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フィオンの表情から彼の考えも感情も読み解けない。そして不意に彼が剣ではなく、その腕をこちらに伸ばしてきた。
「ᚦ!」
反射的に叫び、近くで爆音が響いた。太い氷の支柱が何本か床から出現し、冷たい破片が鋭く舞って辺りは冷気に包まれる。
続いてのルーンを唱えようとしたが、実際にシャルロッテが声に出せたのは間抜けなものだった。
「な、な、なぁぁああ!?」
どういうわけか、フィオンが真正面から力強くシャルロッテを抱きしめたのだ。気づけば彼の腕の中に自分はいて、あまりにも想像していなかった事態にシャルロッテは泡を食う。
素早く間合いを取って離れたものの動揺は隠しきれない。
「な、なにこの作戦。まさかイケメンを使ったハニートラップって。……卑怯よ! やるなら正々堂々と戦いなさい」
「すごいな、どの口が言ってるんだか」
傍観していた悪魔がすかさず口を挟む。シャルロッテはすぐさま反論した。
「人質を取ったとはいえ、勝負はそれなりに本気でやるつもりだったわ!」
こそこそとフィオンから視線をはずしてヘレパンツァーとやりとりしていると、フィオンは再びシャルロッテとの距離を縮めてきた。
「怪我は? なにもされていないかい?」
「ちょっと、聞く相手を間違えているってば!」
その相手はどう考えても人質になっているクローディアに対してだ。どうして彼女を捕えている魔女に聞くのか。
この男、頭がおかしくなったのでは、とシャルロッテが疑惑の目を向けると、フィオンはにこりと微笑む。
「間違っていないさ。会いたかった」
「いやいやいや、私たち初対面ですよね?」
再会を喜ぶかのようなフィオンにシャルロッテはつい敬語になって全力で否定する。そのとき牢の方で妙な気配を感じた。
クローディアは括目し、ものすごい形相でシャルロッテたちを睨んでいる。その表情は先ほどまで怯えていた可憐さなど微塵もない。むしろ、まったくの別人でなにかに憑りつかれでもしたのか……。
瞬きひとつせず、クローディアの口角がこれでもかというほど上がる。その表情でシャルロッテは悟った。
「まさか、あなたも……」
「なにをしているの、フィオン。さっさとその魔女を倒して、私を王子の元へ連れて帰って」
甘える声でフィオンに縋るも、彼は冷静だった。
「王子はあなたに会わないとお伝えしませんでした?」
「そんなはずないわ。王子は私のものなのよ。私は彼と結婚するんだから」
か弱い声とは裏腹に、檻にかかった白い手は、血管が浮き出るほどに力強い。フィオンはため息をつくとクローディアからシャルロッテに視線を移す。
「彼女はね、自分がラルフ王子の婚約者だと吹聴し、あることないことを周りに語りだした挙句、怪しげな術に手を出したと聞いていたんだ。最近、行動がエスカレートし見張りをつけていたんだが……」
どうやらフィオン一行はクローディアの救出というより彼女の動向を追ってここに来たらしい。それにしてもたかがひとりの人間に三十人ほどの騎士団を連れてくるほどの事態なのか。
「……なるほど。彼女が私と手を組んでいると思ったわけね」
「まさか。ここに来たのは偶然さ」
爽やかな笑顔に対し、シャルロッテは盛大に肩を落とす。
「あーあ。どっちみち、人質選び失敗ってわけね。これは私のミスだわ。で、王子がもっとも信頼を寄せるフィオン・ロヤリテート分団長の判断は?」
わざと挑発めいた言い方をしてもフィオンは眉ひとつ動かさない。
「王子に、ひいては王家に害をなすのならば、彼女を斬るのもやむをえないが……」
そこで彼はやっと腰に手をかけ、鞘から白銀の輝きを放つ剣を抜く。覚悟を持って向ける相手は檻の中のクローディアだ。しかし、彼の表情は複雑さに満ちている。
「そりゃ、できれば避けたい選択肢ではあるわね。とりあえず、それは彼女の中にいる存在と話をつけてからにしてもらいましょうか」
「中?」
フィオンが訝しげに尋ねると、シャルロッテは彼よりも前に踏み出し、檻に近づいた。黒衣の裾が揺れ、クローディアをまっすぐに見据える。
「さて、私は魔女よ。もう取り繕わなくて結構。彼女の中にいる黒き者よ、出てきなさい」
シャルロッテが呼びかけると、クローディアは恍惚に満ちた笑みを満面に湛える。美しいというより不気味さが漂うものだ。
「あいにく祓魔の力は持っていないけれど、この騒動の穴埋めくらいはしないとね」
シャルロッテがパチンと指を鳴らせば檻が一瞬にして消える。
「コムラウス・|カイネベヴェーグング《Keine Bewegung!》 」
小さく呟やき、檻のあった箇所に指を滑らせば、そこに青白い跡が光りだしクローディアを囲うようにして捕えた。
ザワつく騎士団の面々をフィオンが制す。クローディアの目は血走り、瞼がわずかに痙攣する。それでも微笑みさえ浮かべる彼女に、シャルロッテも笑いかけた。
「どうするの? 彼女の中にいる限りそこからは出られないわよ」
「なに、簡単な話さ」
クローディアの発した声は彼女自身のものではなかった。低くなにかが背中を這うような不快感をもたらす男のしわがれた声。表情さえも彼女の若々しさが消え、まるで老婆だ。