回想1 これは私の物語
私はとにかく憂鬱だった。学校になんか行きたくない。本当は学びたくもない。誰も私に構わないのにどうして行く必要があるのだろう。
友達なんて、一生いらない。私には必要がない。
······あの人以外。
教室のドアを開けると、既にたくさんのクラスメイトが来ていた。さっさと支度をして本でも読もうと思った。どうせ自分に構う人間なんかここにはいない。机に向かおうとすると、前を遮られた。男子だ。確か名前は······磯山拓斗だったか。一体自分に何の用があるのだろう。彼はにっこり笑うと、私に「おはよう!」と言ってきた。
私は焦った。挨拶をしてきたのだ。私に。
「えっ······と、お、おはよう」
私はどぎまぎしてうまく答えられなかった。彼は___磯山君はまたにっこりと笑って、自席に戻っていった。
その時だった。
「大人しくしろ!!」
なんと窓から大柄な男が現れたのだ。しかも複数。そのリーダー格の男は、ナイフを持っていた。あちこちから悲鳴が聞こえた。
担任が必死に連絡をいれようとする。
「動くなと言っただろ!」と男にナイフを向けられ、担任は固まった。私も固まった。
でも大丈夫だ。私の髪に付けているピンには盗聴機がつけられている。きっと先生はこれをきいて急いで警察を呼んで駆けつけてくれるだろう。
すると男が口を開いた。
「いいか?よく聞け。この中に一之瀬の助手がいると聞いたぞ。俺達はそいつが目当てだ。もしそいつが名乗り出たら、俺達はそいつを奪うだけで、他の全員は助かる。もし名乗り出なかったら······わかってるよな?」
私以外の全員がヒッと小さな悲鳴を上げた。
そうか、私目当てか。いや、実際は私ではなく先生なんだろう。私を誘拐して、先生をおびきだそうって策か。
「さあ名乗り出ろ!」
今私の鞄の中には護身用のスティレットが入っている。
······今持っているこの鞄に。
さあどうする?正直言って私は連れていかれるのは嫌だが、戦って殺されるのも嫌だ。先生が来るまでに何か時間稼ぎをすべきだ。
「早くしろ!!」
こいつらの様子からして先生が来るまでに待つのはまず無理だ。
「わかった。もう殺す」
大きな悲鳴が上がった。
······決めた。
私はスッと手を挙げた。そしてもう片方の手でスティレットを取り出すと、素早く相手の懐に入った。だが相手はナイフだ。無理だと思った。もう私には、そんな勇気は残されていなかった。
だからもう死のう。死ぬ前に、少しでも何かをやりたかった。
先生ありがとう。私頑張るよ。今から。
__拝啓 一之瀬光様__
* * *
2010年 1月
私は貧乏な家で生まれ育った。
親はずっと働き詰めで、私の面倒を見るのが難しかった。だがそこにはちゃんと愛情があった。これだけはわかる。今でも。
「ごめんねカイちゃん。お母さん頑張るから、もう少しだけ我慢してね」
母はそう言うと、いつも私に背を向けて仕事をしていた。
父もそうだった。毎日帰るのが遅くて、私は顔すら覚えていない。
二人とも、優しかったはずだ。
だが神様は、その貧乏な暮らしで、二人を変えてしまった。
あれは7歳の頃だった。
夜眠っていると、物音で目が覚めた。
何事かと思い、襖からリビングを覗くと、父が母に向かって物を投げていた。皿やコップや私のおもちゃを。それが投げられて、母に当たる度に、鈍い音がした。
「いつまでこんな生活続けるんだッ!もうお前とは懲り懲りなんだよ···!」
父がそう怒鳴り挙げた。その顔は、涙と怒りで赤に染まっていた。
「ごめんなさい···!もうやめて···あの子が起きちゃうから···!」
母がそう泣き叫んだ。その顔は、涙と血で赤に染まっていた。
私はそれをただ呆然と見ていた。
その翌日から、父は家に帰ってこなくなった。母は絶望に陥ったような顔をしていた。
そしてある日、母は私をある場所に連れていった。とても楽しい場所だと母は言うので、私は楽しみだった。
そこは孤児院だった。母は私をここに預けようとしていた。当然の如く、当時の私はそんなことを知らなかった。ただ無邪気に、ここでは何が行われるのだろうと、ワクワクしていた。母の顔を覗くと、今にも崩れそうな顔をしていた。
母が私を預ける時のことを、一つだけ覚えている。
「ねえカイちゃん、ママね、とっても大事な用事ができちゃったの。カイちゃん、ママとしばらく会えないかもしれないけど、でも、必ず会いに行くから······ここでママを待てる?」
私は首をかしげた。私はちゃんと待てるよ。いい子だよ。
そしてとびきりの笑顔で言った。
「待てるよ!!」
すると母は優しく、愛おしそうに笑うと、一言だけ言った。
「カイちゃんは勇気のある子ね」
それから二年が経ち、私には新たに友達ができた。名前をユキといった。
ユキは素直で、仲間思いな一面があった。私が他の男子にいじめられているのを見て、ユキはその男子をこてんぱんにした。他の子もユキを称賛した。私はそんなユキをかっこいいと思った。ユキに憧れた。
それでも、ユキとの生活は長くは続かなかった。
ユキにも里親が決まり、私は嬉しい反面、寂しかった。でもユキを笑顔で送ろうと思った。最後にユキは必死に作り笑いをする私に言った。
「海真は力が無くても勇気がある。その勇気を頼りに突っ走っていれば、必ず誰かが海真の努力に気づいてくれるよ。頑張れ」
私はそれをきいて、涙を堪えられなかった。ユキはその時は泣かなかったけど、里親の車に乗せられる時に、一筋だけ流したのを、私は知っていた。
そしてその一年後、テレビのニュースでそれを知った。
一人の少女が交通事故で亡くなったのだ。
『亡くなったのは、葉山由希さん、10歳で···』
その時に写し出された証明写真が、私には衝撃だった。
ユキだったのだ。
葉山なんてのは知らなかったが、顔と名前でそれがわかった。
ユキは死んだ。葉山由希は。
私は絶望に陥った。
それから二年間、私は脱け殻のような生活をした。母はもう戻ってこない。何をしているのだろう。ユキもいない。私にはもう、何もなかった。
ある日私は孤児院の先生と一日だけ買い物に行った。社会経験だと言い。
私はそこであるものを見た。一人の男が店の物を次から次へと盗んで行ったのだ。私は動揺した。こういうとき、どうすればいいのだろう。先生に訴えようとすると、先生はトイレに行ってくると言った。私は頷くと、もう一度あの男を見た。
目が合った。
その時、けたたましいサイレンが響き、警察がやってきた。すぐに店は取り囲まれ、その男は動揺した。
警察の一人が、「この店にいる客は全員ここに集まるように」というので、自分もそこに向かおうとした、その時だった。さっきの男が私の背後についたのだ。「いいか?さっき見たものを言ったら、お前を殺すからな?」
そう言って男はスティレットを取り出し、私の背後で構えた。そしてもう片方の手を私の肩に乗せた。父親を装うとしているらしい。
「進め」
不思議と私は動揺しなかった。そして男は私に、集団の最後尾につくように促した。もちろん背後が見えないためだ。
警察が話し始める。
「えー今回この店に窃盗犯が来ると聞きましてですね、調査を進めますと、防犯カメラに映っていたその者が、最近問題の連続殺人事件の犯人だということがわかりましてね。このことは、こちらの一之瀬探偵が暴いてくれました」
紹介されたその男は、探偵帽を取り、こちらに一礼した。黒髪の、優しそうな顔だった。
「そういうことなので、今ここに犯人がいるということです」
探偵はにこやかに言った。
同じ場に殺人鬼がいると知り、人々はざわついた。もっとも、わたしの背後にいるのだが。男はスティレットを私の腹に当て始めた。焦っているのだ。
「まあ、私はすでに犯人を知っているんですけどね」
ハハハと探偵は笑った。すると警察達が驚く。「わ、わかっているんですか?」
探偵はにこやかに言う。
「ええ。この状況を見ればわかりますよ。例えば····そこの後ろのお嬢さん」
探偵が私を指した。腹に当てられている物がさらに食い込んでいく。
「は······はい」私はしぶしぶ答える。
探偵はにっこり笑って私に近づいてくる。
「君ならわかるかな。この中の誰が犯人なのかとか」
周囲の目が私に向いた。きっとこの探偵は気づいている。
私のこの状況に。
腹に少し痛みが走った。どうする?言って死ぬのは嫌だ。だがもうこんな暮らしを続けるのもうんざりしている。
__ああ、ユキがいれば。
__海真は力が無くても勇気がある。その勇気を頼りに突っ走っていれば、必ず誰かが海真の努力に気づいてくれるよ。__
ああ、お願いだ。どうか誰か、私のことに気づいて。努力なんか気づかなくていいから。
ただ、存在を、私にその価値を見出して!誰か!!
「この後ろにいる男が犯人です!!!!」
気づけばそう叫んでいた。
その瞬間、探偵の「捕らえろ!!」という声が響くと同時に、腹に強烈な痛みが走った。
でもそれは一瞬だった。他の警官が男を捕らえたのだ。私の腹から少量の血が流れる。赤に染まっていた。
あの時の父と母のように。
探偵がすぐに私に駆け寄って、布巾で私の腹の傷口を強く押さえた。
「ああ、すまない。君を軽く扱うつもりは無かったんだ。ただ、君からその言葉が聞きたかった。大丈夫かい?痛むか?」
私はしばらくの間、頭が真っ白だった。何かから解放されたような感覚だった。痛みなんか当然無かった。私はふるふると首を振った。
探偵は驚いたような顔をすると、ハハハと笑った。
「そうか、ただこの傷の深さだと、ちょっと治療しないとだめだな。······ありがとう。君のお陰で無事犯人を捕まえられたよ」
「君のその勇気のお陰で」
私は目を見開いた。
そのあとは、ただただ不思議な感じだった。
「立てるかい?」
探偵は私を立たせると、周りを見渡した。
「えーっと、君を連れてきた人とかいる?お母さんとか」
私は一人だけいることに気がついた。
「······孤児院の先生。トイレに行ってたはず」
「孤児院?」
そして私はふとその人を見つける。警官から事情を説明されていた。どうやら今トイレから出たらしい。私はその先生を指さして言う。
「あの人」
探偵は私から手を離すと、「ここで待ってて」と言って、先生の方へ向かっていった。
周りを見渡すと、たくさんの人々が混乱していた。その時、ふと一つ親子に目がいった。
「お母さん、怖かったよう」
女の子は顔を赤らめて泣きじゃくる。そんな女の子の頭を母親は撫でながら言った。
「怖かったね。早くおうちに帰ろうね」
そして母親は女の子を抱いて、ゆっくりと店を出ていった。私は親子が見えなくなるまで、たた呆然と見ていた。もう羨ましくもなんともなかった。
「大丈夫?」
後ろから声をかけられ、びっくりして振り向く。
さっきの探偵だった。
「君の先生は別に大丈夫らしいから、君をうちの病院へ連れていこう。歩けそう?車でいくんだけど、そこまで抱えていこうか?」
痛みは感じないものの、正直言って歩く気力がなかった。でも知らない探偵に抱えられるのもちょっと嫌だったので、私は歩くことにした。
車には医務用のベッドがあって、私はそれに乗せられた。
「休んでていいよ。病院まではちょっと遠いけど、臨時救急車ですぐに向かうから」
臨時救急車?と私は思った。
すると探偵は、運転席のシートの下から赤色灯のようなものを取り出すと、それを車の上に取り付けた。光った。
そして車を勢いよく発進させた。探偵はスピーカーを持って喋り始めた。
「臨時救急車です。臨時救急車です。車道を空けてくださーい」
私は驚いた。一通り喋って車道が空き始めると、探偵はスピーカーを下ろした。
「すごいだろ?私はここらでも有名な医者だから、ちゃんと道を空けてくれるんだ」
探偵は後ろを向いた。「喋っても痛まない?」私はこくりと頷いた。
「君の名前を聞いてなかったな。なんていうの?」
私はしばらく黙った。この名前は好きじゃない。
「······柚木海真」
すると探偵はハンドルを持つ手とは逆の手で顎をさすった。
「ん?君は女の子だろ?それに柚木って」
「女です。私は···この名前が好きじゃありません。柚木は前の苗字です」
探偵はにっこり笑うと、「そうかそうか」と笑った。
「んーでもそうかあ。好きじゃないかー。勇敢な君にはぴったりだと思うんだけどな。私は気に入ったよ?海真って」
この人はなにが言いたいんだ。私は混乱した。
「私は一之瀬光。見ての通り探偵で、医者だ。呼び方は······先生でいい」
「よし、ついたぞ。ここが病院」
一見普通のアパートだった。西洋風の外観に、壁にはレンガで模様付けされている。私は車から降りると、玄関の前に立って鍵を開けようとしている探偵を見つめた。変な人だな、と。ただそれだけ思った。
ガチャリと音がしてドアが開くと、探偵は手招きして、「ささ、入って」と私を呼んだ。
ゆっくりと中に踏み入ると、そこはただの家だった。病院でもなんでもない。多分この人の家だ。探偵は私の表情を見て察したのか、苦笑いすると、「ここは私の家だよ。病院はこの奥だ」と言った。リビングを抜け、廊下の奥へと進むと、両脇に個室が三つ程あった。そのうちの一つ、左側の個室に入ると、そこはバスルームだった。探偵が向かったのは、その奥にある洗濯機の隣の扉だった。探偵はその扉を開けると、私を案内した。中に入ると、消毒の匂いがつんと鼻をさした。中は白で統一されていて、いたって普通の病院だったが、他の病院よりもやはり狭かった。診察室らしき場所に入れられて、ベッドに座らされた。
「うーん、やっぱり痛いよなあ。スティレットだもんなあ。痛いかもしれないけど、ちょっと消毒するね」
そう言って探偵は後ろの棚からコットンと消毒液を取り出すと、コットンに消毒液を垂らした。そして私の腹の傷口に当てた。
「傷が浅くてよかったよホント。どう?やっぱ痛い?」
驚くことに、痛みなど全く感じなかった。刺された時も痛みはあったものの、もう声も出なかった。
「······いえ。全く」
一通り治療が終わって、ベッドで休んでいると、探偵······先生がやってきて言った。
「体はまだ痛む?大丈夫?」
私は体を起こして、痛みが無いことを確認してから、「大丈夫です」と、一言だけ答えた。
「······一之瀬探偵って、医者でもあったんですね」
自分で言ったことが今更過ぎると呆れたが、先生はにっこりと笑った。
「うん。医者が本職なんだよ。昔から探偵ものが好きでさ、よく読んでて、憧れてたんだ。自分もこんな風に、かっこよく事件を暴きたいってね」
先生はガッツポーズをして天井を見た。私はその姿に目をぱちくりさせた。そんな私に気づくと探偵はハハハと笑った。
なんかいいな、この人。
「それでさ、まだ柚木ちゃんのこときいてなかったよね」
「え?」
何のことですか、という言葉を飲み込んだ。
「柚木ちゃんさっきから顔暗いし、痛みもまともに感じてなかったみたいだし、なによりさ、あの男に脅されてる時、ずっと無表情だったよね?普通の子なら涙くらい出るかと思うんだが······」
私はうつむいた。全部わかってたんだな、この人は。
「孤児院で暮らしてるらしいけど、それまでに、一体何があったんだい?」
先生は真剣な表情で私を見つめた。その先生の目を見た時、私は、喉から何か熱い物を感じた。次の瞬間、左目から一筋だけ涙が出たかと思うと、次は右目からも出てきて、それがだんだん止まらなくなってきた。気づけば私は泣き出していた。先生は優しく笑って私を抱くと、「もう大丈夫。大丈夫」と背中を撫でながら言った。
私は気づいた。今の私は何の意味もなく生きているのだと。誰からも必要とされていなかったのだと。
そして、この人の優しさに触れて気づいた。
私は一人だったのだと。
少し落ち着くと、私は先生に今までのことを話した。
家が貧乏だったこと。父の怒鳴り声と母の泣き声が聞こえたこと。父がいなくなったこと。母に孤児院に連れてこられたこと。孤児院で友達ができたこと。友達に里親ができて別れたこと。友達が知らない場所で死んだこと。
私が話す言葉一つ一つに、先生は耳を傾けて真剣にきいてくれた。最後まで話し終わると、私はもう涙も出なくて、ただ嗚咽だけが室内に響いていた。
「······そうか。辛かったな。話してくれてありがとう」
先生は全ての話を聞いて、ただずっと考え込んでいた。
そしてしばらく無言の時間が続いたあと、先生は何か決心したように、私に向き直ると、深く深呼吸して言った。
「柚木ちゃん、私の助手にならないか?」




