新約 愚鈍な亀と水鳥さん
とある山の大きな池に、愚鈍な亀がいました。亀なのだからある程度のろまなのは仕方の無いことだけれど、その亀は他のどの亀にも増して愚鈍でした。
彼が十歩進む間に他の亀たちは二十歩も先を歩いていました。彼が魚を捕ろうとしてる間に他の亀たちは腹を満たして太陽の光を浴びていました。彼がいちばん遅れて甲羅干しを始める頃には、もう太陽は顔を隠す所でした。
周りの亀たちは、そんな彼を笑いました。
「あいつは誰よりものろまだよ」
「あいつは泳ぎもままならないんだよ」
「あいつはなんだってあんなに遅いんだ?」
「あいつはどうして皆に出来ることが出来ないんだ?」
ひときわ大きな亀が答えました。
「そりゃあれさ、あいつはそういう星の下に生まれたんだよ。あいつ、のろまになるように出来てんだ」
「どうして?」
「のろまだと良いことなんにもないのに?」
「亀がみんな同じだと、損をする奴がいないだろう? あいつはおれたちのために損を買ってくれているんだ」
「損? なんだってそんなものを?」
「あいつが魚を取り逃がすからおれたちは一匹多く魚を食べられる。あいつが甲羅干しに遅れるから、一匹分場所が空くんだ。あいつ、いつか天敵が来た時は率先して食べられてくれるんだぜ、あののろまさでよ。その間におれたちは逃げられるんだ。感謝しなきゃな」
「でも、おれたちに天敵なんていないよ」
「それもそうだ」
亀たちは笑いました。
彼は、それを遠くから見ていました。怒ったり、泣いたり、しませんでした。ぼんやりと、そうかもしれないなあ、と思っただけです。
そうかもしれないなあ。ぼくは皆のために損をしているのかもしれない。
「あいつは愚鈍にしか動けない運命なんだ。そのまま死んでいく運命なのさ」
ある日、池に水鳥が飛んできました。
水鳥は亀たちの嫌われ者です。水鳥は魚を食うからです。水鳥が魚を食うと亀たちが食うぶんが減ることになります。それに、いつか魚といっしょくたに亀も食うかもしれません。そんときゃあいつの出番だろう、と皆笑いましたが、それでも皆は水鳥が嫌いでした。
その日も、皆は散り散りに逃げましたが、愚鈍の彼だけが逃げ遅れました。甲羅干しをしている岩から逃げられないままの彼に、水鳥が言いました。
「あなた、どうしてこれから日が沈もうって時間に甲羅を干しているの?」
彼は答えました。
「皆が先に干すからだよ。ぼくはいちばん後って決まってるんだ」
「変な話ね。どうしてそんなふうに決まっているの?」
「ぼくがのろまだからさ。ぼくだけ魚を食べ終わるのが遅いんだ」
「なら甲羅を干してから魚を食べれば良いじゃない」
水鳥はつんとして答えます。
「良いんだよ。ぼくは皆に場所を譲っているだけなのさ」
「変ね。そんなことしたって誰も喜びやしないのに」
水鳥は飛んで行ってしまいました。
次の日も、また水鳥は来ました。
「やあ、水鳥さん」
「またいたわね。あなた、どうして逃げないの?」
「ぼくがのろまだからさ」
「変ね。ほかの亀は皆あんなに必死になって逃げているのに」
「彼らは水鳥さんが嫌いだって言うのさ」
「変ね」水鳥さんはしきりに〝変ね〟と言いました。「わたしは彼らを食べたりしないのに」
「そうなのかい?」
「ええ。あなたたち亀って、固くて食べにくいんですもの」
「そうか。なら逃げる必要ないね」
「変ね。そういう話でもないでしょう?」
「そうかい?」
「そうよ」
水鳥さんはつんとして答えました。
水鳥さんは言いました。
「あなた、変ね。どうして私と一緒にいるの?」
彼は答えに困りました。
だって、君だけさ、僕と話をしてくれるのは。
なんて、恥ずかしくて言えなかったからです。
代わりに彼は言いました。
「君が綺麗だからさ」
水鳥さんは遠くを見ながら答えました。
「変ね」
次の日もまた次の日も、彼は水鳥さんと話をしました。彼は水鳥さんの〝変ね〟が聞きたくて、毎日毎日遅めの甲羅干しをして待っていました。
他の亀たちはそんな彼を見てまた笑いました。
あいつ、死にたいのかよ。
どうして水鳥さんに会うと死ぬことになるのか、彼には分かりませんでしたが、彼はそれも良いな、と思いました。
水鳥さんに会えるなら、いつ死んでも良いな。
でも死んだら会えなくなることに気付いて、せめて死なないようにしようと思いました。
もうじき冬が来るのです。
冬が来ました。山は冬眠の準備を進めました。
ある日水鳥さんは言いました。
「どうしてあなたは損ばかりしているの?」
「それが僕の役割だからさ」
と彼は答えました。
「よく分からないわね。そんな役割ってある?」
「あるらしい。皆の代わりにぼくが損をするんだ。ぼくひとりが我慢すれば、皆損をしないで済むんだから、ぼくは損をするのさ」
「そんなわけないじゃない」
水鳥さんはつんとして答えました。
「でも、彼が言うんだから正しいのさ」
「彼?」
「ほら、あそこに見える、いちばん大きい彼さ。ぼくらの中でいちばん大きいから、彼の言うことは正しいんだ」
「馬鹿じゃないの」
水鳥さんは飛んで行ってしまいました。彼は、今日は〝変ね〟と言わなかったな、と思いました。
次の日、いちばん大きな亀が水鳥さんに食われました。「魚が少なくなったから、とうとう水鳥の頭が狂った!」と亀たちが噂しました。
愚鈍の彼はいつもの甲羅干しの岩で待ち続けました。水鳥さんに頼みたいことがあったからです。
次の日、水鳥さんはいつものようにやってきました。亀たちはいつもより遠くへ逃げます。
「あなた、逃げないの」
水鳥さんが訊きました。
彼は答えました。
「どうして?」
「私は亀を食べたのよ。あなたの仲間を食ったのよ」
「すごいや」
「……はあ?」
水鳥さんは口をぽかんと開けました。
「だって、亀は食べにくいって言っていたじゃない。それでも食べちゃうんだからなあ」
「……あなたって、そうとう変ね」
「かもね」
「かもねじゃないわ。絶対そうよ」水鳥さんは彼の甲羅をくちばしでつつきました。「ほらっ、今にもあなたなんて食えるのよ。ほらっ、怖くないの?」
「うひゃあ」と言って彼は甲羅に引っ込みました。
「どう? 怖いでしょう?」
水鳥さんは威張りました。
けれども彼は、頭を出さないまま、言いました。
「いや。それで良いんだ」
「え?」
「このままぼくを食べておくれ。君はてっきり亀を食えないのだと思っていた。けれど安心した。あんなに大きな彼を食えたんだから、小さくてのろまな僕など食えるだろうね」
「どうして私があなたを食わなきゃならないの?」
彼はしばらく黙り込んで、そして涙で濡れた顔を出して言いました。
「何故だか分からないけれど、悲しいんだ。僕は明日冬眠してしまうだろう。するともうずっと死んだように眠るだろう。そのまま死んでしまうかもしれないし、別にぼくはそれでかまわない。でもどうしてだろう、何故だか悲しいんだ。いつもこうなんだ。毎年毎年、この時期が来る度に悲しくなる。どうしてだろうね」
彼は涙をこぼしました。
「……私は冬眠をしないから分からないわ」
「それに今年の悲しいはひどいんだ。まるで大きな石を飲み込んでしまったようで苦しいんだ。不安なんだ。眠っている間に君がいなくなってしまわないか」
水鳥さんは何も言いませんでした。
「もう分からないんだ。悲しくて怖いんだ。でも僕は愚鈍なんだ。のろまなんだ。どうしようもない。だからお願いだよ。ねえ、お願いだよ。僕を食っておくれよ」
「生きたままじゃあなた、痛いわよ」
「じゃあ明日で良い。明日僕は眠るから、眠る場所を君に教えておくから、ほじくり返して食べてくれ。眠っている間に死ねるなんて、僕は本望だ」
「笑いなさい」
「え?」
「笑いなさい」
彼は目を丸くしました。水鳥さんの言っていることがよく分からなかったからです。
「私に食べて欲しかったら、笑いなさい」
「……あは」
「ダメね」
「はは」
「ダメ」
「……無理だよ。ぼく笑うのって苦手なんだ」
「顔が笑ってないのよ。何も大笑いしろって言っているんじゃないの。笑顔を作ってみなさい」
「……へへ」
彼は笑いました。
水鳥さんはそっぽを向いて「変ね」といいました。
「何が変なの?」
「何がって、だって変よ。騙されるなんてね」
「嘘だったの?」
彼は驚きました。なんのために笑ったんだい。
「嘘よ。あの大きい彼、とてもまずかったもの。二度と亀なんか食べるものですか」
言って水鳥さんは行ってしまいました。
それでも彼はわかりやすい目印を置いて眠りにつきました。
土の中で、泣きながら、泣きながら。
長い、長い眠りにつきました。
そして春が来て、彼は目を覚ましました。いちばん早く眠っていちばん遅く起きた彼を、他の亀たちはまた笑いました。
彼は、まだ生きていることにがっかりしました。
水鳥さん、食ってくれなかったんだな。
それから何日かが過ぎましたが、一向に水鳥さんは現れません。いつもの岩の上で、今日も明日も明後日も、次の日もその次の日も待ちましたが、水鳥さんは来ませんでした。
もしかして、本当にぼくが眠っている間にいなくなってしまったんじゃないか。
彼はそう思って、悲しくなりました。きっと、冬眠する前よりも深く。
あんなこと言わなければ良かった。きっと、ぼくが食ってくれなんて言ったから、それが嫌で水鳥さんはいなくなったんだ。あんな悲しみ、なんて事無かったんだ。冬眠さえしてしまえば良いのだもの。それよりも今は、君がいないことのほうが悲しいんだ。
「あの水鳥、飢えて死にかけているらしいよ」
ある日、一匹の亀が言いました。愚鈍の彼は、その亀に訊きました。
「それは本当かい?」
「本当さ! どうやら今年の冬は厳しかったらしい。今は山の上で動けずにいるんだってさ! ざまあみろだ!」
だから愚鈍の彼は、山道を登り始めました。
やはり思った以上に坂は険しく、いくら歩けば良いのかすら分かりませんでした。
清らかな池とその周りでしか生きてこなかった彼にとって、木々生い茂る山道は土の中よりも恐ろしい場所でした。
何度も転び、裏返り、その度に手足は傷だらけになってゆきます。いつもなら水で洗い流す血にはどろどろになった枯葉が吸い付きます。それでも辛くはありません。
通りかかる獣たちは、彼を食えないものかと牙と爪で転がしました。彼が甲羅に籠もっている間に、終ぞ誰も彼を食えはしませんでしたが、おかげで甲羅はぼろぼろになりました。いつか水鳥さんが甲羅をつついてきたことを思い出しました。水鳥さんがつついても傷ひとつ付かなかった甲羅。彼はその破片を眺めて夜を迎えました。
いつも池から見上げていた星空が、今は木々に遮られて見えませんでした。枯葉を集めて包まって目を閉じれば、遠く聞こえていた眠らない獣たちの声が耳元で聞こえるような気がしました。
それでも彼は、水鳥さんの声を思い出しました。枯れて腐った葉や枝にうずくまってごみくずのひとつみたいになったぼくを見て、「変ね」と言ってくれるだろうか。
朝露に目を覚まして、彼は空腹を思い出しました。思えば冬眠から覚めて何も食べていません。何か食べなければと思いましたが、周りに魚はいません。何が食べられるのか分からず、また何を食べて良いのか分かりません。
これから食われにゆく彼が、何なら食べて良いと言うのでしょう。
彼は泥濘に頭を突っ込んで泥水を啜りました。そうしてまた歩き出しました。
寝ぼけ顔の太陽は彼の手足を乾かしてゆきます。手足が痛む度、頭が熱くなる度、彼は泥水や雨水を啜り、土を囓り、そうしていたらぐるぐる目が回って、全部吐き出しました。
それでも、決して辛くはありませんでした。
思い出すのは、仲間に笑われていた日々です。
いちばん遅く目を覚ませば笑われました。何も言わず、頭に被せられた土を洗いました。
歩けば笑われました。先をゆく彼らの足跡に足を取られて見た空に雲が浮かんでいました。
魚を捕るのに失敗して笑われました。水草は何も言わず、ただ青臭い味を噛みました。
そして全てに遅れて甲羅を干していたら、水鳥さんがやって来ました。
水鳥さんは笑わず、白くて、空からやって来て、そしてつんとそっぽを向くのでした。
今はただ、山に草が、木々が、土が、泥が、獣が、愚鈍の彼以外の全てがあるだけでした。
何も言わず、彼のことを見もしないその全てが、今はあの池に居た亀たちよりも仲間のように思えました。ここに彼の居場所はなく、だからこそ辛いこともなかったのです。
そうして愚鈍の彼は山を登りました。
彼が最後に見たのは、薄く黒い泥に汚れた、けれども輝くように真っ白なその羽でした。
山の上で丸まって眠る水鳥さんは、彼が近付く音で頭を上げました。
「……変ね。あなた、いつかの亀さんじゃない」
「そうだよ、ぼくだよ。目が覚めたんだ」
「そう」
水鳥さんは元気がありませんでした。
彼は水鳥さんの頭の前に立ちました。
「君は飢えているんだってね? ならぼくを食べなよ」
「あなた、まだそんなことを言うの。私はあなたを食べる気は無いのよ」
「どうして? 何か食べないと死んでしまうんだろう?」
水鳥さんはふうと息を吐きました。
「それで良いのよ。飢え死には誰にだって来るわ。私はここで死ぬ運命だった、ただそれだけのことなのよ」
「運命って……」
愚鈍の彼は、涙を落として泣きました。
「運命ってなんだい?」
「抗えない物よ」
「みんな運命って言うよ。ぼくがのろまなのは運命だって。ぼくが愚鈍で何一つ満足できないまま死ぬのは運命なんだって。じゃあ、君がぼくを食べる前にぼくが君を失うのも運命なのかい?」
水鳥さんは目を閉じて言いました。
「……違うわ。あなたは私を失ったりしないもの」
「どうして」
「死ねば永遠になるのよ」
「嘘だ。死ねば何も残らないだけだ。冬眠していくみたいに、そのまま起きないだけだ」
「……どのみち、今のあなたは食えっこないわ。涙の味がしそうなんだもの」
水鳥さんは笑いました。
彼はぽろぽろと泣きました。
「いやだ、笑わないでおくれ。眠らないでおくれ。またいつもみたいに変ねって言っておくれ」
「……そうね。じゃあお願いがあるわ」
「なんだい?」
「ここにいてちょうだい。ずっとここにいてちょうだい」
彼はぽかんとして、それから言いました。
「それだけで良いのかい? ここにいれば良いんだね? 良いよ、ぼくはいつまでもここにいよう」
「……ふふ」
水鳥さんは笑いました。羽を動かして、彼の甲羅を撫でました。
「優しいのね。私はどうかしら」
「優しいよ。君は優しい。君は綺麗だ」
「あら、でも私、あなたに嘘をついたのよ」
「知ってるよ」
「……え?」
「知ってるよ。でも、ぼくも君に嘘をついたから、おあいこなのさ」
「なんだあ、そうだったのね」
水鳥さんは笑いました。愚鈍の彼も笑いました。まるで泡が一つ、ぱっと弾けるような、小さい笑い声でした。
水鳥さんは彼の甲羅を撫でながら、目を伏せて呟きました。
おしまい