榛の騎士の物語3
「姫君、そちらは危ないですよ」
川のせせらぎに引き寄せられ、駆け出したジゼルの背に愛しい人の声がかかる。
「コンラートさま、はやくはやく!」
木の根に足をとられながら走ると、心配そうに後をついてきてくれるのが鬼ごっこのように楽しくて、ジゼルは軽やかな笑い声をたてた。
そんなジゼルの様子に、コンラートも楽しそうに目を細める。
今日はなんて素敵な日なんだろう、とその表情を見たときジゼルはいつも思うのだ。
「ねえ、コンラートさま?おしゃべりしませんか?」
ジゼルはにっこり笑い、問いかける。
予想どおりに、彼は不思議そうに何度かまばたきをした。
『話の続きはコンラートから聞きなよ。これからは知りたいことがあるなら、ねばって聞き出せばいい。それができないうちは結婚なんてできないよ』
昨日、話の続きをねだったジゼルに、ビクターがそんなことを言い出した。
急な態度の変化に、最初こそジゼルは不思議に思ったが、彼がもっともなことを言うので大きく頷いたのだ。
「ビクターさんったらね、わたしに嘘ばかり教えるんですよ。だからわたし、何が本当のことなのかよくわからなくなっちゃって…。だから、コンラートさまに直接教えてもらおうと思ったの」
「…ビクターが…?」
いつも優しくジゼルを見守っているコンラートの瞳に、一瞬不機嫌な色がよぎったのは気のせいだろう。
しかし、少し不安になったジゼルはそんな彼に一歩近付こうと足を踏み出した。
しかし、木の根に足を取られたジゼルは思いきりつまずいてしまった。
「きゃっ!」
「姫!」
とっさに身をのり出したコンラートの胸に、ジゼルはつまずいた勢いのまま、なすすべもなく頭突きをかましてしまう。
思いもよらない婚約者の攻撃に、コンラートもバランスをくずし、結局そのまま二人で転んでしまった。
しかし、ジゼルは体のどこにも痛みを感じなかった。コンラートを下敷きにしていたおかげだ。
「コンラートさま!ごめんなさいっ」
慌てて顔を上げると、鼻がくっついてしまうほど近くにコンラートの顔があり、ジゼルはそのまま固まる。
自分の顔がコンラートの瞳に映っているのがわかるくらい、近くにいるのだ。
ばくばくと騒ぐ心臓を意識しながら、それでもジゼルはそこから離れなかった。
いつのまにか、コンラートの顔に魅入っている自分がいたからだ。
長いまつ毛、鼻筋が通った綺麗な鼻。
ひとつずつたどって、やがて視線は唇にたどりつく。
…これって、キスの予感?
その間、仰向けのままのコンラートは、ジゼルの瞳を見上げているだけだ。
どきどき どきどき
心臓が高鳴り、息をするのが苦しくなる。
コンラートさま…
私ずっと、貴方とこうしたかった。
そんなことをこの頃、いつも考えてしまっていて、自分で自分が恥ずかしくなるくらい、自分で自分の頬をじんじんするまで叩くくらい、想像してしまっていて……
いつか、いつか、と願っていたの。
そっと目を閉じる。
コンラートの手が、ジゼルの柔らかい髪に触れる。
そのまま、唇をコンラートに近づけようと思ったそのとき、 なぜかコンラートが身を起こした。
「お怪我はありませんか?姫君」
当然、一緒に起き上がることになったジゼルは、ぽかんとコンラートを見つめた。
先ほどの甘い雰囲気などなかったのような、けろりとした顔を見たとき、
さすがのジゼルもため息を覚えた。
……コンラートさまの、鈍感。
また、彼の驚異的な鈍感さが発揮されたのだ。
がっくりと肩をおとしたジゼルは、大丈夫です、と言って立ち上がる。
「コンラートさまに昔恋人がいたっていうのは、やっぱり嘘だったのね…」
なんとなく、ジゼルは思ってしまった。
コンラートなら、女性にいいよられても本当に気付かなそうだ。まして、自分から口説きにいくなんてことは想像もできない。
やっぱり、コンラートさまの恋人になれるのはわたしだけだわ、と分析したジゼルは、キスしてもらえなかったことに開きなおって、なぜか自信と優越感を感じていた。
「恋人?誰が言っていたんですか?」
「え?あ、はい。ビクターさんが…」
そんな嘘を、と笑い飛ばそうと思ったジゼルは、そのまま顔をひきつらせることになった。
コンラートが、かすかに眉間にしわを寄せ、押し黙ってしまったからだ。
「あれ?コンラートさま」
あれ?もしかして…
「…恋人がいたんですか?」
「え?いや…」
「いたんですね!年上ですか?年上の女性なんですね!?」
「姫君。おちついて…」
「なんで話してくれなかったんですか!?」
あまりにも衝撃的な事実に、ジゼルはぼろぼろと泣き出した。
「ひ、姫君。どうかおちついてください。恋人なんていません。信じてください」
「信じませんっ。だってまだ眉間にしわがよってます!」
困ったように黙ってしまったコンラートは、何か考えているようにそのまま何も言葉を発しなかった。
しかし、しばらくして口を開く。
「少しからかわれただけで、恋人ではないです。」
「からかわれた?」
やっぱりいたんだ…、とジゼルの胸は音をたてそうにくらい強く軋んだ。
「コンラートさまは…その女性がお好きだったんですか…?」
なぜか、驚いたようにコンラートはジゼルを見た。
まるで、そんなこと初めて考える、というように。
「コンラートさま…?」
「姫君が思うような感情は、ありませんでした」
コンラートは、やけに難しそうな顔を浮かべていた。初めてみる、その、ばつの悪そうな表情に、ジゼルは嫌な胸騒ぎを感じた。
「わたしが思う感情…」
つまり恋愛感情というものだ。
「はい。ずっと傍にいたいと思ったり、喜ばせたいと思ったり、……ときには嫉妬をしたりして、たったひとりの人に感情を振り回されて、違う自分を発見する。この感情のことを好きというのなら…」
ひとこと、ひとこと、間違っていないかジゼルの様子をうかがいながら、コンラートは慎重に言葉を並べていった。
「好きという気持ちならば、…こんな感情を経験したのは、最近なんです」
静かだが、しっかりと響く声音でコンラートは言葉を紡ぐ。
きゅん、と高鳴る胸を無意識に押さえながらジゼルはコンラートを見つめた。
しかし、甘い感情とともに、まだ信じきれない不安も沸き上がる。
本当に、なにが本当で嘘なのかわからなくなるのだ。
コンラートの言葉が本当なのか…、それとも…
「…本当ですか?」
「誓います」
真摯にこちらを見つめるコンラートに、どきどきしながらジゼルは思いきって口を開いた。
「では、証拠に……」
口の中が乾く。
ごくりと喉を鳴らしたあと、またコンラートを見上げる。
「キスしてください」
驚いた顔をするコンラートを確認してすぐに、ジゼルは目をとじた。
目を閉じないと、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだったからだ。
自分がコンラートにどう映っているのか、分かりたくなかった。
女性からキスをねだるなんて、ふしだらだと思うだろうか。
不安になってきた頃、ゆっくり草を踏む音が聞こえた。
男らしい大きな手が、ジゼルの頬にそえられる。
ぴくりと反応しながらも、ジゼルは目を閉じたまま上を向いた。
黒い影をゆっくりと落ちてくる。
その間、小鳥のさえずりや川のせせらぎの音が、心臓の音とともにやけに耳に響いた。
黒い影が、閉じた視界に満ちた瞬間、しっとりとした熱をジゼルは感じた。
しかし、感じたのは額だった。
「コンラートさま…?」
どうして…?
泣きそうになりながらコンラートを見上げると、彼はとても困ったようにジゼルを見つめていた。
初めてみるくらい、困りきった…どこか切なそうな…
どうして?
どうして、キスしてくれないの?
その疑問は声にならず、唇だけをかすかに動かす。
何事もなかったよう苦笑したコンラートは、ジゼルの白い手をとった。
「……そろそろ冷えてきましたね。もう、戻りましょう」
先ほどの出来事を取り繕うかのように軽くひざまずき、忠誠という意味がある口付けをその手におとす。
黙ったままのジゼルを促し、城に向かうコンラートの背中を見つめながら、ジゼルは激しく動揺していた。
『貧乏貴族の次男は、金持ちの名門貴族の婿になるしかない。…つまり君の求婚をすぐ承諾したのはただそのため』
ふいに、ビクターの言葉が頭をよぎる。
…そんなはずない。
だって、コンラートはいつだってジゼルを大切におもっている。
…それは、わたしが『ジゼル』だから?
…それとも、『姫』だから?
『姫君、あなたは愛のない結婚をして幸せなのかい?』
コンラートさま、教えてください。
こっちをもう一度振り向いて、教えてください。
不安だらけな胸を押さえるジゼルの髪を、冷たい風が撫でていく。
季節はずれのその冷たさは、ジゼルのほんのりと熱い恋心を冷まそうとしているようでとっさに身を縮める。
どうか、彼のかすかな熱も冷ましてしまわないで。
前を歩くコンラートを眺めながら、ジゼルはそっと冷たいままの唇に触れた。