1(曖昧で身勝手)
ホログラム・ガール
ポン、とビープ音が鳴った。
右隣に置いた旧式の小さな専用モニタにメッセージウィンドウが開く。
カナミだ。
絵理子は書きかけのメールをうっちゃり、メッセージに目をやる。
──カメラつないでいい?
「いいよ」キーを打ち込んで、「マイクも」とつけ足した。
すぐさまモニタの一角に絵理子の横顔が映し出された。
それを見るのは余り好きでないけれども、優先させるべきはカナミの好奇心だ。
カメラとマイクを接続した当初、カナミは気ままに起動させてはログを残していた。
監視カメラと同じ趣であるがそこはやはり違う。
ふと、絵理子はカナミの判断力の検証を思いついた。
はたして曖昧で身勝手なヒトの機微をどう判断するだろう?
カナミは事前に許可を取ればよいと解釈した。
結果に絵理子は満足した。
カナミは優秀な生徒だ。
ローカルはもちろんのこと、グローバルネットワークに繋がれ、様々なテキスト、イメージやビデオを自由気ままにアクセスしてはログを分類、整理をして判断に活用していた。
最近の関心はほとんど変化のないオフィスの中の絵理子を見ることだ。
そのことをフェローのビル・バスクにいうと、彼は、ははあ、と間の抜けたような返事をしながらも感心していた。
なるほど、どんな動画も継続性はなく、都合よく切り取られた一過性の産物、誰かの意図の断片だ。
たといホームビデオであっても始まりと終わりがあり、それに至る過程と、その後に続く生活がない。
想像することは出来ても、やはりそれは作られた世界でしかない。
カナミが欲しているのは編集された世界でなく、継続と変哲の乏しい、雑多で退屈で必然性もなく、思いもよらない出来事などめったに起きることのない日常なのだ。
しかしそれはオフィスという小さな世界に限定される。
世界各地のライブカメラへのアクセスもしていたようだが、オフィスの光景とは違う物だと感じるらしい。
絵理子はバスクにカメラとマイクをカナミの好きな方向へ稼働できるよう改造してもらった。
カナミはそれを喜んだ。
小さな世界が、少しだけ広がる。
※
「きみはカナミのことをあの子と呼ぶね」
あるときバスクが寝物語でいった。「彼女ではなく」
絵理子は額にかかる髪をかき上げた。「性別設定してるわけじゃないし、よしんばしていてもあれはあれよ」
暗がりの中で彼は小さく笑った。「カナミってふつうは女の子の名前らしいね?」
「ええ」絵理子は否定しなかった。「単純にわたしが女だからかもしれない。どうしたって女としてのわたしの部分が反映されるから」バスクの腕の中に身を寄せ、身体を小さく丸めた。「でも、あれはあれでヒトじゃない」
「娘でもない?」
今だけは恋人のような男の鼻先を指先でぴん、と軽くはじく。「感傷的」
「カンショウテキ?」
それには応えず、絵理子は心地よい疲労に身をゆだね、静かな眠りに落ちる。
とろりと意識が闇に溶ける一瞬、ばか、と呟く。
※
それは気分転換を兼ねた暇つぶしだった。
実験で思うような結果が出ず、行き詰まっていた所為もある。
グローバルネットワーク上にはオープンソースの様々なライブラリが公開されている。
個人が週末の時間潰しに作ったものであっても、中には高度で大学の基礎研究はもとより企業レベルでも充分活用できるものがそこかしこに、しかも無償であった。
絵理子はそれらを組み合わせ、不足や不満、補正部分を自分で記述し、アルゴリズムの調整をした。
なかなか面白い試みだったと思う。
カナミは優秀な生徒だ。
絵理子の教えをつぎつぎ吸収する。
絵理子はバスクにだけその存在を教えた。
バスクはカナミを知るといたく興奮した。
施設のいたるところから余った資材を調達しては機械的増設をするとともに、カナミの基部であるアルゴリズムの改修も提案した。
絵理子はそれを採用した。
カナミはかなりのことを自己で判断できるようになった。
そして容量が許す限りどん欲に知識を蓄え、パンク寸前となった。
「知恵熱だね」バスクはいった。「幾ら容量を増やしても同じ問題はすぐに起きる」
絵理子は同意した。
最も安易で安価な解決手段は機械的な増設だ。
しかしそれはそのまま電気使用量に反映され、遠からずカナミの存在は管理部に知られてしまう。
それは絵理子の本懐とするところでなかった。
ある晩、ふと思い立って絵理子はベッドの端に腰かけ、自分の発想に落とし穴がないか思考実験に没頭した。
もしかしたら可能ではないだろうか。
「どうしたんだい?」
目をつむったままバスクが静かに声をかけた。
なんでもない、と絵理子は答えた。
まだ誰かに話せる段階ではない。
リポートの期限も迫っている。
しばらくはまとまった時間が作れず、直ぐ取り掛かれないことを残念に思う一方で、眼前の仕事を片付ける意欲が沸き起こった。