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善と悪……。
相反するその二つについて考えさせられた。
本人がどんなに正しいことだと思っていても、客観的に見れば悪に分類さることもある。その逆のケースもあるだろう。
なんと曖昧で、不確かなものなのか……。
だけど、完全なる善悪もあるはずだ。そしてその判断をくだすのが、ぼくの仕事だ。
正確にいえば、神により決断されたことを事務処理していくだけなのだが、神の代弁者として、正しい善悪の基準をもつことは必要だと実感している。
* * *
期待した成果はなかった。神尾更紗さんにパンフレット配りをお願いし、大樹自身も天国の宣伝をしてまわった。それでも実際に『住居がえ』を申し出る人はいなかった。
いまだに、三人。鈴木二郎氏以外は、閻魔の二人という結果に変化はなかった。しかもその閻魔のうちの一人は、もうじき転生してしまう。
とはいえ、成果がまったくないわけではない。パンフレットのおかげで、見学者が何人かあらわれた。が、いくら見学してもらっても、その天国の領域が小さなバルコニーしかないというのは致命的だ。かといって、人口を増やさなければ面積が広くなることはない。
まさしく負のスパイラルだった。
どうにかしなければ……。
宣伝広告以外に、なにか策はないだろうか?
「はやく天国に行かせてくれ!」
「え?」
大樹は思いもしなかった抗議に、思考を中断した。閻魔業務の真っ最中だったのだ。
「はやく頼む。ワタシは天国に行くんだ」
天国への希望者だと嬉しさがこみ上げたのも束の間、その人物の容姿を見て、大樹は表情が固まってしまった。
日本人ではない。これは、どういうことだろう?
ここは日本人しか管轄していないはずだ。だが、その男性はあきらかに外国人だった。
いや、見た目がそうでも、ハーフということもある。外見が異国人のハーフなど、現世ではすでにめずらしくもなんともない。
大樹は書類に眼を落した。
名前も、やはり外国人のものだった。
「天国へ送ってくれ!」
異国の男は、熱心に訴えかけている。
「こういうこともあるんですよ」
ちょうどいいときに、執務室へ先輩がもどってきた。いまでは、ほとんど引き継ぎは終わっているから、業務のほぼすべてを大樹がおこなっている。
「どういうことですか? 日本でお亡くなりになったとか?」
「いえ、その場合でも、出身国のあの世へ送られます」
「それじゃあ……」
「書類を読んでみてください」
先輩に言われるまま、名前以外にも眼を通してみた。
「あ」
「は、はやく! ワタシはそのためにここへ来たんだ!」
男性は必死にそう言っているが……。
「そういうことです。天国への権利を有していない者は、出身国のあの世へは行けません。死んだ土地のままなんです」
つまり、この日本の地獄へ送られるということだ。当然、好んで地獄を選ぶわけではない。亡者として苦しみ続けることになる。しかも、故郷から離れた異国の地獄で。
「残念ですが……、あなたは天国には行けません」
本当に残念だった。
「ど、どうしてなんだ?」
どうやら、彼の話す言葉も日本語ではないようだ。だがそれはわかるのに、意味は通じる。
「あなたは生前、多くの人の命を奪いました」
「そ、それは……楽園に行くためだ! そのためにやったんだ」
「そんなことは許されません。あなたは、地獄に堕ちなければならない」
大樹は、毅然と告げた。もう何度も地獄への申し渡しを経験している。情にも流されないし、たとえ脅されたとしても、うろたえることもない。
もう閻魔としての覚悟をきめている。
「あなたの所業で、罪のない人々が数多く命を落しました。あなたは地獄にしか行けません」
「そ、そんな……あれをやれば、天国に行けるって約束だったんだ! ワタシはそれを信じてやったのに!」
「だからといって、あなたのやったおこないが許されることはありません」
「だめだ! ワタシは天国へ行くんだ! そのために、あんなことを……」
「あなたにそれを伝えた人間も、死ねば必ず地獄へ堕ちます。報いは必ず返ってくるんです」
すがるように異国の男性が迫ってきた。危害をくわえようとしているわけではなかったが、それでも大樹は身構えそうになった。
宗教にからむテロリストなのだろうが、その教義において正義とされているおこないでも、ここでは通用しない。
悪の行為は、地獄へ堕ちる。
ごくあたりまえの摂理だ。
大樹は、書類に判を押した。
「いやだ──っ!」
絶叫を残して、異国人は地面へ沈んだ。
何度経験しても、後味の悪いものだった。
午前の業務が終わり、地獄ツアーへ出かけた。本日の参加者は二十名ほどで、最近としては少ないほうだ。
各観光地をまわったあとは、しばしの自由時間をもうけた。殺し屋に襲われるかもしれない恐怖はあったが、いまのところそういう素振りはなかった。
大樹は、あの女性の姿をさがした。
パンフレット配りをお願いした神尾更紗さんだ。
「島崎さん」
むこうのほうから呼びかけてくれた。
きっとツアーで行きそうなところに、彼女のほうから出向いてくれたのだ。
彼女の手には、パンフレットがあった。最初に渡したものは配りおえたというので、昨日あらためて渡したものだ。預けた枚数よりも、だいぶ減っている。
「配ってくれたんですね」
「はい。まだ全部とはいきませんけど」
たとえ一枚だけだったとしても、感謝の思いしかない。
「ありがとうございます!」
「いえ、島崎さんは命の恩人ですから」
彼女はそう言うが、そもそも危ないめにあったのは、大樹が狙われたとばっちりなのだ。恩を感じる必要はないのだが……。
まちがいなく彼女は、前世でも聡明でやさしく、素晴らしい女性だったのだろう。
そこで、ある可能性に思い至った。
「神尾さんは、もしかして……」
「はい?」
「会ってもらいたい人がいるんですけど!」
先輩の待ち望んでいる奥さんが、彼女なのではないかと考えていた。
* * *
地獄生活向上委員会の会合が、本日もおこなわれていた。
ワイワイ、ガヤガヤ、あいかわらず騒がしい。だれかがなにを言っても、だれの発言かわからない。一種のカオスと化していた。
「殺し屋は、失敗したようね?」
「ちょこまかと、ちょこまかと」
「まだ、失敗したわけではない」
「負け惜しみね。酒がまずくなるわ」
「一人だけではないのだよ」
「女だ。女を呼べ」
「へえ、まださしむけてるんだ」
「それよりも、あの閻魔見習いの男だが……」
「まえにも気にしていたわね?」
「空調きかせろ、暑いぞ」
「なんなの、その見習いがどうしたの?」
「神が動いているらしい」
「ちょこまか──」
「なんですって!」
その声のために、だれかの発言が消されてしまった。
「なぜ、神が?」
「バランスをとるためさ」
どうやら、会合の空気までが変わってしまった。無駄なことを口にする鬼はいなくなっていた。
「バランス・オブ・パワー。すべては、天国と地獄の均衡によって成り立っている」
「なるほど、神がいまのバランスを嫌っているというわけね」
「そのために、神の采配がおりたというわけさ」
「で、そのボウヤは、そんなにすごい人材なの?」
「そんなことはない。だたの人間だった。いや、ただの人間にもなっていない」
「どういうこと?」
「運命を書き替えられているのかもしれん」
「そんなバカな……」
「本来、人の運命は、どんなに若く亡くなったとしても、報われるようにできている。もちろん、そうじゃない悲劇だってあるだろう。つらいだけの人生だってめずらしくない。だがそれは、それ以前の前世による因果が原因だ」
「そのボウヤが、これまでの前世で、なにかやらかしてるんじゃないの?」
「そうなのかもしれん」
「そうなのかもしれないって……わからないの?」
「不明だ」
「それは調査不足でしょ? 神前院が情報を出してくれないんじゃなくて?」
『神前院』とは、天使と鬼(悪魔)と神のあいだに立つ存在のことだ。ベテランの天使と鬼から選出され、選ばれると同時に、神と同等の位に上がる。ただし、完全なる神族となるわけではなく、長い者では数千年、短くても数百年で神へと変化していくのだ。
「おれにもコネがある。情報は、神前院のお歴々でも把握してないようだ」
「それは、どういうことになるのかしら?」
「それこそ、神のみぞ知る……」
「なるほど。ボウヤは、切り札かもしれないのね?」
「天国と地獄のバランスを変える──」
いや、崩れていたバランスが、もとにもどるのか……。
「委員会を終了する」