Intermedio 指先に口づけを
Intermedio(幕間)
「うまくやったな、メイヤードの次男坊」
昼下がりの王宮の回廊、すれ違いざまに聞こえた言葉は,紛れもなくコンラートに向けたものだとわかった。
ここ数ヶ月の間、彼に悪意のこもった言葉を投げかける者は珍しくなかった。が、コンラートは生来の図太さと鈍さで、それほど気にとめる事はなかった。しかし、今回は聞こえた単語に今回は思わず眉をひそめた。
振り返り、相手の顔を確認する。
彼と同じ、騎士の制服を身につけている男は記憶にある人物だった。
…王太子の近従。
こちらを嘲るような眼差しをむける男に、コンラートは臆することなく視線を合わせた。
「せいぜい上手くやることだな。お前がどう足掻こうとも、王太子殿下の地位はゆるがないがな」
かすかに怒りをにじませた声音に、コンラートは嘆息して踵をかえした。
あちらの方が身分は上で、失礼に値するのは重々承知だが、彼は珍しく腹を立てていたのだ。
なにを今さら。自分が王太子に害をなすとでもいうのか。
時は経とうとも、人々の記憶には消せない出来事がある。
自身が忘れようとしても、世間が忘れていようとも。
メイヤードの名は当事者に今もなお影を落とす存在なのだ。
「コンラートさま?」
「わあ!」
突然目の前に現れた、大きな蒼い瞳に気づいたコンラートは、珍しく声をあげ、のけぞった。
こちらを心配そうにのぞき込んでいるのは彼の婚約者である、ジゼル姫だった。
「何回も呼んだのに、お返事なさらないんだもの。で、でもね、そんなに驚かなくたって」
コンラートの叫びにジゼルも驚いたようだった。落ち着かせようと胸元に手をあてている。
どうやら、ここはジゼルがよく散歩をする中庭のようだ。休憩中だとはいえ、無意識にここまで足を運んでしまったらしい、とようやくコンラートは我に返った。
「ええと、コンラートさま?気分でもすぐれませんか?」
「いいえ、元気です。えっと、あの…こんにちは」
「こんにちは、コンラートさま」
不思議そうにこちらを見上げながら、それでもジゼルは心底嬉しそうに花が咲くような笑顔を見せた。
最近、そんな笑顔を見るたびにコンラートは不思議に思う。
何が彼女をここまで喜ばせるのだろう、と。
「姫君は……」
「なんですか?コンラートさま」
「ええと、……」
コンラートは喋るのは苦手だ。
仕事仲間との事務的な会話なら苦もないが、女性相手になるとどうも、でくの坊になると自分で自覚している。
話すことを一生懸命に整理しようと頭をかかえるが、次の言葉がまったく出てこない。
「コンラートさま、ジゼルとお話してくれるの?こ、婚約者同士のおしゃべりですね!」
目を輝かせたジゼルは、にこにことコンラートの言葉をせかすこともなく楽しそうに待っている。
今までの経験では、女性というものは、コンラードが何を話そうと考えている間に、呆れて去ってしまうものだと思っていたが、どうやらジゼルは違うらしい。
沈黙すらも嬉しいというように、気長にコンラートの言葉を待っているのだ。
ふっとコンラートの頬もゆるむ。
ジゼルはやわらくなった空気に気づいたかのように、微笑みを返してくれた。
「姫君は…、姫君は、王太子殿下とは仲がよいですか?」
「ルーカスお兄さま?うーん。そうですねえ、ルーカスお兄さまは嫌味で意地っ張りだから、あまり仲は良いとは言えないかも。あ、でも、いざという時は助けにきてくれることもありますよ」
「嫌味で、意地っ張り、ですか?」
「みんなに対してそうなのよ。口を開けば、ひどいことばかり。でもね、あとで少し反省しているみたいなんですよ!本当は寂しがり屋なんだと思うの!」
コンラートが知るルーカス王太子はいつも威厳ある、厳しい方という印象だったが、ジゼルの語る王太子はずいぶん可愛げのある人物に思えた。
ふふっと思わず笑うと、ジゼルも内緒ですよ、とくすくす笑う。
「でもね、寂しがり屋なのは仕方ないとも思っているの。だって、ルーカスお兄さまのお母さまは、お兄さまが小さい頃にお亡くなりになってしまったの」
「…はい。知っています。最初の王妃さまですね。事故で亡くなられた…」
「そうなの。小さい頃、アンドルーお兄さまも私も意地悪されたことがあったけど、その時のルーカスお兄さまはとても寂しかったって知っていたの。だから、よく遊びに行ったわ。アンドルーお兄さまと」
どうしようか。とコンラートは迷った。
話してみようか。自分の身の上を。しかし、ジゼルには関係のない話である。そして、心配事はまだ自分の推測でしかない。
関係のない話をされても、困るだけだろう。
それに、順序よく話せるような技術は持ち合わせていない。
話すにしても、何から話す?生まれた日から?話し終わるまで何年かかるというのだ。ますます姫に迷惑ではないか。
「コンラートさま?」
しばらく喋らず、固まっていたらしいと気づいたコンラートはあわてて顔をあげた。
ジゼルはじっとコンラートを見つめている。
まるで、すべての仕草から感情のかけらを見逃すまいとしているかのように。
「あの、私は…」
ふと、思いつめたような表情でジゼルは意を決したように口を開いた。
「コンラートさまと、もっとお話がしたいです。たとえば、今どんなことを考えていたのか、とか」
(お話…。今二人でしていた事はお話しではないのか。
今、考えていたこと?また、上手く話せなさそうにない、と反省を繰り返していた、この思考か?それを話す?どうやって。しかし、姫が思いつめておられる。自分が悪いに違いない。しかし、何が原因か分からないのでは謝りようもない)
「姫君、今」
「ご、ごめんなさい!こ、こんなこと、うざったいですよね!忘れてください!コンラートさまの胸の内はコンラートさまだけのものですわ!」
あわてたようにまくし立てるジゼルに、ますますコンラートは混乱した。
なぜ、謝られているのかが、まるでわからない。
「ごめんなさい。コンラートさま。でもね、せっかく婚約したのに、それから数ヶ月たったのに…、なんだかコンラートさまとの距離が出会った頃と、まるで変わってないように思えて…」
ジゼルはくるりと背を向けて、後ろで手をくんだり離したりしながら、やがてうつむいた。
コンラートは困り切っていた。
弱々しく震えるジゼルの肩を見つめながら、彼女にどんな言葉をかけたら良いのか分からなくなっていた。
距離が変わらない。
それはコンラートも感じていたことだった。
いや、わざと変わらないようにしていた。
この国の姫君と、ただの騎士。
しかも、いわくつきのメイヤードの次男。
しかし、国王に認められ、引き返せないところまで来てしまった。
…引き返したいのだろうか。
この距離を心地よく感じている自分にも気がついている。
ジゼル姫に慕ってもらいながら、たわいもない会話をするこの距離が心地よい。
卑怯者、とどこかで自分の声がする。
責任もとらず、相手の気持ちを考えず、不誠実な今の距離に甘んじるつもりなのか、と。
いっそ、姫君のほうからこんな自分に嫌気をさしてくれたら…
それは実に、甘美な誘惑だ。
「お許しください、姫君」
困り切ったコンラートは、そうひざまずくしかなかった。
今は、ただひたすらに許しをこうしかない。
「え!そんなに謝らなくても!おかしなことを言ってごめんなさいコンラートさま」
立ち上がらないコンラートに、ジゼルは申し訳なさそうにしゃがんで目線を合わせた。
「そんなに気にしていたわけではないんですよ。これから、ずっと一緒なんですもの。私が焦りすぎました。ゆっくり歩いていきましょう」
真っ赤になったジゼルの手をとると、コンラートは贖罪の意も込めて、その指先に唇を押し当てた。
春のあたたかな日差しのようなジゼル姫。汚れのない清らかな姫君。
決して触れてはならない女神のように神聖な手に、自分の汚れが移ってしまわないよう、そっとコンラートは持ち上げた手を離した。