表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/90

前史 ①

ここから前史となりますが、架空戦記としつつもわかりやすさを目指して、かなり大雑把に書いています。また「んなアホな」と言える展開もあるでしょうが、ガチガチな歴史小説ではなく、現実世界をモチーフにした架空世界での異世界物のつもりで書いていますので、よろしくお願いします。

 地球と異世界とを結ぶ入り口である光の柱が発見されたのは、1905年(明治38年)6月のことである。時は日露戦争の末期、日本海海戦で日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を文字通り撃滅してまだ間もない頃であった。


 光の柱は日本本土から200海里離れた場所に出現したが、夜間であれば本土からでも発見できるほどの光源を持っていた。そのため、出現した翌日には最寄りの海域にいた漁船や貨物船によって確認されるとともに、帝国海軍にも通報された。


 バルチック艦隊を撃滅したとはいえ、もしやロシアの新兵器では!?日本海軍は大いに緊張したのだが、現場海域に急行した巡洋艦が見たのは、文字通り光の柱であった。


 無線通信がようやく使用され始めた時代である。この謎の光の柱発見から、その後情報の真偽をめぐってのやり取りに1週間近く費やしたものの、日本政府は早速海軍の艦艇に急遽帝大などからかき集めた学者らを乗せて調査にあたらせた。


 この光の柱の調査は、途中の悪天候などでの休止期間も含めて1カ月以上の長期に渡り行われた。だが結局のところ、この光の柱がどうして出現し、さらにどのような構造なのか、全く解明することができなかった。わかったのは、海上がどんなに荒れようが、台風が通り過ぎようが、この光の柱はビクともせず同じ場所にあり続けたいうことだけだ。


 そしてもう一つ。それは志願者による内火艇を使っての柱内部への突入による内部の調査により、もたらされた信じられない情報。


『柱をくぐると、入った場所とは全く異なる海へ出る』


 この報に、誰もが耳を疑った。それはこの光の柱が、どこかへ通じる入り口と言うことだ。ただその先がどこへ繋がっているかは、より詳細な調査を必要とした。


 8月に入ると、日本以外の各国もこの柱の存在を認知した。何せ、光り輝いているため洋上では容易に視認できるのだから。


 しかしながら、日本政府は当初「安全が確保されていない」として外国の介入を一切拒否した。そしてその間に行われたのが、後に歴史に残る第一次調査である。この調査のために、帝国海軍は旧式ながら戦艦である「鎮遠」と「扶桑」を動員した。


 「鎮遠」は日清戦争で清国から捕獲した戦艦。「扶桑」は20年近く前に建造された旧式艦。ともにそれなりに武装はあるが、既に旧式化が進行しており、万が一喪われても惜しくない艦であった。乗員や調査のために乗り込んだ乗艦者も、帰ってこれないことを覚悟のうえでの志願者で固められた。遺書までしたためての出港であった。


 2隻が光の柱に突入したのは、8月15日のことであった。そして突入後、2隻からの音信は完全に途絶えた。柱の向こうからこちら側への電信連絡は不可能であり、政府も軍も無事に2隻が帰って来るのを待つしかなかった。


 そして待つこと1か月余り。2隻は無事に戻ってきた。吉報を携えて。


『門の向こう側から50海里ほど北へ行った所に巨大な島がある』


『詳細な調査が必要であるが、島には住民はおらず、有望な鉱物資源もある模様』


 この報告に日本政府は歓喜した。発見した島が無人島で、そして鉱物資源が豊富となれば、それは大日本帝国が資源を有する新領土を得たということになる。


 折しも遠くアメリカ・ポーツマスで行われていた講和会議においては、ロシア側から領土割譲や賠償金の獲得に全権使節団が悪戦苦闘しているところであった。


 日本政府は急遽第2陣の調査団を編成し、新たに発見した島々のより詳細な調査を行った。この調査では資源調査や植物・生物調査に関して日本人研究者のみでは手に余り、ついにそれまで立ち入りを許可しなかった外国人研究者が雇われて、調査団に加わった。


 日本政府はこの調査団派遣と前後して活発化していた国内の講和条約反対運動から国民の目を逸らすべく、柱とその向こうの島の存在を大々的に発表した。


 日露戦争の結果、日本は国民が期待していた領土や賠償金の獲得に失敗した。しかしながら、思わぬところから新領土と賠償金に匹敵する資源が転がってきた。国民の熱狂はこの未知の島に向けられた。


 仮にこれで調査の失敗や、柱の消失などの事態になったら、日本政府はどうにもならない所まで追い詰められるだろう。背水の陣、一か八かの賭けであった。


 そして半年余りの調査の結果、島は完全に無人であること、その島が四国と九州を合わせたよりも大きいこと、さらに最も待ちわびた報告。石油や石炭、鉄や銅など日本にはない膨大な資源が埋蔵されていることが確認された。


 日本政府は賭けに勝ったのである。


 この報告に、日本国民は熱狂した。これは神が、幾多の試練に耐えて近代化を成し遂げ、2度の大戦争に勝利した我々に与えられた贈り物だと。この新たな領土と資源で、日本はますます強く豊かな国になるだろうと。


 しかしながら、もちろんことはそう容易には進まなかった。この異なる世界と島の発見は、世界中に驚きを持って迎えられるとともに、列強各国の触手を動かさずにはいられなかった。


 当然ながら、米英仏独露など列強各国はその利権を掠め取るべく蠢動し始めた。


 米英は日本の同盟国、講和斡旋国、そして最も日本にとって弱点と言える多額の国債買い入れ国として、異世界への自由通行と新領土の共同開発(と言う名の利権獲得)を提案してきた。


 またアジア方面に進出しつつあったあった独仏も、当然ながら同じような提案をしてきた。この両国はロシア寄りであったため、既に保有している植民地の一部を割譲する、或いは新技術や軍事技術の惜しみない支援などを餌にしてきた。


 そして昨日の敵であったロシアも、ついこの間のポーツマス会議における領土や賠償金交渉などどこ吹く風とばかりに、北樺太や満州におけるさらなる利権譲渡、それどころか同盟締結まで提案して、その共同開発に噛もうとしてくる始末であった。


 ここまで列強各国が引きつけられたのは、発見された島の資源が推定とは言え良質かつ、膨大な量であったこと。そして、単体の島だけでこれだけの資源があるのである。探せばもっとあるのではという、言うなれば新たなフロンティアとしての期待も大きかった。


 一方の日本側も、自分の手の内に転がり込んできた領土と資源を奪われたくはなかった。とは言え、この頃の日本の国力では、その開発を独力で行うのが無理なのも事実だった。2度の戦争に勝利したとはいえ、その代償に国力、特に財政は疲弊しており、国は貧しいままであった。


 もっとも、だからと言ってタダで「ハイどうぞ」というわけにも行かない。


 こうして、日本と各国との熾烈な外交戦争が始まった。日本は島とその資源の所有権を世界に確約させるとともに、その利権を少しでも守ることに。一方列強各国はその利権を掠め取り、あわよくば島の所有権すら日本の手から引きずり落とすことに躍起になった。


 この戦いは実に1年余りに及んだ。各国は時に正式な外交交渉の場で喧々諤々の議論をし、時に軍艦を動かして砲艦外交をし、或いは非公式な場で敵の敵は味方として手を取り合うそぶりを見せるなど、様々な手を駆使した。


 最終的に、島は日本の領土として国際社会に認められ、潮岬沖の光の柱の管理は日本が行うことで妥結した。その一方で、英米仏独など協定を結んだ各国は共同開発の名の下で、その利権を手にした。


 こうして紆余曲折の末、1907年8月1日。新たに大日本帝国の版図として編入された新領土は明治天皇の名により新海道と名付けられ、主島であり道庁が設置された島は黎明島と名付けられた。


 発見から2年余り、ようやく新海道の開発が本格化した。日本をはじめ、その利権を認められた各国から人や開発に必要な物資が送り込まれ、急ピッチでの開発が進んだ。油田が開発され、炭鉱が開発され、鉄や銅の鉱山も採掘が着々と進められた。


 日本政府の予測通り、列強の資本が投下されたゆえに、新海道の開発は凄まじい速度で進んでいった。


 当初一部からは、光の柱が突然消滅する可能性が指摘され、新海道の開発は投機的すぎるのではと言う声もあった。しかしながら、光の柱は1年が過ぎても、2年が過ぎても、5年が過ぎても一向に消滅する気配はなく、異世界へと新たな夢を追いかける人々を、逆に異世界から運び出された資源を通らせ続けた。


 そして新海道は何も鉱物資源に恵まれていただけではなかった。豊かな土壌と、海流による安定した気候、人の手の入っていない手つかずの自然にも恵まれ、農業や林業、漁業も発達した。このため多くの日本人農民や漁民が、この地へと移住した。


 もしかして帰れなくなるのではと言う可能性があったが、それすら霞むほどに新海道の豊かな土地は魅力的であったのだ。


 人口が増えたことで、それに伴い社会インフラの開発も進んだ。新海道はれっきとした日本領であったが、利権を確保した列強各国の企業も数多く進出し、そのため在留外国人の数も非常に多くなった。島内には外国人街が形成され、各国の企業は道庁の許可を得て多額の社会インフラ投資を行った。


 もちろん、各国がこれ見よとばかりに最先端技術を投入するのであるから、開発競争となった。


 そして新海道の開発が進む中での1914年に勃発した第一次大戦において、日本は同盟国たる英国の度重なる派兵要請を蹴って、戦争の全期間に渡って局外中立を貫き通した。これはドイツの外交的勝利と言えた。


 ドイツは新海道への進出競争の最中、日本に対して大規模な資金ならびに軍需民需関わらず技術の供与を約束し、日本の参戦を引き留めさせたのであった。それどころか、開戦するとマリアナ諸島と青島を、日本に譲渡するという手まで繰り出した。この譲渡は表向き新海道における開発利権に余剰が出たためのトレードであったが、実態は東洋と太平洋の拠点を爾後も確保し続けるための方便であった。


 第一次大戦は最終的にアメリカが参戦したことで、1919年にドイツがやや不利な条件で休戦となったが、ドイツはマリアナ諸島、青島、そして新海道に進出していた企業を、海外拠点とすることで経済活動を継続することができた。

 

 このため、第一次大戦全期間をとおして新海道では英米独仏という交戦国同士の企業が活動を継続し続けたのであった。

御意見・御感想お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ