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87 日記

 ……この日記は、今までずっと琴音と二人で書き綴ってきました。それが今は残されたわたしひとりだけ……。また日記を書き出したことは、自分という存在を再び明るみに出す、心の整理の為です。

 しかし、わたしとは誰なのか、わたしには蘇った今でもはっきりとは分かりませんでした。鞠奈という少女は、十五年前に確かに精神的に死にました。それからというもの、わたしは決して鞠奈ではなかったと思います。鞠奈という自己は、この十五年の間、どこにもありませんでした。鞠奈という名前は、琴音がわたしを鞠奈と呼んだ時、あるいは、父がわたしを鞠奈と呼んだ時に確かに存在しましたが、わたしはそれを番号のように思っていました。なぜならば、わたしはその言葉の中に、わたしというものを発見できなかったのだから……。

 だから、わたしは琴音として生きる中で、哀しみを感じた時も、喜びを感じた時も、怒りを感じた時も、そこに確かな自分というものを感じることができませんでした。それはすべて琴音に向けられたものに対する感情で、琴音に成り切った時の、わたしの表面的な偽りの感情に過ぎませんでした。その感情が、どこから生まれてくるのか、何の為に生まれてくるのか。鞠奈から生まれてきた感情ではない、琴音という偽りのわたしから生まれてきた感情というより他に、答えることができなかったのです。わたしはその意味でずっと琴音の影法師だったのです。

 その為に、わたしは、いつしか影というものを恐れるようになりました。なぜならば、わたし自身が、琴音に差した明かりの先にできた影のひとつに過ぎなかったからです。そして、真実の自己というものは、ずっとどこかわたしの胸の底に沈んだまま、自分でさえも見つけ出すことができずにいたのです。

 わたしが鞠奈として本当に蘇れるのなら、そのきっかけは何だろうと、そのきっかけはいつだろうとずっと思いをめぐらしました。

 そのひとつの機会は琴音が首を吊って死んだ時でした。わたしは、琴音が死んだ時に、琴音という拠りどころを失って、否が応でも真実のわたしというものを再生しなければならなくなりました。つまりは、鞠奈を再生させなければなりませんでした。ところが、わたしはこの時、結局、鞠奈にはなれませんでした。わたしは代わりに琴音として生き続けました。ここでもまた、わたしは真実のわたしにうそぶいてしまったのです。

 わたしは、琴音が殺された責任を自分にあると思っていました。琴音が誰かに殺されたことは知っておりました。でも、それはただの表面的な事実です。もっと精神的で本質的な部分で、わたしは琴音を死へと追い込んでいたのです。

 なぜならば、わたしは隼人さんとの駆け落ちの話を琴音にしなかったのです。彼女は、ただ絶望の中、その事実を聞かされることなく、死んでしまったのです。わたしは、偽りの存在でありながら、本物の琴音から、隼人さんの愛を奪ってしまったのです。

 わたしは、その責任から、鞠奈という自己を捨て去ることにしました。なぜならば、それまで琴音の名を借りて、隼人さんと愛し合っていました。そして、琴音の死んだ後も、隼人さんの記憶の中で、琴音はずっと生き続けていたのです。

 ところが、もしもわたしが鞠奈として蘇り、これからも滝川鞠奈として隼人さんと愛し合ってゆけば、隼人さんにとっては、鞠奈が真実で、琴音が偽りのものになってしまう。そうなれば、死んだ琴音との楽しい思い出は、隼人さんの記憶からいつしか偽りのものとして消えてゆきます。今はそうでなくても、いずれ必ずそうなるでしょう。

 ……それこそが、琴音が本当に死ぬ時なのです。

 ところが、やはり真実は、偽りの存在は鞠奈の方であって、やはり死んでしまった琴音こそ真実の存在だったのです。だから、わたしは鞠奈ではなく琴音となって、彼女の代わりに生きなければならないと思ったのです。隼人さんの記憶の中の琴音をこれからも生かし続ける為に……。琴音の記憶を殺さない為に……。


 ……それでも、わたしはもはや琴音としては生きてゆけない。真実のわたしを見つけなくてはならないと、そう思うのです。鞠奈として生きなければいけないと、そう思うのです。

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