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人は死んだら、どこへゆくのだろう?
だれしも一度は考えたことのある疑問だ。
ぼくも、小さいころに考えたことがある。
善人は天国へ昇り、悪人は地獄へ堕ちる。
だからぼくは、死んだら天国へ行きたかった。幼心に、悪い大人にだけはならないと誓ったこともある。
なのに……。
まだ、大人になりきるまえだった。
ぼくが死んだのは……。
* * *
深い霧に覆われた通路を、彼は歩いていた。
どこなのかは理解できないが、不安はなかった。そして同時に、もう死んでいるのだということもわかっている。
どのぐらい歩きつづけているのだろうか?
数時間のような気もするし、数日間のような気もしている。
ゴールは見えない。次第に、ただ歩くことに飽きてきた。
暇つぶしもかねて、彼は歩きながら、これまでの人生を振り返ろうとした。しかし、思い出せない。人生どころか、名前や年齢すらわからない。なぜだろう?
記憶喪失になってしまったようだ。
が、次の瞬間──。
頭のなかに、いくつもの名前が浮かび上がってくる。
(なんだ……?)
島崎大樹。佐藤仁三郎。大山トキ──。
そのあとにも、大量の知らない名前が悩内を占拠する。
本能的に悟った。それらは、すべて自分の名前なのだと。
(そうだ……ぼくの名前は)
まるで、選ぶようにその名をつぶやいた。
「島崎大樹だ」
一番はじめの名前が、どうにも愛着があるのだ。
(年齢は……)
「十九歳」
そう思うことで、それまで不確かだった自分の形までが、はっきりとしてきた。
これまでの……たった十九年間の人生が、細胞が増殖するさまのように、頭のなかで完成されていく。
島崎大樹、享年十九歳。
ついさきほどまで、その名で生き、あっというまの命を終わらせたばかりだ。
たぶん、ほかの名前は、むかしの自分の名前だったのだ。
『そうだよ』
自身の心の声に、応える者がいた。
姿はない。
声がしたわけでもない。どこからか湧き上がってくる《意識》のようなものが応えたのだ。
『だんだん、思い出すはずだよ』
この《意識》は『戻りの案内人』だ。案内人といっても、人でもなければ、人であったものでもない。形はなく、通行する者の疑問に答えてくれるのだ。
『ほら、思い出してきた』
島崎大樹以外の名前は、もっと前世でのものだ。
ここで、これからの名前を──つまりは、これからの人格を選ぶことになる。彼が、島崎大樹という名前をチョイスしたのは、偶然でも、気まぐれでもない。彼の根底にある存在(魂という陳腐な表現でもいい)が、それを望んでいたのだ。
濃い霧が、じょじょに晴れてきた。
彼は──島崎大樹は、目的地までもうすぐだということを予感した。
『もう大丈夫だね。おかえり。次の転生まで、楽しんでね』
前方で、人が列をなしていた。
何人並んでいるのだろう。
列をなす人たちは、みな無言で、彼と同じように、ここでの「しきたり」を思い出しかけているようだ。周囲をキョロキョロと見回している。
好奇心はあるようだが、ほかの者に話しかけるまでには積極的になれないようだ。
大樹も、ただ黙して並んでいた。
何時間経っただろう。そうだ。ここでの時間の流れは、現世とはちがう。現世での一時間が、ここでの数日に匹敵するのだ。たしか三日だっただろうか……。
ということは、現世での一日は、ここでの七二日ほどになる。
いま到着したばかりだから、ここでの時間にまだ慣れていない。とても長く感じているが、それはたかが数分のことなのかもしれない。
ようやく前方に、一つの建物が見えてきた。
田舎の役所か村役場のようなたたずまいだった。
『閻魔の執務所』
案内人の声ではなく、頭のなかに自然とその名称が浮かんできた。
だいぶ思い出してきたことを大樹は自覚した。それと同時に、まだ思い出せないことも多いので、それがとてももどかしかった。
さらに数時間並びつづけて、やっと執務所のなかに入ることができた。なかも役所となんらかわらない。ただし、たくさんの部屋があるのに、みなが向かっているのは、たった一つの部屋だった。
そのことに疑問を感じても、建物に入った時点で『戻りの案内人』の管轄からはずれているから、答えてくれる者はいない。
前後の人に訊くのも、どういうわけかためらわれた。そんなルールはないはずだが、みな話し声をたてることを避けているようだ。それに質問したところで、自分と同じようにみな思い出せていないのではないか──そうも大樹は考えた。
部屋までの距離が、だんだんと近づいてくる。また一人、また一人と入室していくさまが、健康診断の順番を待っているかのようだった。そういえば、病気だと発覚する少しまえに健康診断をうけた。結果は異常なしだったのに、それから一年と経たずに死んでしまった。人の運命は、どうなるかわからない。
そしていま自分は、ここへ帰ってきた。
複雑な感慨を、大樹は振り払った。
眼の前の人物が、部屋に入った。次は自分の番だ。急に、大樹は緊張してきた。
この部屋のなかは、どうなっているのだろう? 閻魔の執務所ということは、このなかにいるのは『閻魔様』ということになる。
どんな恐ろしい顔の人間──いや、神なのだろうか……悪魔なのだろうか……極悪人をも裁く残虐なる存在が、そこに鎮座しているはずだ。
「次、どうぞ」
扉のなかから、そう呼ばれた。
大樹は、ゴクンと唾を飲み込んだ。
意を決して、なかに入った。
予想よりも室内は明るく……というより、建物同様、ただの事務所だ。部屋の奥には、いくつもの棚が並べられ、乱雑に書類や書籍がおさめられている。デスクは五、六人分あるのに、働いているのはどうやら一人だけのようだ。長蛇の列が続いていたのは、このことが原因にあるのかもしれない。
入り口正面に業務カウンターがしつらえられていて、そのたった一人の事務員が応対している。
「はい、こんにちは。あなたは……島崎大樹さんですね?」
なにやら書類に眼を通しながら、そう問いかけてきた。
「は、はい」
その事務員は歳の頃、七十歳ぐらいだろうか。いや、現世の──現代日本の常識からいえば、ここまでヨボヨボだと、八十歳は過ぎているだろう。
しゃべり方だけはしっかりとしていて、かろうじて仕事はできるのだと安心することができた。
(仕事……)
大樹は、ここが役所でも事務所でもないことを思い出した。
そうだ、ここは閻魔の館なのだ。
「驚いた顔をしてますね? ムリもない。ここでの記憶を完全に取り戻すまで、約一週間かかりますから」
ここでの一週間は、現世での五〇〇日ほどだから、一年以上さきになる。気の遠くなるような話だ。
「それは、まだここでの時間の流れに慣れてないからです。しばらくすれば、一週間なんてあっというまになりますよ」
よほど顔に出ていたのか、老人はそう言った。
「あの……ここで、なにを?」
大樹は、たずねずにはいられなかった。
「もちろん、死者となったあなたたちを天国に送るのか、地獄に堕とすのかを決定しているのです」
『もちろん』と前置きするのも当然だ。それそこが、この場所の役目なのだから。
「あなたが、代行してるんですか?」
「いえいえ。私が閻魔なんです」
《閻魔》という響きからは、想像すら困難なほどのギャップだ。
「え、閻魔様?」
「ははは、みんな同じことを言いますよ。なんせ、もどったばかりだと、ここでのことを思い出している者は、ほんの一握りですから」
「は、はあ……」
「むかしは、もっと閻魔の数も多かったんですけど、ごらんのとおり、いまは私一人だけなんですよ」
「え?」
たしかに机は五、六人分あるのに、部屋にはこの老人しかいない。それに、この建物内のべつの部屋も使われている形跡がなかった。
「閻魔様って……一人じゃないんですか?」
「本来は、何人もいるものなんですよ。もしかして、鬼のような形相をして、厳しく罪人を地獄に送り込むような姿を想像していましたか?」
していた。
「閻魔とは、あくまで執行官の一人にすぎません。たんなる事務職ですよ」
ますます、わかりづらくなった。
「あ、そうです。どうですか? あなたも閻魔になってみませんか? いえ、そのほうがいいです。そうしてください!」
いきなりすぎる話を迫られた。
「そ、そんな簡単になれるものでもないでしょうから……」
大樹は、そう言うことしかできなかった。そもそも、普通の人間(だった者)がなれるものではないはずだ。
「そんなことありません! 閻魔になる条件は、たった一つです」
「?」
「それは、天国の住人であること!」
「それって、神様とか、天使とか……そういう意味ですよね? ぼくは、そんなんじゃないですよ」
「だからちがうんです! 私だって、そんなんじゃありません」
「え?」
頭が混乱した。
「ほら、羽も生えてないし、神々しくもないでしょう?」
そう言われれば、そうだ。老人は見るからに、普通の人だ。
「じつはね……困ってるんですよ」
しみじみと、老人は語りだした。
「私の転生期限が迫ってるんです」
「転生期限?」
「あ、まだそういう細かなことは思い出せていませんよね。要は、いつまでに現世で生まれ変わらなければならない、という掟があるんです」
「は、はあ……」
「で、私の期限が迫っているというわけです」
ということは、自分にもあるのだろうか?
大樹は、ふと考えた。
「えーと、島崎大樹さんの期限は……」
その思いを先回りされて、老人は書類に眼を向ける。
「おー!」
なぜだか、歓声にも似た唸り声をあげた。
「どうしたんですか?」
なにか良からぬことが記述されているのだろうか……。
「すごいです!」
「なにがすごいんですか?」
不安は増すばかりだった。
「期限は、指定されてません!」
「されて……ない?」
それがどういう意味をもつものなのか、まるで見当がつかない。
「すごいこと……なんですか、それ?」
「こんなの、何十万人に一人しかいませんよ」
「……」
なぜ、自分が?
そう疑問を感じずにはいられなかった。
「そうですよ! そういうことなんです!」
「な、なにが、そういうことなんですか……?」
「あなたは、閻魔になるためにここへ来たんですよ!」
興奮したように、老人は言った。
「どれどれ……」
老人は眼鏡をかけて、書類をこれまでよりも真剣に読みはじめた。
「やっぱり!」
「い、いったい……」
「早死にしてますね? それも、不自然なほど急に」
病気にかかったのは、信じられないほど突然だった。
運命を呪ったこともある。
大樹は、生前のことを思い描いた。
まさか十九歳という年齢で、不治の病におかされようとは……。
「それは、もしかして……」
老人の口ぶりからは、まるで自分の死が仕組まれたもののように聞こえた。
「たぶんそうですね。閻魔業に就くため、急遽ここへ呼ばれたんです」
話が見えなかった。そんなことがあるはずない……そういう思いが大樹の頭を支配していた。それではまるで、運命をムリヤリねじ曲げられたようではないか。
「そんなに怖い顔をしないでください。これからあなたは、天国へ行くんですから」
とてもではないが、明るく笑うことなどできそうになかった。
「一応、たずねておきますが……天国と地獄、どちらへ行きますか?」
わざわざ答えるまでもないような質問をされた。そう訊かれて、地獄と答える人間がいるだろうか?
「そういうのは、強制的に決められるんじゃないんですか?」
それが閻魔の権限なのだろうから。
「それは、悪人だけですよ。つまり、地獄行きが決まっている人だけが、強制なんです」
「でも、自ら進んで地獄へ行きたいなんて人……いるんですか?」
すると、老人の表情があきらかに変わった。
「どうしたんですか?」
「きまりなので、説明させてもらいますね」
とても言いたくないようだった。
「まずはこれを」
A4サイズの小冊子を渡された。
そこには、歓楽街やリゾート地の景観写真とともに、以下のようなことが書かれていた。
◎地獄の住民権の向上をお約束します。
◎行動制限を無くし、自由で明るい地獄ライフを満喫ください。
◎天国よりも、楽しくてエキサイティングな生活を。
「なんですか、これ?」
「地獄生活向上委員会によるパンフレットです」
ますますわからない。
「その、なんとか委員会って……」
「地獄をもっと快適に──をスローガンに活動する天使たちのことです」
「は、はあ……」
「天使っていうのは天国での呼び名で、地獄では鬼になるんですけど……まあ、われわれよりも格上だから、その方針に従うしかないんです」
「地獄が住みやすくなってるんですか?」
「そういうことです。むかしにくらべれば、天国のようなところになっていますよ」
地獄なのに天国……なんと、ややこしい。
「で、でも……やっぱり行くなら天国でしょう?」
「いやいや……ここしばらく、天国の人気はさっぱりなんです」
とても信じられる話ではなかった。天国よりも地獄のほうが人気だなんて。
「退屈で、自由がない。そう思われてるんです。娯楽は少ないし、刺激も少ない」
「ですけど……地獄は拷問されたり、苦行をしいられたりするんですよね?」
「だからそれは、罪人だけなんです。善人には拷問もなければ、苦行もない」
たとえそうだとしても、やはり大樹には納得できなかった。
「事前に見学ができるんですよ。どうですか? 百聞は一見にしかずです。天国と地獄の現状を視察してみては」
「え、ま、まあ……それができるなら」
「そうしてください。そして、天国のために力を尽くしていただきたい!」
言っている意味がよくわからなかった。
「あなたは閻魔になるためにここへ来たんですから、どうか天国の住人になって、われわれの仲間になってください」
どこから、そんな過度な期待がわくるのだろう。大樹は、困ったような愛想笑いでごまかすしかなかった。