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なつかしい、と思った。
静寂な場所に存在する小さなバルコニー。
どこかで見たことがある。
おばあちゃんの家だっただろうか。それともむかし、家族旅行で行ったどこかだろうか……。
白いバルコニー。
だれもいない。とても、ひっそりとしている。
霧が周囲にまとわりついているさまが、とても幻想的だ。
ぼくは、しばらくそのバルコニーに見蕩れてしまった。
* * *
「まずは、天国からです」
そう言われて連れ出されたのが、ここだった。
執務所の最上階の扉を開けると、小さなバルコニーがあった。
「どうしましたか?」
閻魔の声で、大樹はわれに返った。
「あ、いえ……」
白一色のバルコニーだった。テーブルとチェアが一つだけしかない。テーブルの上にのっている花瓶と花の色も白い。
「ここが、天国なんですか?」
「そうです」
とはいっても、バルコニーのさきは深い霧がかかっていて、まったく視界がきかない。
「この奥は、どうなっているんですか?」
「いえ……ここだけです」
「はい?」
大樹は自分でも、間の抜けた声を出してしまったな、と感じた。
「どういうことですか?」
「ですから、ここだけです。このバルコニーだけなんですよ」
「なにがですか?」
「天国です」
老人の言っている意味が理解できなかった。
「天国は、ここだけなんです」
「そ、それは……」
次の言葉が出てこなかった。
「天国と地獄の広さは、それぞれの人口に比例してしまうんです。天国の住人は、いまは私一人しかいません。ですから、このバルコニーだけなんです」
愕然とする内容だった。
「一人……?」
閻魔が一人ということはさきほど教えてもらったが、天国の住人まで一人だけとは、どういうことなのだろう?
「地獄の自由化で、どんどん人口が減っていったんですよ。罪人でないかぎり、途中で天国か地獄かを変更することもできるんです」
それにしても、天国に一人しかいないなんて……。
「これで、わかったでしょう? どれほど深刻なのか」
深刻といえば深刻なのだろうが……まだ事態がよくのみこめなかった。
「本当に、あなた一人だけなんですか?」
「私一人だけです」
人口に比例して、大きさが変わる──ということは、地獄はどれほど広大なのだろう?
大樹は想像して、目眩がしそうになった。
「世界で死んだ人が、みんな地獄にいるってことですよね?」
「あ、それはちがいます。ここ、日本支部だけの話ですから」
「支部?」
「現世では、国がいっぱいありますよね」
「国境ということですか?」
「そうです。アメリカとか、イギリスとか」
つまり、あの世でも国ごとに分かれているということらしい。
「ほかの支部ではどうなのかわかりませんが、ここほど極端なことにはなっていないでしょう」
「……こんなになってしまうほど、地獄は魅力的なんですか?」
「では、これから地獄の体験ツアーもおこないますので、行ってみましょう」
執務所の地下へ向かうと、やはり扉が一つあった。しかし天国とちがうのは、その扉の前に何人も待っていたことだ。
十数人はいるだろう。
「みなさん、お待たせしました」
閻魔が、待ち人たちに声をかける。
「閻魔の仕事は、体験ツアーのガイドも兼ねていますので」
小声で大樹にだけ聞こえるように、老人は補足した。天国は大樹一人だけだったのに、地獄となるとこれだけ人が集まるようだ。
「では、地獄ツアーをはじめます」
閻魔が扉を開けた。
どんな世界が広がっているのか、大樹は息をのんだ。
足を踏み入れる。
予想もしなかった光景が、そこにあった。
賽の河原も、炎熱地獄も、針の山も、どこにもない。むろん、膨れ上がった人口により、眼にしているのは、ほんの一部分でしかないのだろう。が、それにしても、地獄らしいものは見当たらなかった。
というより、普通の街並みだ。
ビルが建ち、街路樹が緑を彩り、通りでは様々な店が営業している。
東京のどこかと見紛ってしまいそうだ。
「こ、ここ……」
「これが、地獄の風景です」
「ぜんぜん、地獄っぽくないですけど……」
「向上委員会によって、だいぶ様変わりしちゃいましたからね」
これでは、現世とかわらない。はたして、地獄として機能しているのだろうかと疑問をもった。
「罪人を罰するところですよね、地獄って」
「はい。一応」
閻魔は、道路に顎をしゃっくた。
ちゃんと車も走行してるし、歩道には通行人も多くいる。本当にどこにでもある、ただの街並みだ。
「え? あ、あれ……」
大樹は、あるものに気がついた。
アスファルトの表面に、人の顔が浮かんでいるのだ。
「か、顔……ですよね?」
「そうです。あれが、地獄に堕ちた罪人です。飲酒運転での事故や轢き逃げをおこしておきながら、反省もせず、その後の人生をすごした人間たちです」
「あれが、罰なんですか?」
「タイヤ地獄です」
名称だけでは、恐ろしさは伝わらない。
「永遠に、車の下敷きになり続けるんです」
すると、見学者の一人から質問があがった。
「あ、あのー、ぼくらには、ああいうのはないんですよね?」
「もちろんです。自由市民のみなさんには、好きなように生活していただくことになります。地獄へ来たけれど、途中で天国へ行きたくなったという場合でも、対応させていただきます」
まるで、サービスの良い営業マンのようだった。
本心では天国へ人を呼び込みたいのだろうが、そんな態度はおくびにも出さない。ある意味、プロに徹している。
「では、次の場所に移動しましょう」
閻魔が、そう言った刹那だった。
「え?」
だれもが驚いていた。
場面が変わっていた。瞬間移動のように。
「あ、驚かせてしまったようですね」
閻魔の表情は、どこか誇らしげになっていた。
「テレポーテーションですか?」
見学者たちが、喜びの声をあげた。
「いまの、ぼくたちもできるんですか?」
「いえいえ、みなさんにはできません。みなさんは、現世と同じように行動することになります。ですが、ちゃんと交通機関も発達してますので、安心してください」
そして小声で、大樹にだけ、
「閻魔だけに許された特殊能力ですよ」
と、告げた。
「ここ、なんですか?」
だれかから、声があがった。
瞬間移動したそこは、とてもにぎやかな繁華街のような場所だった。近代的であり、個性的な建造物が並んでいる。
「ここは地獄日本支部のなかでも、娯楽に特化させたエリアです。どうぞ、好きなだけ遊んでみてください」
一行は、眼の前の建物に入った。そこはカジノだった。実際に行ったことはない大樹だったが、ラスベガスにでも来たような錯覚をおぼえた。
スロットマシン、ルーレット、ブラックジャック。さまざなまゲームを体験することができた。しかも、無料だ。
「勝ったぶんのお金は、地獄ポイントとして貯めることができます」
「なにか良いことがあるんですか?」
大樹のそんな素朴な疑問に、閻魔はさらりと答えた。
「とくにないようです」
「なんのために貯めるんですか?」
「自己満足です。なんせ、娯楽があるだけでも貴重ですから。ここでは現世とちがって、通貨という概念はありません。本来なら賭け事は成立しないんですよ。それでもやっぱり楽しんでる方が多いということは、価値のないものでも集める楽しみがあるんじゃないですか」
「は、はあ……」
ほかの見学者たちは、みなギャンブルにはまりこんでしまったようだ。
「あの人たちは、やらないんですか?」
けっしてゲームに参加しない人間がいることに大樹は気がついていた。
「あれも、罪人です。現世でギャンブルに狂って、まわりに迷惑をかけ続けた人間の末路ですよ。彼らは、見ているだけ。参加することは許されていません。見るだけ地獄です」
またしても迫力のないネーミングだった。だが、ギャンブル好きが遊ぶことのできない状況は、相当な精神的拷問であるはずだ。
カジノでだいぶ時間を使い、それからリゾート地、ショッピングモールへと場所を移動した。どれもが蠱惑的で、人の心を惹きつけるには充分だった。
しかも通貨というものが存在しないから、買い物もタダだ。
これでは、天国のようではないか──大樹は、そう考えた。
「だから、厄介なんですよ。あなたはこれから、天国のような地獄から、本当の天国へ人を呼び込まなければならないんです」
ツアーを終え、執務室にもどると、閻魔は言った。見学者は、そろって地獄行きを希望して、すでに全員が旅立っていた。
閻魔の口ぶりからは、すでに大樹が閻魔の職を継いでくれるものと信じて疑わないようだ。
「しばらくは私の補佐ということで、研修してもらいます。その間、あなたをサポートしますから」
「で、でも……」
「ぜひ、お願いします! というより、あなたしか閻魔をまかせられる人はいません」
これでは、断ることもできない。そういう空気を完全につくられてしまった。
「わ、わかりました……ぼくにできるなら……」
仕方なく、大樹は観念した。
「ありがとうございます! それと……閻魔になる者は、途中で地獄に変更はできません。そのことだけは覚えておいてください」
はたして、自分に閻魔がつとまるだろうか……天国をにぎやかにできるだろうか……。
考えれば考えるほど、心の奥が重たくなっていく。まるで、胃のなかに文鎮を何個も何個も詰められていくように。
文鎮地獄だ。
その想像に、思わず大樹は苦笑してしまった。