそれはとても心地よい手触りだろう。思わず想像してしまったその感覚に、匂いの元を思わせる小さなつむじに、ごくりと生唾を呑み下した。
誰もいない屋上で、二人で階段に腰掛けて、弁当を膝の上に広げる。古塚は全品冷食。俺はあまりものの食材で今朝作った炊き込みご飯風海苔弁。ほわー、と、聞いてるだけで気の抜ける声を古塚があげる。
「美味しそうだね」
「普通だよ」
「あ、でも、なんかすごくいい匂いする。これは冷凍食品じゃないね?」
「米炊いて混ぜただけだよ。あと肉巻いただけ」
「え、すご……。これ、手作り?わたし、自分で料理しないからほんとにすごいと思う」
誉め殺しながら、古塚万奈は物欲しげに人の弁当を覗き込んでいる。こいつは本当に……。あきれ半分、アスパラの肉巻きを一本恵んでやった。うまうまと満面の笑みであっという間に平らげられる。おいしい、プロだよとまあ嘘ではないだろうはしゃぎ振りで、そのまま自分の弁当を完食した。時間にして15分程度。自分のペースで食べ進める俺を、古塚のカラメル色の瞳が捉えて離さない。気まずい沈黙が流れる。もう一本肉巻きアスパラをやろうかと考えていると、長いまつ毛を伏せて彼女の口がひらいた。
「それで、あの、昨日送った家計簿?の件だけど……」
産毛をしっかり処理した小ぶりの耳が朱に染まっていく。今は塞がっているがピアスを開けた穴を見つけて、柔らかそうな耳たぶにうっかり触れたくなった。ん、と、とりあえず生返事を返して自分の欲求を誤魔化す。
「厳しいこと言うかもだけど、最後まで聞いてほしい」
うん、と、健気な顔して古塚万奈があざとくうなづく。怯えたようなタレ目のカラメル色の瞳が潤んでいる様子は、嗜虐心と庇護欲をそそる。月8000もかけて丁寧に手入れされているであろう透明な肌は、ほんのりと上気して綺麗だった。
心を、鬼にするんだ。すぅ、とまだ冷たい春の空気を胸に吸い込む。
「まず、結論から言う。ダメだ。全然ダメ。100点満点で採点するならマイナス100点!」
「ひえっ」
情けない声を古塚が上げるが、追及の手は緩めない。
「収入が11万弱に対して、支出が13万もあるじゃないか!固定費6万3000なら、毎月の支給ポイントから逆算して使っていいのは2万2000!それも毎月使い果たすんじゃなくて、18歳以降のために貯めとかなきゃダメだろ!」
とりあえず最低限伝えたいことを言って、一旦言葉を切った。隣に座った古塚は追い込まれた子狐みたいに目に涙をいっぱい溜めてプルプル震えている。あー罪悪感。でもここはまだスタートラインなんだ。痛む胸を宥めて現実を突きつける作業を進めなくては。
「いくつか聞きたい事がある」
「ひ、ひゃい」
「まず支出が収入を上回ってる件なんだが」
この赤字はどう処理されるんだと問い詰める。それはその、と、古塚は整った指先をちょちょんと合わせて上目遣いする。
「あのあの、毎月支給ポイントって、わたしが産まれたときから支給されてて、それで、小学生の時に段階的に使えるようになって、中学2年生から全額使えるようになります……」
「なんだって?」
頭をハンマーで殴られた気分だ。まさか、まさか。わなわな震える俺の青ざめた唇を、古塚がチラチラ見ている。
「なのでその、毎月足りない分は、いままで貯めたポイントから払うんです……」
剣幕に気圧されてるのか、いつのまにか敬語になっている。消えいるような語尾のあと、絶望のあまり俺は頭を抱えた。
「いくら残ってる……」
「え」
「そのポイントはいくら残ってるんだ……」
「え、えと」
あたふたと古塚がスマホを取り出し、何回かタップして画面を見せてきた。ブラウザから開いている、専用のウェブアプリみたいだ。そこには1千300万と少しの数字が表示されていた。ああ、予想通りの数字だ。
「150万も溶かしたのか……」
「え?」
古塚万奈の頭上にクエスチョンマークが大量に浮かんでいる。月に4、5万コンスタントに赤字を出し続けていたのだ、この女は。毎月8万6千弱の定期収入がありながら。
金遣いが、荒すぎる。もはや別の意味で動悸すらしてきた胸を押さえて、俺は深呼吸した。落ち着け、頭ごなしに言っちゃダメだ。ここは抑えて。
「いいニュースと悪いニュースがある」
「い、いいニュースから聞かせてください」
「最高でこのペースに抑えれば、高校卒業までは余裕でいける」
ぱあっと古塚の顔が輝く。
「大学卒業は諦めろ」
悪いニュースを伝えられて、がく、と古塚の肩が落ちる。ふわふわの髪が垂れる。
「今月の支給ポイント、もう残ってないだろ」
「はい……」
「来月から家賃光熱費食費を抜いた額を支給ポイントで補う。あと1万を引いて、残りは小遣いとして、自分で管理して」
「え、でも」
不安げな瞳をしっかり見つめ返して、渾々と説明を続けた。
「古塚さんのご両親は確かに変わってる。けど、ひどい親じゃあないよ。むしろ古塚さんの境遇はすごく恵まれてる」
むう、と彼女のマシュマロみたいな頬がむくれる。わたしはこんなに辛いのにあなたは全然わかってくれない、と、目が表情が身体全体が訴えている。ああ、その顔だ。その眼だ。何度それを見た事か。彼女には届くだろうか。俺を理解してもらえるだろうか。
「古塚さんはもう行きたい大学決まってる?」
「えっ、まだ」
「じゃあ文系、理系どっちに進むか考えてた?」
「まだ……だって選ぶの2年でしょ?わかんない。高校の授業で面白い学科が多かった方選ぶ」
「じゃあ」
むくれる彼女の前に人差し指を立てる。揺れるカラメルの瞳が指に視軸を収束させる。
「最安値で考えよう。奨学金は使わないこととする。入学試験費用が3万、入学金に80万、1年間の学費が80万円の私立文系大学に進学したとする。きっちり4年で卒業できたとして、学費だけで403万。ここに教科書代が年間5万、書籍は図書館で閲覧するとして文房具費が2万、クラブ活動費は合宿があるとして年間10万は見積もっておこう。これで、だいたい500万。一人暮らしはしたい?」
「えっ、えっ、し、したい……です」
ここまできて何て脳天気なんだ。まだ見ぬキャンパスライフに心躍らせてるのか、うっとりと頬に手を当てて宙を見つめる古塚万奈の顔は、正直かわいい。顔だけは。立てていた人差し指を拳に握り込み、俺は手を下ろした。エリアにもよるけど、と前置きする。
「築古かは置いておいて、まともなマンションに住みたかったら家賃は月5万は覚悟したほうがいい。初期費用15万、引越し3万、2年毎の更新料が家賃の半額の2.5万として、家代だけで4年で140万だ。家でネット使うか?なら、月3000円程度の通信費もいるぞ。4年で14万ちょっと。家電は揃えるのに10万あれば足りるだろ。中古で妥協できるならもっと抑えられるぞ。多分料理は冷食だけだよな……。外食込みで月2.5万は見ておこう。電気代は今よりかかると思ったほうがいい。光熱費全てで1万5千と設定しよう。食費高熱費で4年で200万弱」
「ちょ、悠馬くん、まって、はやいっ……!」
危惧していた通りついて来れてない。でも大丈夫、許容範囲だ。だいたいわかってくれればいい。この後の説明のために。
「4月の支出から家賃光熱費食費、家庭教師代と定期代を抜いて、今の生活レベルで暮らすとなると平均7万3千くらいかかる。4年で440万。大学で必要な額は、しめて1300万弱だ」
古塚は何を思ったのか、嬉しそうに笑みを浮かべた。今度はこっちが追いつかない。怪訝な顔をする俺に、彼女はさっきのアプリを見せる。
「足りてる!ぎりぎり大学卒業できるじゃん!やったあ!」
違う。足りてない。色々と。眉間の皺を揉む俺を心配そうに覗き込んでくる。どうやら本当に分かっていないようだ。
古塚は何月生まれかきくと、4月と答えた。状況はなお悪くなる。ほぼまる一年か。
「古塚さん、5×24は」
「120」
ちゃんと計算できるじゃないか。
「14×11は」
「うーん……154」
計算できてるじゃないかっ!
「足して274万。これが、これから君が高校卒業までに失う貯蓄の最低額だ」
ちゃんと理解できるように、出来るだけ優しく、ゆっくり言った。5秒まった。薔薇色の頬が、褪せていく。カラメル色の瞳が震えている。真珠の歯が、色を失った形のいい唇の下でカタカタ鳴っている。さらに付け加える。さっきの計算には、卒業式の袴代や、記念撮影費、卒業記念旅行費、成人式の着付け費用は入っていない、と。イベントのたびに、不慮の出費のたびに、君の持つその額は目減していく。顔面蒼白になった古塚万奈の眉間に、鼻梁に、目の下に、徐々に皺が刻まれる。血の気のひいた頬に赤みが差してくる。さあくるぞ。何度も味わった失望に備えて、俺は目を閉じた。なるべく痛みを感じないように、身をこわばらせた。その耳に、届いたのは。
「……けて……」
「え、」
「足りない、足りないよぉっ、どうしよう悠馬くん、助けて」
舌足らずに懇願する古塚万奈の泣き声だった。激昂すると思ったが、泣き落としできたか。さてどうあしらうかと思案する俺の腕に、古塚の華奢な指が縋る。砕けた水晶みたいな涙が彼女の頬を伝う。
「お願い、教えて。どうしたらいいの?わたしなんでもする、なんでもするからっ」
この哀願はフェイクだ。演技だ。彼女は金の計算ができない、見栄張りの浪費家だ。大学中退後にやっとありつけた薄給では我慢できずにずるずると借金を重ね、10年先か20年先かわからないが破綻し、己の智力より世間を怨みながら倦んでいく屑の卵だ。健気そうな瞳から清楚な涙を流して、赤い鼻を啜り上げて、彼女の顔が近づく。硬直している俺の耳に、息も絶え絶えに囁く。
「悠馬くんだけが、わたしの頼れる人なの」
この女は、自分の可愛さを知っている。可愛さの価値を識っている。きっとこれから一生、自分の望みを叶えるために価値を差し出し続ける。数多の男に食いつ食われつ蜜を振り撒いて、破滅を撒き散らす。
ぞく、と怖気が尾骶骨から脳天まで駆け上がった。今、彼女の目を見たら。きっと俺は絆されてしまう。
奈落へ心中する最初の男になんて、なりたくなかった。
「ゆうまくん……」
縋り付く指が、伏せた瞼が、上へ上へすすむ。なんて蠱惑的な唇なんだろう。なんて甘い香りの、心地よいサラサラとした髪なんだろう。
上目遣いの、カラメル色のタレ目が、俺を見ていた。底なし沼に半身沈んだ絶望の中から、一筋の命綱を掴んだ希望の光を宿していた。いままでに見たことのない、感情を宿した瞳だった。
父さん、どうして、
「……君を助ける」
どうしてあの時、俺にあんなこと言ったんだ。
「だから君も、自分を助けるために、考えるんだ」
いつのまにか彼女の両肩に触れていた。向かい合って座る2人の間を、春の日差しが一筋照らしている。始業の鐘が鳴る。
「ありがとう、悠馬くん」
望むものを手に入れて安堵する幼子のように、カラメル色の泣き濡れた眼が無邪気に笑う。うっとりと幸福そうに唇が弧を描く。か弱そうに見えて、儚く見えて、必ず己を貫き通す。古塚万奈は、そんな女だ。俺は今日、思い知った。