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別れは、突然だった。
まだ心の準備はできていなかったのに……。
* * *
金庫さがしを再開した。
あの鬼によれば、それは金庫という概念のものではないという。
ならば、想像しているような形ではないのかもしれない……。
とはいえ、室内はさがし尽くしている。これ以上、どこをさがせばいいというのだろう。
そのとき、先輩がやって来た。
「どうかしたんですか!」
もっと酷い状況になったのかと心配した。
「天国は、いまのところあのままです」
「そうですか……」
少し安心した。
「ですが、いつ崩壊してもおかしくありません」
「崩壊?」
「地獄に占領されるということは、天国の崩壊を意味しています」
それはそうなのだろうが、その表現は恐ろしすぎた。だがしかし、天国が完全になくなってしまうのだから、そういうことなのだろう。
そこで、ある疑問が浮かんだ。
「あの、以前に、こういうことはなかったんですか?」
「こういうこと?」
「ですから、天国が地獄に占領されてしまったこと!」
「い、いえ……どうなんでしょう。なかったと思うんですが……」
先輩の知るかぎり、そういうことはないらしい。
だが鬼は、天国と地獄はつねに領土争いをしている、と語っていた。いつも均衡がたもたれていたわけではないはずだ。完全な崩壊はなくても、危ない状況はあったのではないだろうか?
「ここの歴史は、どれぐらいあるんですか?」
「ここ?」
「そうです……ここです!」
「……どうでしょう。何千年になるのか、何万年になるのか」
それでは人類の歴史を超えてしまう。いや、あの世とはそういうものかもしれない。
大樹は、とりあえずそれを信じることにした。
「なにか、これまでの歴史を知る方法はないですか?」
「本を読むしかないです」
「本? この部屋にある?」
「そうです。ですけど、ここの本を読むのはひと苦労ですよ。どの本になにが書いてあるのかわかりませんし、見た目以上に量がありますから」
「見た目以上?」
それは、一冊のページ数が多いということだろうか?
「眼に見える本だけではないということです。本棚から取り出せば、泉のようにまた本がわきだします」
ためしに大樹は、本棚に近寄って数冊を手に取った。
本当だった。空いたはずの隙間に、べつの本が出現していた。
「いったい、何冊ぐらいになるんですか?」
「……読みきれないほどとしか」
手に取った本の表紙を見たが、なにが書かれているのかよくわからない。開いてみた。天国の空気元素がどうとか……まったく意味の理解できない難しい本だった。
とにかく、片っ端から読んでいくしかない。
「ぼくはこれから、ここの歴史を調べてみます」
「は、はあ……」
「以前にも似たようなことがあったかもしれません。どうやってこの事態に対処すればいいのかわかるかも……」
大樹も自分で口にしていて、望みの薄い方法だと感じていた。しかし、それしかやれることがない。
「先輩は、引き続き天国の様子を注意しててください」
「わ、わかりました」
そこで大樹は、愕然とした。
「え……先輩?」
なにがおこっているのか、頭が回らない。
「どうしました?」
当の先輩もわかっていないようだ。
「か、身体が……消えて……」
先輩の身体が透けていた。まるで、透明人間になる途中のような姿だった。
「あ……」
先輩も自らの身体を見て、何事がおきているのかを悟ったようだ。
「これは……」
「どうしちゃったんですか!」
もしかして、これが転生というやつだろうか?
「旅立つときが……」
「ちがいます……これは、そんなんじゃありません」
先輩の表情は深刻だった。
「天国が本当になくなろうとしている……」
「ど、どうなっちゃうんですか?」
「よくはわかりませんが……天国にいる人間は、消滅してしまうのかもしれません」
衝撃の内容だった。
「で、でも……ぼくは大丈夫ですよ」
大樹は身体をチェックしてみるが、とくに変化はない。
「きっと、神前院だからだと思います」
いまひとつ大樹はそのことを信じていなかったが、こうして先輩とのちがいを目の当たりにしたら、本当にそうなのかもしれない。
そして、あることに思い至った。
「神尾さん!」
天国の住人に変化があるのなら、神尾更紗さんにも異変がおこっているはずだ。
とりあえず大樹は、天国へ急いだ。
扉を開けると、先輩と同じように透けている神尾さんがいた。
「島崎さん……これ!」
彼女も驚愕していた。
「ど、どうすれば……」
このまま消滅させるわけにはいかない。
しかし、なにをすれば防げるのか……。
このままでは天国は崩壊し、その住人までが消えてしまう。
「天国……」
そうだ! 大樹は、ひらめいた。
「天国から出ていけば、消えなくてすむんですよね?」
いっしょにもどっていた先輩に問いかけた。
「い、いえ……たとえ執務室などへ避難したとしても防げません」
先輩はそう言ったが、大樹にもそれはわかっていた。執務室にいた先輩が消えかかっているのだ。
「『住居がえ』をすればいいんです!」
「え?」
先輩も、それには驚いたようだ。
「神尾さん、とにかく来てください」
彼女をつれて、執務室にもどった。
「『住居がえ』を申請してください!」
「どういうことですか?」
「天国から地獄に住居がえをしたら、天国の住人ではなくなります!」
「で、でも……」
「それをしなければ、このまま消えてしまいます! それを防ぐためです」
大樹は、とにかく言い聞かせた。
「わ、わかりました……」
机の上に、彼女の書類を出した。
「住居がえを認めます!」
大樹は、判を押した。
それまで消えそうだった神尾さんの身体が、もとにもどった。
「これから、わたし……」
彼女は、もう天国には行けない。地獄の住人にもどってしまったのだ……。
その旨を伝えると、残念そうにしていた。せっかく勇気をもって住居がえを申し出てくれたのだ。それなのに、また地獄にもどらなくてはならないなんて。
「でも……もし、天国がもとどおりになったら……」
そのさきを、大樹は言えなかった。
「わかっています。またここに来ます」
彼女は、そう言ってくれた。
あとは先輩だけだ。
「先輩も、住居がえを!」
「できません」
「え?」
「できないんです……」
意味がわからなかった。先輩の書類を出そうとしても、机の上にはなにも出なかった。
「どういうことなんですか?」
「ですから、できないんです……閻魔になる者は、天国の住人でありつづけなければなりません。だから『住居がえ』はできないんです」
そういえば、念を押されたことを思い出した。大樹自身、あまり深くは考えなかったが、地獄への住居がえができないということだったのだ。
「ど、どうすれば……」
大樹は、言葉をなくした。
「あとのことは頼みます」
「……天国がもとどおりになったら、また復活できるんですよね?」
「それはわかりません。でも、あなたなら立派な閻魔になれるでしょう。ここからは、あなた一人です」
先輩の身体が、顔を残して、ほとんど消えていた。
「必ず、天国をもとどおりにして、たくさんの住人でいっぱいにしてみせます!」
「楽しみです──」
こうして、大樹はただ一人の閻魔になった。




