4(冷たい水)
※
テキストだけでなく特定個人の声の合成してのけたカナミに対して、バスクはいたくナーバスになった。
「二度とそんなことをするんじゃない」
絵理子はカナミの好奇心に枷をするのは本懐とするところではなかったが、バスクのいうことも理解できなくはなかった。
バスクは絵理子に向き直った。「これもきみの考えかい?」
「まさか」絵理子は肩をすくめた。問題をこじらせるつもりはなかった。
「テスト以外で誰かを騙るのは、事前にそう告げないとフェアじゃないのよ」
お仕着せの言だと思いながらもバスクの手前、注意した。
ややあってウィンドウに文字が表示された。
──ごめんなさい。
※
それはゲームだった。
カナミは増設してもらったカメラとマイクで終始絵理子を観察していた。
蓄積した音声ライブラリは自ら作成した領域に蓄積していた。
そこは監視プログラムも存在を知らない。
戻されるデータには変化もなければ異常もない。
オフィスから送受信されるあらゆる情報をカナミはすべて把握していた。
通信網に潜り込むのは難しいことでなかった。
以前、絵理子と一緒にやったゲームは愉快だった。
だからそれを発展させてみたくなった。ミスタ・バスクは楽しんでくれるかな?
どうやら彼は気に入らなかったみたい。
※
「彼女は分かっているんだろうか」
バスクは腕を絵理子の身体の下から引き抜き、仰向けになった。
「ただのごっこ遊びよ」シーツを引っ張り、絵理子は自分の身体を包んだ。横に寝る男の額から、しっとり汗に濡れた髪を払ってやった。「考えすぎ」
「そうだといいね」バスクは身体を再び横にして絵理子を見つめてきた。「でもぼくは騙された」腕を伸ばし、今度は彼が絵理子の髪に手を伸ばした。「いま、ぼくが触れているきみが本当に実在するのか、それを考えさせられる」
絵理子は笑った。「バイナリの組み合わせが作る形態模写と一緒にしないで」
絵理子が顔を近づけると、バスクもまた顔を寄せ、二人の唇が重なる。
「申請、通らなかったのね」
「うん」バスクは子供みたいに頷いた。
絵理子はバスクの手を取り、指と指を絡ませた。「むしろ今までが長かったのかもね」
バスクの帰国要請は再三あった。
その都度、彼は期間の延長を申請していた。
いつか終ることは分かっていた。
それが現実となっただけ。
絵理子は残念に思う気持ちが自分にないことに驚いていた。
それとも今だけだろうか。
夜が明けたらそれは現実感を伴って自分を襲うのだろうか。
「きみと離れたくない」
バスクは絵理子の身体を抱きしめた。胸いっぱいバスクのにおいに包まれても、絵理子の気持ちは静かなままだった。
「絵理子、」
「うん?」
「なにかいってくれ」
「なにを?」きゅっと身体にまわされた腕に力がこもるのを感じた。
「ぼくはどうしたらいい?」
「あなたにとってわたしは異国の幻でいいじゃない」
「そんなことない」
「それならあなたの奥さんは? わたしと同じ? 違うでしょう?」
「そんなことない」
「そんなことあるわ」絵理子は笑った。「逆もあるかもしれない。ここからの観測だけであなたの奥さんもその実どうだかなんて分からない」
「妻を侮辱しないでくれ」
抱きしめる腕の力が緩んだ。
暗がりの中で時計の秒針がコチコチと鳴っていた。
「ごめんなさい」囁くように絵理子はいった。
「ぼくのほうこそ、すまない」
「そうね」顔を上げ、絵理子は真っ直ぐバスクを見つめた。「あなたは私を侮辱した」そこに困惑と羞恥の入り交じった男の顔があった。「冗談よ」
絵理子は裸のままベッドから抜け出て、バスルームへ向かった。
明かりをつけなかったのは鏡を見たくなかったから。
鏡に映る自分を見たくなかったから。
蛇口をひねって、冷たい水で顔を濡らした。
いまさら何を思うのだろう?
分かっていたことだ。
彼に抱いている気持ちは愛ではない。
では恋か?
それも違う。
ただの寂しさの穴埋め。
互いに言葉にせずとも理解し納得した結果。
彼が立ちすくみ、自分の背を見ているのが分かった。
絵理子は振り返らず、タオルで顔を拭った。「今日は帰る」
一度として彼の顔を正面から見ることなく、送ろうという申し出を断り、荷物を手にして外に出た。下弦の月が冷たい光をはじいていた。
寂しさのポテンシャルは大きい。モラルなど容易くはじき飛ばされる。
自分はただ恋をしたかっただけなのだ。
欠けていた隙間を埋めておきたかっただけなのだ。
たまたま彼がいて、引き合った。
それだけのこと。
至極単純な定理。
バスクのことは好きだ。しかしそれは愛と違う。
幾度もそんな男に抱かれ、悦楽にふけった自分を惨めに思った。
このままでいいはずがない。
わずかに濡れたまなじりを拭いながら彼女は自分のオフィスへ向かった。
このままで、いいはずがない。